初めての想い
ヴォルフのことを、恐れはしない。
彼の目を真っ直ぐに見つめて、娘は、ほんのわずかな揺らぎもない声でそう告げた。
その眼差しにも声にも、偽りの臭いは微塵もない。
本当に、本心から、ローゼマリーはそう言っているのだ。
再び腕の中に囲い込んだ彼女の温もりに、思わず吐息がこぼれる。
ヴォルフのことを厭わない娘が初めてなら、こうやって、ヴォルフの方から手を伸ばしてしまう娘も初めてだ。
(彼女と過去の贄と、何が違うというのか)
ヴォルフが何度自問しても、その答えは出てこない。
吸血には、快楽を伴うのだという。
以前、レオンハルトがそう言っていた記憶がある。鼓動を速め、より血液を送り出しやすくするためなのだと。そして同時に、悦楽に酔わせ、獲物が自ら進んで身を差し出すようにするためだと。
確かに、かつての贄たちもまたローゼマリーと同様に、行為の最中には従順に、抗うことなくその血を差し出していた。だが、彼女らは皆、ヴォルフが離れると同時におぞましげに顔を歪めていたのだ。
しかし、どれほど忌まわしげな眼を向けられようが、ヴォルフは気にしたことがなかった。
彼女たちがどう反応しようと、ヴォルフには興味がないことだったから。
なのに。
(この、娘は)
ヴォルフは柔らかなローゼマリーの身体を一層深く引き寄せる。
(この娘も、いつかは我を忌むべきものとみなすようになるのか)
浮かんだその考えに、ヴォルフの背にゾクリと不快な怖気が走った。
もう、何度もローゼマリーの血を飲んだ。
だが、これまで、彼女が歴代の贄のような眼差しを彼に向けてきたことはない。
――これまでは。
(いつまで、だろう。いつまで、この娘は変わらずにいられるのだろう)
ヴォルフはそっと身体を離し、腕の中のローゼマリーを見下ろした。
彼の視線を感じたようにローゼマリーが顔を上げ、目が合うと、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。
一瞬、ヴォルフは、彼がまだ目にしたことのない、そしてこれからも見ることが叶わない陽の光というものを、見たような気がした。
ローゼマリーのその微笑みに引き寄せられるように、ヴォルフは首を垂れる。
何故、自分がそのような行為に及んだのか、彼にも解からない。
けれど、気づけば、ローゼマリーの柔らかな唇に自分のそれを重ねていた。
それが口づけというものであるということは、ヴォルフも知っている。レオンハルトが持ち込む本の中に、その描写があるものがあったから。
文字として読んだときには、言葉を発するのと物を食べるのが役割である場所をくっつけるという行為に何の意味があるのかと、眉をひそめるばかりだった。
しかし、今は。
己の唇で感じるローゼマリーの柔らかさ、温かさに、陶然とする。
もっと、欲しい――込み上げた、切望ともいえる欲望。
今、ヴォルフのうちにあるものは、吸血欲求によく似ているようでいて、何かが違っていた。
共通するのは、欲する気持ち――強烈な、『コレが欲しい』という我欲。
そして同じくらい強くあるのは、ローゼマリーに傷一つつけたくないという、そよ風すらも当てたくないという、相反する想い。
庇護欲と支配欲が混然としていて、ヴォルフは混乱する。そのどちらも、永い彼の生の中で抱いたことのない欲求だった。
ローゼマリーを感じれば感じるほど、ヴォルフは益々彼女が欲しくなる。彼女が笑うのを見ると、彼女に触れて、その温もりがこの身に滲み込んでくると、ヴォルフは自分の中の暗い虚に光が投げ込まれたような心持になった。
だが、どこまで行けばその虚が満たされるのか――満たされることができるのか。
行き先が判らない。
行く先に何が待っているのかも判らない。
(我は、何を求めているのだ……?)
それすらも、判然としない。
今は、ただ、腕の中の娘を欲する気持ちだけがあった。
その欲求に抗うことなくローゼマリーを貪っていたヴォルフだったが、腕の中の彼女が唐突にクタリと力を失ったのを感じて我に返る。
顔を上げて見下ろせば、彼女は目を閉じ息を切らしていた。
「ローゼマリー?」
呼んでも、応答がない。
「ローゼマリー?」
軽くゆすってみても、目蓋は上がらない。
ヴォルフは眉間にしわを寄せて彼女を見つめた。
温かいし息もしているのでひとまずはホッとしたが、どうやら、意識が飛んでしまったらしい。考えてみたら彼女に息継ぎを許していなかったから、そのせいかもしれない。
ヴォルフは渋面のままローゼマリーを抱き上げ、しばし思案する。
取り敢えず、横にしておいてやるべきか。
それに適した場所と言えば寝台で、整えられている寝台はローゼマリーの部屋しかない。ヴォルフはそこを目指して身を翻す。と、広間の入り口に立ったままだったらしいカミラが、歩み寄ってきた。
「私がお連れします」
言いながらカミラはローゼマリーを抱き取ろうと両手を差し出してきたが、ヴォルフはそうしたいとは思えなかった。そうしたくないと、思った。
彼はローゼマリーを包む腕にわずかに力を籠める。
「いい。我が行く」
「ですが、彼女の部屋は陽が射しています」
「ならば、閉めに行け」
「はい」
頷いたカミラは踵を返して去って行く。それよりも速度を落として、ヴォルフはローゼマリーの自室を目指した。




