小さな欠片
ヴォルフの手がローゼマリーの頬に触れる。
添えられただけのそれは大きく、そしてやはりひんやりとしていた。
ローゼマリーは無意識のうちにその手のひらに頬を寄せながら、ヴォルフの紅い瞳を見上げる。目蓋で半ば隠された眼差しは、彼女の首筋に向けられていた。そこに潜むものに、ローゼマリーは眉をひそめる。
ヴォルフに血を飲まれるのはこれで三回目だ。
一度目は、何が何だかわからないうちに食らいつかれ、そして突き放された。
二度目は、彼女が彼を怒らせたのかと思うような始まりで、そして終わりは労りに満ちていた。
この、三度目は。
(どうして、そんな……?)
ためらいがちな触れ方と、逸らしがちな視線と。
ともすれば、彼女のことを怖がっているのかと思ってしまう。
何故だろう、と考えて、ローゼマリーは一つの可能性に行きついた。
もしかして、ヴォルフは本当に怖がっているのかもしれない――ローゼマリーを怖がらせることを。
「あの」
ローゼマリーは彼女の頬に触れたまま何かを堪えるように立ちすくんでいるヴォルフに、そっと声をかけた。一拍遅れて彼の目が上がり、視線が絡む。
その深紅の瞳に、感情の色はない。
けれど、きっと、ないのではなく、見えないだけなのだ。昼に星が見えないように。
そう思ったから、彼のその眼を覗き込むようにして、ローゼマリーは伝える。
「大丈夫、怖くは、ないですよ?」
その言葉には、ほんの少しのウソが混じっている。けれど、ヴォルフのことが、血を飲まれるということそのものが怖くはないのは、本当だ。
台詞を裏打ちするように微笑んで見せると、ヴォルフは微かに目を見開いた。ローゼマリーの頬に触れる手に、わずかばかり力がこもったのが感じられる。
それから更に間を置いて、ヴォルフはローゼマリーの腰に腕を回してきた。すくい上げるようにして彼女を持ち上げ、自身もわずかばかり身を屈める。
無意識のうちにローゼマリーが頭を傾けると、皮膚が薄い首筋の、敏感な場所に冷ややかな彼の唇が触れる。ヒトと同じ温もりがないことに、何故か、ほんの少しの寂しさを覚えた。
ローゼマリーの首筋に顔を埋めたまま、ヴォルフは身じろぎ一つしない。ほんの少しでも彼女が抗う気配を見せれば、彼はすぐにその手を放すだろう――そう思わせた。
ヴォルフは、魔物だ。
なのに、どうしてこんなにもローゼマリーを餌とすることにためらうのだろう。
彼のそのためらいが、ローゼマリーの胸を締め付ける。
ローゼマリーは両手を上げて、ヴォルフの首に回す。彼に捕らえられているからではない、彼女自身が望んでいるから、その腕の中にいるのだと伝えたくて。
ローゼマリーの手が触れると、ヴォルフがびくりと身を震わせた。刹那、彼の腕に力がこもり、拘束が強まった。と同時に硬く鋭いものの、感触。
それが肌に触れたと思ったら、次の瞬間、ずぶりとそれが埋め込まれてきた。
痛みは、ない。不思議なほど、痛くはなかった。
わたしを、拒まないで。
わたしを、受け取って。
ローゼマリーはヴォルフに回した腕に力を籠める。
それは、絶対的な力を持つものに対する従属本能のようなものかもしれない。
それでも良かった。
ローゼマリーはヴォルフの為に何かがしたかった。彼を受け入れ、包み込み、冷ややかなその身体に、己の温もりを分け与えたかった。
ヴォルフに貪られ、どれほど経った頃だろう。
ふと気づくと、ローゼマリーは横抱きにされてヴォルフの腕の中にいた。これまでと同じように、四肢の力は抜けきっていて、指先一つ、動かせない。
幾度か目をしばたたかせていると、彼女を包み込んでいるヴォルフの腕に力がこもった。
見上げると、紅い瞳に微かな曇りがある。
どうしたのかしら。
ローゼマリーは眉をひそめたが、その曇りの理由を彼女が問うより先に、ヴォルフが口を開く。
「身体は?」
端的な一言で、ローゼマリーは「ああそうか」と口元を緩ませた。彼は、自分の心配をしてくれたのかと。
「平気です」
微笑みと共にそう答える。と、彼女の笑みに安堵したように、ヴォルフの顔の強張りが解ける。
その些細な変化に、キュウとローゼマリーの胸が締め付けられた。
血を食らうこの魔物は確かに喜怒哀楽は乏しいかもしれないけれど、よくよく見れば、結構表情豊かかもしれない。
(彼のことを、もっと解るようになりたいな)
自分が拾い子だということを重々承知しているローゼマリーは、今まで、他人に何かを求めたことがほとんどなかった。弟のように思っているテオとの間でさえ、そうだった。可愛がってはいたけれど、心の中で一線を引いて、それ以上は立ち入らないようにしていた気がする。
だから、ヴォルフに対してそんなふうに思ったことに、驚きと、少しばかりの不安も覚える。
その不安が促したのか、意識せぬうちにローゼマリーはヴォルフに向けて呟いていた。
「あなたのことを、知りたいです」――と。
告げられたヴォルフはと言えば、眉をひそめただけだ。
ローゼマリーは彼のその反応を忌避ではなく困惑だと受け止める。
(拒まれているわけではないのなら、やってみたい)
どうせ、たった三十年のこと。
ローゼマリーにとっては人生の大半でも、ヴォルフにとっては瞬き一つする間くらいのもののはず。
その瞬きの間に、彼の中に何か小さな欠片だけでも残せたら。
それが、いつか彼が動き出すための引き金になってくれればいいなと、ローゼマリーは胸の内で呟いた。