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はじまり

 男と、少女。


 ヴォルフは冷やかな眼差しで眼前にひれ伏す二体のヒトを見下ろした。


 男は、五十歳にはなっているだろうか。長い間肉体労働に従事してきたのだろう、背はそれほど高くないが、がっしりとした身体つきをしている。頭髪は半白だ。

 少女は多分十代半ばか後半か。もう少女というより娘と称した方が良いのかもしれない。茶色の髪で、伏せているから容姿は判らない。男とは打って変わって、華奢な肩をしている。

 彼がこの地に城を構えてから数百年になる。数百年――あるいは、千年になるのかもしれない。


 判らない。

 正確な年月など覚えていない。いや、そもそも数えることすらしてこなかった。無限に近い生を持つ身にとって、時間とはただただ流れゆくものでしかないのだから。

 ヴォルフには全てが些末なことで、曖昧模糊としている。

 今、唯一彼にもはっきりと断言できることは、この城にヒトが訪れたのはこれが初めてだということだ。


 ヒトという種のことは当然知っているが、ヴォルフには無縁の存在だ。確かに、姿かたちは彼に似通っている。だが、そんなことに意味はない。ヒトと彼とはまったく別個の種だ。熊や梟、狼――そんなものと一緒で、単に城の外をうろつき回るだけのもの。ただ、獣はせいぜい十かそこらの個体が集まる群れを形成する程度だが、ヒトは森の外の遥か南の地に『都』と呼ばれる集落を作って生活しているはずだ。

 個としてのヒトは脆弱で、数を頼んで生きていく必要がある。その『都』から離れては生きていかれない。

 そして、ヴォルフが住まうこの森は深く、獣どころか魔物も徘徊し、ヒトが住むには適していない。この森自体が『都』から遠く離れているから、何かの拍子に迷い込んでしまうということもない。

 だから、ヴォルフはヒトと関わることなく過ごしてきた。


 恐らくこの先もヒトの姿を見ることすらないだろうと思っていたが、風向きが変わったのはつい先ごろのことだ。

 この城からさほど遠くないところに三十ほどのヒトの気配が留まるようになったことには気付いたが、それきり忘れていた。

 つい先日のことだったような気がするが、五年は過ぎているかもしれない。

 いずれにしても、ヴォルフにとっては瞬き一つに等しいわずかな時間だ。

 ヒトの方もこの城があることには気付いていたはずだが、彼らが姿を見せたことも、彼らに姿を見せたこともなかったから、ヴォルフの存在を知っているとは思わなかった。

 しかし、こうやって訪れ、こんなふうに怯えているということは、彼の存在のみならず、彼が何ものなのかも多少は知っているということなのだろう。


 突然近寄ってきた彼らに対して、興味はない。

 だが、彼らを拒むほどの意欲もない。

 だからヴォルフは促しを投げかけた。


「で?」


 ガランとした広間に響いたそのたった一声に、二人がビクリと身を震わせる。

 彼らがヴォルフを恐れているのは明らかだ。その恐れを押してこの場に留まるほどの差し迫った事情があるということか。

 そんな考えがチラリと頭をよぎりはしても、やはり、ヴォルフの気持ちは動かない。

 安楽椅子の肘掛けに頬杖を突き、ヴォルフは半眼で二人を眺める。

 この瞬間に跳び上がって逃げ出したとしても、まったく不思議ではない。それほどまでに、彼らは緊張をみなぎらせていた。

 しかし、ヴォルフのその見込みに反して男の方が顔を上げる。奥歯を食いしばり、血の気を引かせた顔を。


「貴方様にお願い――いえ、取引の提案があってまいりました」

 決死の覚悟と言わんばかりの形相で、男が言った。

「取引?」

 先ほどの一声と全く変わらぬ平坦な声で繰り返したヴォルフに、男が頷いた。

「はい」

 男はごくりと唾を呑み、そして顎を上げてヴォルフを見上げる。

「贄の献上と引き換えに、獣や魔物、あるいは、ヒト――我らの村を脅かすものからの守護を、お願いしたく存じます」

「贄?」

「その、貴方様はヒトの血を必要とされるのでしょう?」

「血? われが、か?」

 興味の欠片もなさそうなヴォルフの声は、男の予想から外れたものであったらしい。

「貴方様はヒトの血を糧としていると……」

 戸惑いで視線を揺らした男に、ヴォルフは小さく肩をすくめただけだった。

 確かに彼は生き物の血を摂取する。血はすなわち生命力そのものだからだ。それを得れば、力が増す。

 しかし、だからと言って、ヴォルフにとってなくてはならないものという訳ではない。他者から何かを受け取らなくても、彼は死なない――死ねない存在なのだ。


「我に血は必要ない。お前たちもこの森を出て生きればいい」

 そもそも、森はヒトが生きるのには向いていない場所なのだ。男が言うように獰猛な獣や到底ヒトの力の及ばぬ魔物がうごめいているし、陽の通らぬ深い森は畑を作るにも難儀する。

 おざなりにそう提案したヴォルフに、しかし、男はかぶりを振った。

「それはできません。我々は、訳あって都を追われました。人の目に触れずに生きていかねばならないのです」

 男の台詞は切実な響きを含んでいたが、ヴォルフに届くものはない。

 森にいたいと言うならそうすればいい。

 用件は聞いた。

 そしてその用件はヴォルフにとって何ら意味を持たないものだった。

 端からないに等しかった関心は完全に底をつく。


 無言で立ち上がったヴォルフに、男が慌てた声を上げる。

「あの、――」

 引き留める言葉を発しかけ、それをすることで何が起きるのかを――ヴォルフの怒りを買うかもしれないことを悟ったのか、男は口ごもった。

 ヴォルフは彼に一瞥を投げたが、その眼差しに刺し貫かれたように男は身をすくませる。彼は、もう語る言葉を持っていないようだ。あるいは、あったとしても出す気をくじかれたのだろう。

 硬直している男にいよいよこの場にいる意味がなくなり、ヴォルフは身を翻しかけた。が、そこに新たな声が響く。


「お待ちください」


 その呼びかけで、ヴォルフはこの場にいる残る一人のことを思い出した。

 そちらへ目を遣れば、伏せていた娘が立ち上がり、男よりもよほど強い眼差しをヴォルフに向けている。

「これは『取引』ではありません。私たちからの一方的な『お願い』です。どうか、私の血と引き換えに、村を守ってください」

 凛とした声に震えはない。ヴォルフに向ける、眼差しにも。

 ヴォルフは改めて娘を見下ろす。

「お前は我の餌になるのだぞ?」

「ええ」

 ためらいもなく頷いた娘に、ヴォルフは眉をひそめる。

 進んで餌になりたがる獣はいない。ヒトと獣は多少違うところがあるようだが、生存本能にはそう大差はないだろう。


 声に出さないヴォルフの疑問が届いたように、娘が微かに笑んだ。

「私は、この身よりも村を守りたいのです。村を――あの人を守れるならば、この身など惜しくはありません」

 その台詞の中の一つが、ヴォルフの気を引いた。

「あの人?」

 繰り返した彼に、娘はまた微笑んだ。先ほどよりも、深く。

「はい。あの村には、私が愛する人がいます。でも、この森には魔物がいて、日々その脅威にさらされています。どうにか凌いできましたが、いずれ被害が出るのは避けられません」

 娘はキュッと唇を引き結び、ヴォルフを見据える。

「私は彼を守りたい。この身でそれが叶うなら、喜んで貴方に捧げます」

 ヴォルフはしげしげと娘を見つめた。

 娘は目を逸らさず彼の視線を受け止める。

 ヒトとヴォルフとでは存在の格が違うから、彼女の本能が彼を恐れるはずだ。実際、男は怯えきっている。

 なのに、今、娘からはそれが微塵も感じられなかった。


(『愛するものを守りたい』からなのか?)

 ヴォルフは眉根を寄せる。

 どうやらそれは、本能すら凌駕する欲求らしい。

 だとすれば、愛とは何と愚かな感情なのだろう――自らを生かすことよりも他者の命を優先させるとは。


 ヴォルフは、それを知らない。


 知らなくて幸いだと、彼はしみじみと思った。


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