口づけの意味
「もう用はないですか?」
ふいにそんな言葉がかけられて、物思いにふけっていたローゼマリーはハッと我に返る。
問いかけてきたのはもちろんカミラだ。
カミラの世話は完璧で、いつだって『追加でお願いすること』はない。それでも毎回、律儀に訊いてくる。
「ありがとう。大丈夫――」
いつものように礼を言って下がってもらおうとしたローゼマリーだったが、カミラほど、このところずっと頭の中に居座っていた疑問を投げかける相手に相応しいものはいないのではないかと気づく。
「あの!」
声を上げると、忠犬よろしくローゼマリーの返事を戸口でジッと待っていたカミラが、「何か?」という風情で首をかしげた。
ローゼマリーはごくりと唾を呑み込み、口を開く。
「あの、ヴォルフさまって、他の子たちともこういうふうに、してたの……?」
「こういうふう、とは」
「その、ほら、こうやって毎晩一緒に寝たり、とか……――とか」
いや、訊きたいのはそこではない。その先だ。だが、言葉にできない。
後半はモニョモニョと濁したローゼマリーに、カミラは彼女の葛藤などまったく気づいた風もなく淡々とかぶりを振る。
「いいえ。ローゼマリーが初めてです」
「え」
「他のヒトの娘たちには、吸血の際に顔を合わせるだけでした。三から五年に一度程度が殆どです」
「三、年……? 三日、じゃなくて?」
「はい。一番少なかった贄は、最初の一度きりでした。その一度で、とても騒ぎましたので。他の贄もヴォルフさまを拒んでいましたから、ヴォルフさまも近寄ろうとしませんでした」
カミラの言葉に、ローゼマリーはあんぐりと口を開けた。
ローゼマリーも、最初こそずいぶんと間隔があいていたけれど、今となっては七日とあけずに血を飲まれている。確かにヴォルフにとって血は必須の栄養素ではないと聞かされている。しかし、三年、あるいは三十年も、飲まずにいられるなんて。
それに、贄の娘たちに近寄ろうとしなかった、とは、いったいどういうことなのだろう。
「だって、じゃあ、アレは……」
ローゼマリーの脳裏に浮かぶのは、吸血のことではない。それがないときに、まるでその代わりとばかりに寄こされる、口づけのことだ。
吸血は相変わらず週に一度かそこらだけれども、口づけはずいぶん増えていて、ふとした時に落とされる。しかも、唇にだけでなく、折あれば、チョコチョコと。
「あれ?」
意識せぬままこぼれた呟きに問い返されて、ローゼマリーは勢いよく首を振る。
「あ、ううん。なんでもないの。ありがとう、もういいよ」
そう言ってしまえば、カミラはそれ以上は追及してこない。
「では、また明日」
いつものようにそれだけ残して部屋を出て行った。
一人残され、ローゼマリーは膝を抱えて考える。
(なら、ヴォルフさまは、なんであんなこと)
ローゼマリーは窒息しそうなほど強く、枕に顔を押し付けた。
口づけも、贄の娘に求められるものの一つなのかもしれないと、思っていた。ヒトのように恋愛感情によるものではなくて、何か、血の代わりに得るものがあるのかもしれない、と。
だからこそ、他の贄の娘にもしていたのかと思って、何だかモヤモヤしていたのだ。
けれど、そうではないという。
「じゃあ、何で……」
ローゼマリーにだけすることだというのなら、その理由は何なのか。
ヒトならば、好き合うもの同士がするものだ。
(だったら、ヴォルフさまが……?)
ヴォルフはローゼマリーに恋愛感情を持っている。
そんなバカみたいなことを考えてしまって、ローゼマリーは慌ててかぶりを振る。
――それは、ない。
きっと、絶対。
ヴォルフがあまりに優しく触れてくるから、時折、慈しまれているのかと勘違いしそうになってしまうほどだ。
(でも、きっと、そうじゃない)
ローゼマリーは唇を噛む。
あれも贄の娘の役割なら、仕方がないと思えるけれど、あれは、想い合っている者同士がする行為のはず。
もしもヴォルフが、単なる好奇心とか、そういう気持ちでしているのなら。
ヴォルフの中にほんの一滴たりともローゼマリーに注ぐ心がないのなら、もうして欲しくない。
「だって、わたしは……」
ポツリと、呟いたときだった。
不意に、扉が開かれる。
ビクッとはね起き、ローゼマリーは髪が広がる勢いでそちらに振り向いた。
入ってきたのはもちろんヴォルフだ。
ローゼマリーは彼が寝台に乗ろうと身を屈めたところで、ハタと我に返る。
ヴォルフの手が届く範囲に入ったら、きっとまた抱き寄せられて口づけられる。
そうなると、ローゼマリーは何も言えなくなってしまうのだ。
「ちょっと、待って! 待ってください」
声を上げた彼女に、ヴォルフが目を向けた。
ローゼマリーは小さく咳払いをして、気持ちを整える。そうして、彼女が待ったをかけたところで動きを止めたままのヴォルフを見た。
「その、楽に、してください。座るまでなら、いいですよ?」
ローゼマリーの許しに、彼は寝台に腰を下ろす。
気持ちヴォルフから距離を取り、真っ直ぐに彼を見た。
「その、えっと……口づけ、の、こと、なのですけれど」
口ごもりながら切り出したローゼマリーに、ヴォルフが眉根を寄せる。
ローゼマリーは両手を拳に握りしめつつ、もう少し言葉を加える。
「その、ヴォルフさまにとって、あれは、どういう意味があるものなのでしょうか?」
「意味?」
「はい」
気合を入れて頷いたローゼマリーに、ヴォルフはしばし考えるそぶりを見せる。
そして。
「特にない」
「……ない……?」
「ああ」
「では、何故するのです?」
「したいからだ」
サクリと答えられて、ローゼマリーは思わず寝台の敷布を握り締めた。
「何か、こう、吸血と同じような意味があるとかではなく?」
「そんなものがある訳がないだろう」
何をバカなことを言っているのだと言わんばかりのヴォルフの顔だ。
やっぱり、彼には特別な想いなどないのだ。
ローゼマリーは、彼の『特別』などではないのだ。
当たり前のことが、ぐさりと胸に突き刺さる。
あり得ないと思っていても、心の片隅で期待してしまっていたのかもしれない。
「口づけは、したいから、という理由でするものではありません!」
思わずそう声を上げてしまったローゼマリーだったが。
(どうして、そんな顔をするの?)
ヴォルフは、いつだって余裕しゃくしゃく、どんな時でも泰然としている。
しかし、今、彼の眼に浮かんでいるのは、困惑の色だった。




