それは、儚い泡沫の
ローゼマリーは小走りで駆け寄ってくると、戸口に佇むヴォルフの手を両手で握り締めた。体温のない彼と違って、彼女の身体は温かい。
今までの贄とそう大差がない温度のはずだが、彼女たちでは自分との違いに気付いたことがなかった。
ヴォルフはつながれた手を見下ろす。
何故、ローゼマリーだけがその温もりを彼に実感させるのか。
何故、ヴォルフは、自分の手が彼女と同じ温度をしていないということが、こんなにも気になるのか。
ヴォルフの肌は、触れ合う場所からローゼマリーの熱を奪う。ヴォルフが温まる分だけ、ローゼマリーの手のひらは冷えていく。
こんなところでも、自分は彼女から奪うばかりなのだ。
ローゼマリーの小さな手を握り返すこともできずにいるヴォルフに、彼女が弾む声を投げてくる。
「こちらにいらしてください」
嬉しそう、いや、得意そうと言ったらいいのか、彼女は顔を輝かせてヴォルフの手を引っ張った。
ローゼマリーに導かれるまま少し奥の方に進むと、植木鉢の中で咲き誇る大量の花が、弧を描くような形で並べられていた。そう言えば、部屋に入る少し前から、香りはしていたか。
「どうですか?」
弧の真ん中にまでヴォルフを連れて行ったローゼマリーが、そこで彼を見上げてきた。
「どう、……?」
何を問われているのかも解からず、ヴォルフは思わず呟いた。
花ならローゼマリーが毎日あちらこちらに飾っているから、今さら珍しくもない。それらと何が違うというのだろう。
ローゼマリーが得意満面な理由が判らず、ヴォルフは眉根を寄せた。そんな彼を、彼女が見上げる。
「ヴォルフさま、虹ってご存知ですか?」
「虹?」
「はい、ほら、雨上がりの空に見える七色のアレ、です」
それはもちろん知っている。本の中でのみ、ではあるが。
頷いたヴォルフに、ローゼマリーは片手を流して並べた鉢植えを示す。
「ヴォルフさまに見て欲しいなって思ったんですけど、虹って昼間しか出ないでしょう? だから、何か他のものでお見せできないかなって」
言われて、ヴォルフは再び花の群れに目を戻した。
赤。
黄色がかった赤。
黄色。
緑。
淡い青。
濃い青。
結構な面積がある広間のおよそ四分の一を使い、そんな順番で、色とりどりの花が大きな半円を描いて並べられている。確かに、本の中で読んだ虹は、空に弧を描く七色の線だとあった。
「レオンハルトさんに頼んで、色々なところから種を集めてもらったんです。本物の虹は、もっとキレイなんですよ。雨が降ったからっていって、いつでも出るわけじゃないんです。だから、たまに見られると、うわぁっていう気持ちになるんです。だいたいは雨が降ってすぐに晴れた時なので、その晴れた空と併せて、余計に、なんていうか、大事な宝物をもらった、みたいな」
そう言ったローゼマリーは、心底、嬉しそうだった。
ヴォルフは、その笑顔のまま光の中に居る彼女を想像する。
難しかった。
難しかったから、見てみたいと、思った。
だが、それは、ローゼマリーがけっして彼には手が届かない存在となることを意味している。
彼女を見つめて微動だにしないヴォルフに、ローゼマリーが首をかしげる。
「ヴォルフさま?」
彼の名を呼ぶ声に惹かれるようにして触れてみると、やはり、ローゼマリーは温かった。その温もりで、彼女がここにいることが、確かめられた。
ヴォルフと眼が合えば、ローゼマリーは当然のことのように笑顔になる。
彼と眼を合わせた贄も、こんなふうに彼に笑いかけてくる贄も、初めてだった。
ここに連れてこられた娘たちは、皆、十年ともたずにおかしくなってしまった。自らの意志で赴いたはずの最初の贄ですら、例外ではなく。
(この娘も、いずれそうなるのだろうか)
ヴォルフから顔を背けるようになり、彼にこんな満面の笑みを見せることも、なくなるのだろうか。彼が知らぬ陽の光を思わせるこの輝きを、失ってしまうのだろうか。
そう思った瞬間、彼の足元が揺らいだ気がした。
ヒトなどあっという間に消えてしまう、取るに足らない存在だ。
ほとんど永遠に生きるヴォルフにとって、ふらりと現れたかと思ったら次の瞬間には潰れてしまう、儚い泡沫のようなものだ。
――そんなものに気を取られるなど、無駄なことだ。
何かを圧し潰すように胸の中でそう呟いたヴォルフだったが。
「どうですか? キレイでしょう?」
そう言ってローゼマリーがまた笑い、刹那、ヴォルフの中に強烈な渇きが込み上げる。
彼女の柔らかな喉に牙を突き立て、溢れる温かな血潮を貪り、その全てを奪いたいという、欲求。
そんな自分に、ヴォルフは胸が悪くなる。今まで何の抵抗もなくできていたその行為に、嫌悪感を抱く。
「ヴォルフさま?」
首をかしげて見上げてくるローゼマリーの澄んだ青い瞳の中に浮かぶのは、ただただ、ヴォルフを気遣う色ばかり。
彼女のその目は晴れ渡る空のようだと、レオンハルトは言っていた。
ヴォルフには、けっして見ることが叶わない、色。
それを目にすることができないということは、ローゼマリーとヴォルフの間に横たわる、決定的な懸隔だった。
ヴォルフはローゼマリーの腕を掴んで、胸の中に引き寄せる。
自分の中にすっぽりと包み込めてしまうほど、小さい。
華奢な肩に、指先で折ることができてしまいそうな、細い首。
その首に、食らいつきたい。
食らいついて貪って、この渇きを癒したいという衝動が、腹立たしかった。
ヴォルフはローゼマリーの身体に回した腕に力を籠める。
そうすることで、このあさましい欲望を抑えられるような気がした。
そうできたらいいのにと、思った。




