60話「やっぱり」
ミーンミーンミーンと鳴く蝉の音に煩わしさを感じる。
ズキズキと頭が痛くなる。けど苛立てる程の体力も残っていない。ただぼんやりと目の前の揺れて動く道路の表面を眺める。
「……星宮、はさ。あたしと初めて話した時の事、覚えてる?」
前を見たまま隣に座っている星宮に話しかける。彼女は何も言わない。動く気配も無い。
「そっか」
星宮からの返答は無かったので、そのまま話を終わらせる。
アリの行列からはぐれた1匹のアリがあたしの太ももを歩いている。それをボーッと眺めた後、ゆっくり手を動かして人差し指でアリを押し潰す。
遠くの方で坂道を登る夫婦の姿が見えた。仲良く買い物をした後らしい。今日って、何曜日なんだろ? 仕事お休みなのかな。
「将来の夢、さ。あったじゃん、小六の作文。アレさ、星宮はサラリーマンになってると思うって書いてたけど、それを言うならOLじゃない? ってずっと思ってた」
「……」
「サラリーマンとOLの違いなんてそんなに知らないけどさ。何となく、イメージで、男の人はサラリーマンで女の人はOLって感じがするよね。OLってどういう意味なんだろ、サラリーってなんなんだろうね」
「……」
「あたしはアレ、実は漫画家になりたいって書いたんだ。星宮に染められたばっかだったからさ。だから今でもそれなりに絵の練習してるんだ、凄いでしょ」
「……」
「卒業アルバムのさ、白紙のページにメッセージ書く文化あるじゃん。アレ、あたし星宮のやつに何も書いてなかったから書きに行ってもいい? 今度」
「……」
「……サラリーマン。なれるといいね」
「……」
太陽光が照りつけるコンクリートの坂を登る。途中から道は舗装されていない土道になり、草木の生い茂った山の中へと入ってしまった。
地図で確認する限り道が間違ってることは無い、と思う。この山を抜けたら隣の街に行けるはずだ。
葉っぱの影のおかげで直射日光を避けられるのは有難い。風が吹くと火照った体が冷やされて多少心地良くなる。とはいえ、発熱しているからそれも微々たるものに過ぎないが。
「……わ。白くなっちゃった」
ガードレールに手の平を擦らせながら歩いていたら接触していた皮膚が白くなってしまった。てか、何かの幼虫が親指の付け根の骨に乗っかっている。デコピンしてガードレール下の崖に落とす。
「やっぱり田舎は嫌だね。日陰が少ないし、土で靴が汚れるし、虫が多いし」
星宮に話しかける。やはり返事はない。
「毎日仕事に追われてる人なんかは、自然に囲まれた場所でのんびり家庭菜園とかしてゆっくり過ごしたいって思ってるかもしれないけどさ。生まれた時からずーっと田舎育ちだったあたしにはやっぱり都会の暮らしって輝いて見えるよ。そう思わない? 星宮は」
「……」
「無駄に広い家を持て余すより、狭くても自分に合った家で暮らしたい。人との関わりも最小限に抑えて、気の合う人とだけ絡んで、田舎じゃ聞くことの無い人の喧騒にげんなりして、容姿とか見られて田舎者だと馬鹿にされて。……都会暮らしは都会暮らしでそれなりの悩みとか、不満とか、あるんだろうけどさ。それでも憧れちゃうな」
「……」
ガードレールが途切れて、急だった斜面が緩やかになっている所を発見した。街まで続くのは道を直進するコースだけど、歩き疲れたから休憩を挟みたい。
斜面を下って、腰を落ち着けそうな場所を探している内に別の道路に出てきた。どうやら今来た道も通行用に整備された通路だったみたいだ。
ねずみ色の石の道を歩いていたら、こじんまりとした橋がかかった川が見えた。橋の近くにはベンチもある、休憩するのに丁度良さそうだ。
素足になって川の水に足を浸ける。ひんやりして気持ちいい、そのまま石に腰を下ろす。
「この世界ってさ、どこで暮らしてても悩みって尽きないんだろうね。嫌だね、なんか。地獄みたい」
川の水をちゃぷちゃぷ蹴りながら話しかけるが星宮からの反応は無い。構わず続ける。
「物凄いお金持ちになったりしたらきっと世界も変わって見えるんだろうけど、どうせそんな風にはなれないし一生このままなんだろうな。生きてると言うより、死んでないだけ。目的がある訳でもなく、ただただ惰性で生き続けていくだけの意味の無い人生、みたいな」
「……」
「生理、来なくなっちゃった。妊娠したんだろうなぁ。もし子どもが産まれるならさ、その子にはこんな事考えてほしくないな〜って思うよね。何にも考えない馬鹿になってほしい、それくらいが丁度いいんだよ。きっと」
「……」
「……いや、子供なんて産む気は無いけどさ。夫がどうこう、育児がどうこうって話じゃなくて、あたしの遺伝子を持ってる子なんか絶対幸せになれないもんって意味で。すぐ暴走するし、根暗だし、勇気も無いし。誰からも好かれないような人間が産む子どもなんて、どう足掻いても幸せにはなれないよ。どうせあたしの知らない所で、あたしと同じような失敗を繰り返す。で、産まれたくなかったってあたしを呪うんだろうな」
「……」
足を動かすのを止めて水面を眺めていたら、隣からチャプッという音が響いた。
見ると、それまで何も言わずあたしの後を着いて歩いていただけの星宮が川に足を浸けていた。
星宮はそのまま姿勢を低くし、川の水に後ろ半身を沈めた状態で寝そべった。
「星宮?」
「なんだかずーっと暗い話してますけど。間山さんさ、もうちょっと相槌打ちやすい会話振ってよ」
「ごめん」
「あはは。おりゃっ」
足を上げた星宮が思い切り足を落として飛沫をこっちに飛ばしてきた。胸の辺りがびしょ濡れになってしまった。
「別に、意味が無い人生でもいいじゃん」
星宮が小石を投げてきた。星宮の方を見ると、彼女は疲弊しきったここ数日間では一度も見せなかった、以前のように柔和で優しそうな笑顔を浮かべていた。
「間山さんの性格じゃポジティブに生きるのって難しいとは思うけどさ。それでも、今までの人生全部が不幸だった、何も楽しい事がなかったって訳じゃないんでしょ?」
「……」
「子どもの頃に得られる楽しさや幸せなんて世間に何の影響も与えない、それこそ意味の無い事なのかもしれない。でも当人にとっては楽しい事に変わりないし、過去の失敗も今となれば笑い話になる事だって多々あるわけじゃん。その瞬間を楽しめるのなら、後の事なんてどうでもいいじゃん。難しく考えすぎなんだと思うよ、間山さんは」
「……楽しい事の後に辛い事があったら余計辛くなるじゃん」
「何も無くても辛い事があれば辛くなるよ」
「楽しい事なんて、これから先ないかもしれないじゃん」
「あるかもしれないよ? 確率は50%ずつ、イーブンって所だ。未来の事なんて分かるわけないんだから、そこまで悲観的になる必要も無いと思うな」
「……」
「楽しく思える事のハードルを下げちゃえばいいんじゃないかな」
「……?」
「例えば、何気ない日常の中でくだらない事や普段と違った事が起きればそれを楽しいって思えるくらいまでハードルを下げるとか。だし、それこそ絵の練習をしているなら喜べる瞬間なんて沢山あるよ。少し上達したらそれだけでお祭り騒ぎでしょ」
「……そうかな」
「そうだよ」
「……」
「間山さん」
星宮が身を起こし、俯くあたしの頬に手を添えてゆっくりと顔を上げさせられる。
あたしが正面を向くと、星宮はあたしの頬から手を離し川に浸かりながら座ったまま一層明るく微笑んだ。
「ボクと仲良くしてくれてありがとう。間山さんが隣に居てくれて、とても嬉しかったよ!」
「……えっ。うわっ!?」
そう言ってあたしの手を掴み星宮は思い切りあたしを引っ張った。川の中に思い切り飛び込んでしまい、手のひらに砂利の感触が当たる。痛い。
「つべたっ!? いきなり何するのよ星宮!!!」
「間山さん汗臭かったので! 消臭してあげました!」
「あんただって大して変わんないから!! きゃあっ!? ちょっと!!」
「あはははっ!! こんな風に遊ぶのも久しぶりだしパーッと楽しもうよ! いでっ!? カニに足挟まれた!?」
星宮が片足を上げて自分の足を見る。思いっきり隙だらけだ、立ち上がってジャブジャブ音を立て星宮に接近する。
「人が色々考えてるのにコイツはっ! 気まずいから無視してたのかーっ!!」
「どはっ!? え、力強い!? 遊びの力じゃなかったな今の!?」
星宮の肩を押したら大袈裟に倒れた星宮が抗議してきた。
ふんっ、こちとら傷の悪化で熱出て頭がふわふわしてるんだ。力加減なんか出来るはずもないでしょうが!!!
「わあっ!? 待って待って間山さんっ! 倒れた相手に連続攻撃は反則だろ! 体勢を立て直させて!」
「そんなルールがあるだなんて聞いてませんしー。相撲したいんだろ! お望み通り投げてやる!」
「違うっ!? 本当はもっとこうささやかなキャッキャウフフ的な水の掛け合いを想定してた!? 相撲したい訳じゃない!?」
「痩せても相変わらずエロい乳しやがって。揉みしだいてやる!」
「相撲ですらないな!? ただのセクハラだなそれは! 乳に関しては間山さんもそんな変わんないしな!?」
逃げようとする星宮を捕まえて思い切り両胸を揉みしだいてやると、彼女は「ぎゃー!?」と悲鳴を上げて身を捻った。
あたしから逃れた星宮が水を飛ばしてくる。小賢しい、そんなもの牽制にはならんわ!!
「おっ。見よ星宮、またデカめの芋虫を発見したぞ」
「ひえっ!? な、なんでそんなキモい虫触れる!? さっきもデコピンしてましたけど、女の子ならもっと嫌がるべきじゃないかな!?」
「何日も何日も野宿して歩いてんだから今更虫なんか気にしないわよ! 虫なんか無視のスタンスでやってきたからね、もう平気よ!!!」
「さっむ。なに今のダジャレ、センスないなシンプルに」
「食べさせてあげるねこの虫」
「待って待って待ってごめんなさいごめんなさいこっち来ないで! 本当にやめて!! ほんっとーに!!! それ以上近付いたらさっきの言葉訂正するまであるよ!? 絶交だよ!?」
「ほら、昆虫食とか流行ってるし」
「大体乾燥させてるなぁその手のものは! てかそう言うなら自分から食べてみてくださいね!? 貴重なタンパク源ですよ!!!」
「やだよ。キモいし不味そうだし」
「ならボクが食べる道理もないな!」
「いや。実際生きてる芋虫って食べられるのか気になりはするし食わせるよ? 普通に」
「絶交です! ネタじゃない方の絶縁します!!!」
「馬鹿言いなさんな。ここまで来たんだから今更あたしからは離れられないでしょうに。1人で行動したら秒で逮捕ですよ、指名手配犯さん」
「ぐ、う。普段なら話が大きくなりすぎだよってツッコめるのに何も間違ってないから困り物……」
「ので、食べさせますね」
「待って!!!?!? 分かった、それ以外の事ならなんでも聞く! だから虫を食べさせるは辞めない!? 平成初期のいじめ漫画でしか見ないような拷問だってそれは!」
「なんでも言うこと聞くと。ふむふむ、それならあたし星宮の赤ちゃん身篭りたいんだけど」
「生物学的に不可能じゃないかな!?」
「契約不成立ね。はい、口開けて」
「本当にやめてー!!!」
星宮の上にのしかかると彼女は必死に口を手で押えてギュッと目を瞑り頭を左右に振っていた。冗談に決まってるのに可愛い奴め。役目を終えたので芋虫さんには自然に帰ってもらう事にする。
「森へおかえり。大きくなるんだよ、芋虫さん」
「間山さん間山さん。申し訳ないんだけど芋虫掴んでた指でボクに触れるのやめて。せめて川の水で指洗って」
「汚くないよ」
「汚くないかもだけども! なんかこう、嫌だから! 穢れの概念が付与されてるから洗い流して!」
「洗ったらあたしの指しゃぶってくれる?」
「え? ……えっと、なに。本調子に戻ったら変態性も戻っちゃったの? そこは萎え散らかしたままで構わないんだけども」
「後で母乳飲ませてね」
「あぁ、元通りになっちゃった最悪だ。よし分かった、川で体を冷やしたら何か食べに行こう。空きっ腹を満たせば花より団子という事で、そのキモすぎ性欲からも解放されるはずだ」
「あたしはどちらかと言うと茎よりまんこ派なので。無駄じゃないかな」
「何を言っているの??? ごめんね、こんな事言いたくないけど間山さんって本当に馬鹿なんだね。もう黙っててほしいかな」
「今のは明らかにそっちの言い方に問題があったでしょ。それを引き出させる種を蒔いたのは星宮だよ。散々種を蒔かれた側なのにね」
「黙っててほしいかな、うん。ごめんだけど」
呆れ返った顔でそう言う星宮のほっぺにピトッと薬指を当てる。彼女は裏返った声で素っ頓狂な悲鳴をあげた。薬指は虫に接触してないから何の問題は無いんだけどね、一々反応が面白くてつい弄りたくなっちゃうや。
ひとしきり水遊びした後、夕焼けが差したあたりであたし達は川から移動し近くの蕎麦屋さんで食事をした。あたしは普通の蕎麦を頼み、星宮はチャレンジ精神とやらで『わさび地獄』とかいう名称の蕎麦を注文した。
「がふっ!? やばこれっ、ゴホッゴホッ!?」
「いやそうなるでしょ普通に考えて。汚いな、鼻から麺が出てるよ?」
わさびがふんだんに使われた蕎麦を思い切り啜った星宮が苦しそうに噎せ返っている。
わあ、鼻水を引っ込ませる為にズズーって鼻息吸ったんだろうけど蕎麦も一緒に鼻の中に戻っていった。なんか嫌だなー、食事中に見たい光景ではなかった。
乾かしたとはいえ薄汚れた格好をしたあたし達を不審に思った店主さんがどこかに連絡しているのが見えた。そういえば、フードを被ってくるのを忘れてたな。
海原殺しの件が有耶無耶になったと考えたとしても、あたしと星宮はもう長い事姿を消してる扱いになってるから親達が心配して警察に通報している可能性は高い。捜索届けが出ているんだとすれば蕎麦屋さんにもあたしらの顔や特徴が割れてる可能性だってあるし、あまり長居は出来ないか。
星宮はあたしの隣で無邪気にわさびの辛さと格闘していた。本当なら今すぐにでも出ていくべきなんだろうけど、こんなに楽しそうにしている星宮を見るのは久しぶりすぎて声を掛けづらいな……。
「……?」
電話を終えた蕎麦屋の店主さんがおもむろにあたしらの背後を通り入口の鍵を閉めた。……まずくない? そう思い星宮の方をチラッと見るも、彼女は相変わらず蕎麦と格闘していた。
「ねえ、ほしみ」
「間山さん! この蕎麦全然減らないよー! 辛すぎ!」
「……」
なるほど。星宮はどうやら目の前の事にしか意識が行ってないらしい。そう思う事にしたのか、なるほどね。
星宮が何を考えてるのか、何となく分かる。でもその考えに従う義理はないし、あたしは元より我儘な人間だからここは我を通させてもらう事にした。
「ご馳走様でした! お会計をお願いします、店主さん!」
「……いや、大丈夫だよ。お代はサービスしとく、お代わりをしてもいい。好きなだけ食べなさい」
「あははっ。じゃあお代わりお願いします! この子と同じ蕎麦をお願いします!」
「……」
「あれっ。店主さん? お代わり、お願いします。厨房に行かないと料理出来ないですよね、お願いします」
「…………あー。まあ、そう急かす必要も無いだろ。急いで食べたらお腹を壊してしまうかもしれないよ、少し胃を休めよう」
「そういうのいいから。おかわり、お願いします」
「……」
店主さんの口が閉じる。今まで必死に引き止める意志を隠していたのに、こちらの意図を察した瞬間目付きが冷たくなった。
席を立ち、座っていた椅子の足を掴む。
「どうする気だい、嬢ちゃん」
「そろそろお店を出ようかな〜と」
「……まだ連れの子が食べている最中だろう。座っていなよ」
「そこを退け」
「…………駄目だ」
「あっそう」
そう言われると思った。ので、やろうと思っていた行動を取る。
椅子を店主さんに投げつける。店主さんは頭を押えるも椅子が扉に直撃しガラスが割れる音がした。
あたしはカウンターに身を乗り出して店主さんが立っていた方の机を漁り、野菜を切り分ける用の包丁を見つけてそれを掴み取った。
「ま、待ちなさい。馬鹿な事はやめるんだ!」
「刺しますね」
「うわあああぁぁぁっ!!?」
待つ必要なんかないし悩む必要も今は無い。扉の前に立っていた店主さんに早歩きで近付き、思い切りその胸に包丁を刺そうとする。
ギリギリの所で店主さんが避けて思い切り床に倒れる。あたしは包丁を彼の鼻先に当て、星宮を呼ぶ。
「星宮、お店出るよ」
「……間山さん」
「言う事聞かなかったらこの人を刺した後に自殺するね」
「……」
脅迫すると素直に星宮が席を立ちこちらまで歩いてきた。店主さんから鍵を受け取り、扉を開けて先に星宮を店の外に出してからあたしも店を出る。
「追ってきたら刺す。警察に変な事言ったら、その時はこの子と一緒に自殺するから。子ども2人を無駄死にさせたくなかったら黙ってて。分かった?」
「待ちなさい! い、今ならまだ取り返しがつく! 君達が何に巻き込まれたのかは分からないが、ここにいれば安全だしそれにっ」
「蕎麦美味しかったです。ご馳走様でした。この包丁貰っていきますね」
蕎麦屋を出て、包丁を握ったまま公道から離れた川の近くまで来る。星宮は廃材置き場? のようにしか見えないガラクタの山が積まれた小屋の中に居て、壁に向かったまま俯いて何かを呟いていた。
包丁を床に捨て、星宮の背中に近付く。
「……星宮」
星宮の名を呼ぶと、彼女はゆっくりとこちらを向いた。
先程顔に張り付いていたかつての笑顔……のような仮面は既に剥がれ落ちていて、輝きのない瞳をした星宮が黙ってあたしをじっと見つめていた。
「星宮」
名を呼ぶと、一歩星宮がこちらに近付いた。星宮はあたしの腕を掴みその場に座り込む。一緒にザラザラとした地面に座り込むと、彼女は何も言わないままあたしの胸を握り込んできた。
あたしの胸を強い力で握った後、星宮の口からため息がこぼれた。彼女の手が胸から離れると、そのままあたしの首に細い指が当たった。
「……あはは。褒めてほしいな、包丁を使えば簡単に死ねるもんね」
「……そうだね」
低い声で肯定した後、星宮の指に力が入った。
彼女はあたしを押し倒すと、首に両手を添えてきた。
「疲れたよね」
「……うん。もう限界」
「だよね。なら仕方ないか」
「これが1番マシな終わり方でしょ」
「どうだろ。……そうかも?」
星宮の指で首が絞まる。呼吸が途絶えて。苦しくなって、「フッ、フッ……」と拙い息が口から漏れる。
「……ほし、みや。苦し、い」
「うん」
「……苦しい」
「うん」
「本当に、苦しい。力、足りて、ない」
「うん」
「ほじ、みやぁ……っ」
「うん」
「ハァッ、ハァッ、フッ、うぅ……っ」
涙が出てきた。あたしが泣く顔を見ても、星宮は一切目の色を変えず首を絞め続ける。
とっくに彼女の精神は擦り切れていた。川を見つけたあの時点で、星宮憂という人間は後戻り出来ない所まで壊れてしまっていたんだ。
もう全てを諦めていた。自分がこの先、どうなろうと知った事ではない。そこまで振り切っていたから、あたしに対してあんな投げやりな言葉を吐けたのだろう。
星宮は最初から死ぬつもりだった。ご飯を食べようと提案したのは調理器具が手に入るからで、あの蕎麦屋を選んだのは客が少なそうで邪魔される事は無いと踏んでいたからに違いない。
普段なら絶対食べないものを注文したのも、これが最後の晩餐になるから冒険してみようって考えたに違いない。今までの出来事を踏まえて考えてみれば、彼女が何を考えているかなんて容易に想像がついた。
だからわざわざ包丁をここまで持ってきたのだ。彼女が苦しんで死なないように、一思いに死ねるように、刃物をどうにかして調達する必要があった。
現状、ここら辺で手軽に死ねる方法なんて川に顔を突っ込んで溺れるくらいしかないからね。そんな死に方はしてほしくない。
これで、全部終わりなんだ。あたしの人生。
……天国、には行けないだろうな。あたしも星宮も。2人揃ってきっと地獄行きだ、そうに違いない。
地獄とか天国とか、あるわけないか。この期に及んで都合の良い現実逃避をしちゃった。
……。
死んだら、もう星宮に会えないな。
死んだら、もう星宮と話せないな。
死んだら、もう星宮に触れない。
……。
嫌だな、それ。
あれ、なんでだろ。彼女の気持ちを知った上で、あたしだって限界だからもうそれを受け入れようとした筈なのに。嫌だ。
嫌だ、嫌だ。
苦しい。死にたくない。怖い。
「ほし、みや……っ」
「……ボクは何度も罪を犯した。間山さんを巻き込んでしまった。それについては、ごめん」
「……っ」
「ボクが全部悪い。でも、間山さんも罪を犯してしまった。虫が良い事言うけど、ボクらは同じ穴の狢でもうどうすることも出来ないんだよ。2人とも人殺しなんだ。……人殺しはさ、生きてちゃダメなんだよ」
「あた、しは……だれも」
「覚えてないんだ。良かったね、幸せじゃん」
「……」
「夢か現実か、分かってなかった時にさ。間山さん」
「や、あっ」
「ごめん。そうだよね、なんでもない」
「やら、ぁ! ハッ、ハァッ……っ」
「大丈夫、置き去りになんてしない。後からボクも追いつくから、先に。……ね?」
「なん、で……っ、じのうと、する……のっ」
「……」
「ずっと、うぅっと、そう思わないように、がんあって、来たのに……っ、なん、で……っ」
「やめてよ。その優しさがかえってボクを傷つけてるんだってば。……もういいじゃん、間山さんはボクさえいればなんでもいいんでしょ?」
「ハァッ、ハァッ……!」
「ボクが間山さんの事を忘れなければそれでいいんでしょ? 現実的に考えて、そんなの、生きてる限り不可能だよ。人はいつしか離れ離れになって互いに忘れていく、ならここで心中した方がマシでしょ。一緒に死ねば、永遠に一緒にいられるよ」
「そんな、こと……っ」
「永遠に一緒に居られるよ。今ここで全部終われるのなら、それは永遠に一緒に居たことになる。そうでしょ?」
「あ、ハッ、ハァッ……」
「どうせボク達に幸せなんて訪れないし、そもそも幸せになっちゃいけない人種なんだよ、ボクらは。だからさ、人生の絶頂期である今ここで死んじゃおう? 人生を終わらせよう。それでいいじゃないか。ボクはそれで十分だよ。君も、そうでしょ?」
「あたし、は……っ」
意識がボヤーっとしてきて指が震える。手の力が抜けそうになるのを必死に耐えながら、あたしは涙で霞んだ視界に星宮を捉えたまま口を動かす。
「あた、しは……死にたくない……っ、しにたく、ないよ。星宮……っ」
「……………………そっか」
長い沈黙の末、短くそう言うと星宮は手の力を弛めた。酸欠で視界をチカチカさせたまま荒い呼吸をして何度も噎せる。
「また死ねなかった」
背後で星宮が呟く。彼女はあたしの手を掴み、鞄も肩にかけて、どこかへと歩き出した。