42話『恨みって理不尽よね』
朝練を終えて海原くんと廊下を歩く。6月に入り段々と暑くなってきて半袖の生徒も増えてきた。
「海原くん。またボクの方見てない?」
「見てないです」
「嘘つけ。変態め」
「仕方ないだろ。お前、ちょっと下着透けてんだもん」
「仕方なくなさすぎるんだけど? 透けるからって見ないでよ」
「嫌なら下になにか着てこいよ……」
「暑くて初日汗まみれになったからまじで無理」
「暑がりだよなあ。女子ってみんなそうなん? どこもかしこもうっすら透けてて気まずいわ……」
「エアコンが稼働されるまで続くだろうね〜。はあ、なんでエアコン稼働するの7月からなんだろ。どう考えても遅すぎるでしょ」
「なー。金のない貧乏学校特有の悩みだよな」
「まったく」
中一の頃はタンスから出されることがなかった念願の夏服セーラーだって言うのに、中にキャミソールとか着たら暑くてたまらないから仕方なくブラを着けてそのままセーラー服を身につける形になっている。おかげで男子の目線が今まで以上に胸に集まってて恥ずかしい。
学校側はこの状況を容認しているのだろうか? 女としては迷惑極まりない状態なのだけれども。
「海原くんはよく中シャツ着れるよね。暑くないの?」
「暑いけど野球部だしそこはな」
「なにがそこはななのか分からないんだけど。汗臭いの嫌だからちゃんと汗のケアしてよね」
「へいへい。てかお前は匂いのケアめっちゃちゃんとしてるよな。髪になんか香水みたいなのつけてない?」
「わ、気付かれた。ヘアミストなるものを付けている」
「ほーん。香水と何が違うん」
「別に違わないんじゃない? あ、でもこれ付けるとパサつかないからそこがいいかも」
「髪のパサつきとか気にしてんの。女やん」
「眼球にプッシュしてあげようか?」
「なんで???」
女じゃんって小馬鹿にするからそりゃ相応の報復もしてあげないとでしょ。別に女らしさを主張したいわけじゃないけど、男の自我で考えても夏場は蒸れるし汗臭くなったら嫌じゃんか。それくらいは気を使うっつーの。
「ちゃんと押えとけよー」
「オーキードーキー」
「おらっ! 流水岩砕拳っ!」
「っ、ぐ……!」
階段を登ろうとしたら廊下でじゃれついている男子達の姿が見えた。谷岡くんと垣田くん、それに知らない男子の3人だ。
知らない男子が垣田くんを羽交い締めにし、谷岡くんが垣田くんの腹を殴っていた。垣田くんは苦しそうに呻いたあと、谷岡くんが連続パンチを腹に食らわせた。……嫌がってるようにしか見えないけど、何やってるんだろ?
「またやってんなーアイツら」
「いじめ的なやつ?」
「だろうな。まあ谷岡にはそんな意識ないだろうが。単なるじゃれあいのつもりだろ」
「うわ、ちんこ握ってる。どういう遊び……?」
「金銭絡みじゃねえの。アイツら、垣田に金せびってたし。金払わなかったら罰ゲームで不足分ボコ殴りの刑、みたいな感じだろ」
「流石元いじめっこ。憶測に質量があるね」
「罪悪感で何も喋らなくなるけどそれでもいいか?」
「冗談やがな〜」
少しだけ目を伏せた海原くんの背中をバンバンと叩き笑う。昔の事なのにいつまで経っても気にしてるんだなぁ、そんな風にしょんぼりされると笑えるからやめてほしい。父さんと同じ方向性で可愛らしいなぁ。
「でもお金せびってるのか。流石に可哀想だな……」
「星宮。厄介事に首突っ込むのはやめとけ、巻き添え食らうかもだぞ」
「大丈夫でしょ。ボク可愛いし」
「自己肯定感たっか。いじめに可愛いも何も関係ないだろ。どうせロクでもない事になるからほっとけ」
「見て見ぬフリしたらボクらまで垣田くんに恨まれない?」
「逆恨みもいい所だろ。傍観者にまで敵意向けるような性格してるんならそりゃいじめられるだろ。ほっとけほっとけ」
クレバーだなぁ。ボクは垣田くんに嫌なことをされた側だし、助けたいかって言われるとそこまででもないんだけどさ。
まあでも、海原くんの言い分にも一理ある。余計な事に関わって変な事態になったら自業自得だし。自衛という意味でも触れないのが吉か。心の中で『ごめんね』とだけ謝り、階段に1歩分足を乗せる。
「何してるんですか?」
む? じゃれつく男子達の方から透き通るような女子の声が聴こえてきた。そちらに目を向けると、冷泉さんが谷岡くん達の横に立っているのが見えた。
「あ、冷泉さんだ。久しぶり〜」
「お久しぶりです谷岡さん。あの、何をしているんですか? 垣田さん嫌がってますよ?」
「あ〜? 嫌がってないよ。コイツ、俺らに払う友達料金ジャンプしようとしたから制裁加えてるだけだし。必要な事なんだよ」
「友達料金ってなんですか? 友達になるのにお金を払う必要があるんですか? そんなのお友達って言えませんよ」
「言えるよ。少なくとも俺らの関係性はそうなの」
「そんなお友達なら絶交した方がいいと思うんですけど」
「うん、久しぶりに話しかけてきたと思ったら何? 俺らと無関係なのになに説教垂れてくれてんの? ちょっとだけ不愉快なんですけど?」
「私だって不愉快です。登校してきて1番にいじめの現場を目撃するなんて思いもしなかったです」
「いじめ〜〜? これのどこがいじめに見えんの? いじめって言葉辞書で引いた方がいいんじゃねえの???」
え〜〜〜!? 冷泉さんが真っ向切って谷岡くんとバトルを始めちゃった! 垣田くんを羽交い締めしてた男子も加わって、2対1の構図が出来上がっちゃってる! そんな事する度胸あったの冷泉さん!? しばらく見ないうちにイケメンになっておられる!?
って、そんな事考えてる場合じゃない! どんどん舌戦がヒートアップして谷岡くんの苛立ちが増していってる! あっ、冷泉さんの肩を谷岡くんが掴んだ!
「あ、おいっ! 星宮!?」
「待ちなよ谷岡くん!」
小柄な冷泉さんが谷岡くんに押し潰される前に、彼女の腕を掴んでこちらに引いて谷岡くんを睨む。
「げ、星宮……」
「今冷泉さんの事殴ろうとしたでしょ! 単細胞生物め!」
「し、してねえよそんな事。ただ対話を」
「対話するのに肩掴む必要ないでしょうが! 口喧嘩なら負けないぞー!」
「っ、あーもう。女に首突っ込まれるとめんどくさいんだよな! 行こうぜ、シラケたわ!」
「お、おう。……なあ、あの巨乳の子可愛くね?」
「やめとけやめとけ。アイツクソだるいから」
「誰がクソだるいってー!?」
撤退する谷岡くん達の背中に文句を投げつけると、谷岡くんが小さく舌打ちをして小走りで去っていった。ふむ、どうやら前回の口喧嘩で谷岡くんには苦手意識を持たれていたらしい。それが上手く作用したな、暴行沙汰にならなくて良かったな。
「おはようございます、星宮さん!」
「おはよう冷泉さん。駄目だよ、女の子が1人であんな人達に喧嘩売っちゃ!」
「居てもたってもいられなくて。大丈夫ですか? 垣田さん」
ぺこりとボクに向けてお辞儀をすると、冷泉さんは腹を押えて俯いている垣田くんに声を掛けた。垣田くんからの反応はない。どこが痛むのかと思い彼の腕に触れようとしたら、瞬間的に垣田くんに腕を払われてしまった。
「お前らのせいだ……!」
「え?」
前触れのない攻撃的な発言を受けて目を丸くしてしまった。ボクらのせいってなんの事? 谷岡くんにいじめを受けていることが何故、ボクらのせいになるのだろう?
「私達、なにかしましたっけ……?」
「お前らがあの時、あんな風に俺を詰めなければ……谷岡にまであんな事を言わなければ、逆恨みを受けることも無かったのに。お前らが俺らを陥れるようなことを言うから、お前のせいでって、お前が上手くやらないからってこんな目に遭う羽目になった!」
「それはちゃんと自業自得では」
「うるせぇ! 大体星宮、お前なんなんだ!? 普段ヘラヘラ頭の悪そうな顔してる癖に余計な所であんな性格の悪い事言いやがって! 別にお前の性格なら多少引かれてもすぐ持ち直せるだろ! 少しくらい空気読めよお前!!!」
「えぇ。めちゃくちゃ他責じゃん垣田くん。なんか嫌なことでもあったの……?」
場を和ませるつもりで冗談交じりにそう言うと、垣田くんがボクを強く睨んで口元をモゴモゴと動かして「殺す」という言葉を紡いだ。
「煽りやがって。馬鹿なフリして周りの奴を見下してんだよな、お前。特に俺みたいな奴を。殺してやる、絶対許さない……」
「え、ご、ごめんじゃん!」
「星宮さん。今のはちょっと……」
「えぇ!? ガチで空気読めてなかったね! 本当にごめん!」
真剣に謝るも、垣田くんの機嫌は収まらずジーッと無言でこちらを睨んでくる。こんな長時間人から睨まれることなんて無いのでなんだか気まずくなって、それが段々と恐怖に変わっていく。
「こ、心の底から悪かったと思ってるから。機嫌直してよ、ね?」
「……お前が余計な事まで言うから、クラス中の奴らから白い目で見られたんだ。谷岡も巻き添えでな。そのせいで毎日毎日谷岡から虐められる日々を送ってるよ。誰かさんのせいでな」
誰かさんではなく、人を陥れようとした君達自身の問題でしょって言いたくなる。でもそれを言ったら火に油だもんなぁ。
「元はと言えばお前が谷岡をフラなければ、あんな事をしようだなんて話すら出てこなかったのに。彼氏もいないくせになに清純ぶってんだよ。お前が谷岡の恨みさえ買わなければ、アイツの憂さ晴らしを俺が受けることも無かったんだ! お前が谷岡を恥をかかせたせいで、お前のせいで……!」
「い、いやいや。そんなこと言われてもさ、好きでもない相手と付き合うとか無理だし……」
「知った事かよ! お前の判断のせいで俺の不幸は始まったんだ! 全部、全部、お前のせいでっ!」
垣田くんがボクに掴みかかろうとしてきたその時、黙って聞いていた海原くんが横から割り込んできて垣田くんの太ももを踵で蹴り抜いた。結構強めに蹴ったのか、彼は勢いよくその場に倒れると蹴られた太ももを抑えて唸り始めた。
「やべ。強く蹴りすぎたっぽい」
「なにやってんの!?」
「あんまりにも勝手な事言うもんだから、ついカッとなって」
「ついで済ませられる音じゃなかったよ!? 鈍い音聴こえたよ今!?」
「まあまあ、そうされるに足る発言したんだからこれでトントンだろ。行こうぜ。そっちの女子は何く……冷泉さんか。お前冷泉さんと交流あったのな」
「う、海原さん……っ」
そういえば、冷泉さんは海原くんの事が好きなんだったな。どうやらボクの知らないところでこの2人は交流が生まれていたらしい。海原と互いに『へぇ〜意外』って目を交わしながら、何とか立ち上がり泣きべそかいてひょこひょこと足を引きずりながら離れていく垣田くんを目で確認する。
あの2人、同じクラスだからなぁ。教室に行ったら気まずくなりそうだ。出来るだけ目を合わせないようにしないとな。
「星宮と冷泉さんって何で仲良くなったの?」
階段を登っている最中に海原くんがボクらに問いを投げかけてきた。冷泉さんの顔をチラッと見る。
「私達、去年同じクラスだったんです。そこで仲良くさせていただいて……」
「なーるほど。コイツの友達やるの結構スタミナいるくない?」
「どういう意味かな」
「ふふっ。確かにテンション上がると合わせるのが少し大変ではありました。星宮さん、女子の中でも特にエネルギッシュだったので」
「ノリがハマると加速度的にボルテージ上がっていくよね。遊んでたら切り時見つけるのまじで難しいもん。ゲームとかしてたら永遠に再戦申し込んでくるんだぜ? 何度夜通し対戦に付き合わされた事か」
「そんな風に思ってたんだ」
「ヘラるなよ。キャラ違うだろ」
「満更でもない感じで遊びに付き合ってくれてると思ったのに。海原くんは嫌々ボクとの遊びに付き合ってくれてたんだ〜。悲しいな〜」
「だりぃ〜」
面倒くさそうに表情を歪めながらも海原くんはボクの頭に手を置き乱暴に撫でてきた。全くもって愛のない撫で方だ、野生動物かなにかだと思われてるのかな。このまま指を掴んでへし折ってやろうか。
「……お2人も、仲がとてもいいですよね」
「っ!」
しまった! 冷泉さんの前なのにボクは何を呑気に撫でられるのを受け入れてるのか! 恋する乙女がいる横で、思慕の対象に頭を撫でられるのを見せつける形になってしまった! 応援すると言っておきながらなんて失態!
「俺らは小学校からの付き合いでな。途中で一悶着あったんだが、今はこうして友達になり直したって感じだ」
「一悶着ですか?」
「あー……」
「思春期のすれ違いで大喧嘩したんだよ。もう一生話さない! って言い合うくらいの大喧嘩を。今でもその時のことを少し引きずってるくらいの大喧嘩! そんな関係です!」
「お、おおう? そうな……?」
急にボクが発言した事により海原くんが驚いていた。何があったかを正確に言う事は出来ないけど、大喧嘩だったって部分は強調しないと先程の行為を帳消しに出来ないと思ったので口出しさせてもらいました。てか友達だからって気安く頭撫でるな!
「でも仲直り出来たんですね。素敵な関係です……!」
「あ、あはは。えーっと……でも、海原くんはまだ当時の事引きずってるみたいだし? 完全に仲直り出来たのかと言われると、ねえ?」
「えっ。仲直り出来てなかったのか!? まじか、やっぱ何かしら詫びの品を用意するべきか……?」
「いらないよ! 話合わせて!」
「耳打ちはいいんだが声の音圧! 鼓膜破れるわ!」
素の言葉で返答する海原くんの腕を引っ張って耳打ちで強めに文句を言ったら、ボクの口元から離れた海原くんが耳を押えながら抗議してきた。……? ちょっと顔赤くなってる。音圧って言っても囁き声で言ったからそんな鼓膜が破れるほどでもないと思うし、なんだか不思議な反応だ。
「いいなぁ……」
「!」
ボソッと冷泉さんがボクらを見て「いいなぁ」と口にしたのをボクは聞き逃さなかった。まずいぞ、人の恋路を応援するはずが仲の良さを見せつける性悪女ムーブをしてしまっている。
リカバリーしなくちゃ! 冷泉さんの性格上、逆境に立たされてると感じたらきっと自分から身を引いちゃうタイプだろうし! ボクにその気がないのに身を引かせたら誰も幸せにならないよ! 意味の無い失恋になってしまう!
「冷泉さん! 海原くん! 提案があるんだけどさ!!」
「行くぞー」
掛け声と共に、海原くんの手からボールが放たれる。速すぎない速度で投擲されたボールが若干の放物線を描きながら冷泉さんの立っている方へと飛んでいく。彼女はたどたどしい仕草でグローブを構えると、とてとてと足を動かして何とかそのボールをグローブに収めた。
「やたっ! 取れた! 取れましたー!」
「ナイス冷泉さん!」
「天賦の才だよ冷泉さん!」
「それは過言だなー」
2日後。ボクと海原くんは揃って部活を休み、冷泉さんを伴い3人で学校から更に街方面、隣町とを隔てる橋の前にある大きな公園に足を運んでキャッチボールをしていた。
話を聞くと冷泉さんと海原くんは1年生の頃に委員会で少し交流があったみたいで、でもそれ以外では一切の交流がなかったし連絡先も交換していなかったので会話をする機会があまりないというのが冷泉さんの最近の悩みの種だったらしい。
そこでボクは2人に『今度キャッチボールしよう!』と提案した。冷泉さんはスポーツが苦手だと言うが、むしろだからこそ海原くんが甲斐甲斐しく彼女に教える事でそれをきっかけに会話が展開するだろうと考えついたのだ。
ボクの企みは無事実現し、初めは素っ気なかった冷泉さんと海原くんが今では普通に会話できている。我ながらナイスアシストである、鬼才現るって感じである。
「行きますよ、星宮さん!」
「はーい」
「えいっ!」
「うーん」
頑張って投げた冷泉さんのボールはボクと冷泉さんの中間地点あたりでガクッと下に落ちてポテポテとこちらの足元に転がってきた。慣れてないと遠くまで投げるのって難しいもんね、仕方ないね。せめて大袈裟に捕球アクションを取ってそれっぽく魅せてあげましょう。
「こふっ!?」
「なーにやってんのお前」
転がってきたボールをグローブに乗せて勢いよくキャッチしたっていうポーズを取ろうとしたが、ボールはグローブに乗り切らなくてポロって地面に落ちるし腕を振り上げる速度が勢い余りすぎて自分の脇腹に肘を刺してしまった。
認識外からの攻撃により息が詰まりその場で崩れ落ちる。海原くんは「えぇ〜?」とドン引きした声を上げた。
「腐っても野球部がなんてざまだ〜。顧問に叱られるぞ星宮〜」
「ボクは、マネージャーなので……」
「時々練習混じってるだろーが。ほれ、さっさと投げんかい」
「スパルタめ〜!」
海原くんの言い方にカチンと来たのでボールを拾って思い切り上空に投げてやった。海原くんは「おぉい!」と言いながらダッシュで後方まで下がり、それでも間に合わなくて思い切り地面の上に飛び込みボールをキャッチした。
「お前なぁ!」
「大暴投したのに意地でも捕りに行くとは。アッパレなり、海原くん!」
「やかましいわ! 真面目にやってる冷泉さんを見習えお前は!」
「あはははっ! 海原さーん! そこから投げてみてください! 私も気合いで捕ってみせます!!」
「まじ? 怪我しないようになー!」
冷泉さんの頼みを聞き、海原くんはボクがしたように上空に向けてボールを投げた。ボクの大暴投とは違い冷泉さんの立っている地点に丁度ボールが落ちるように投げられる。
冷泉さんはヨタヨタと間上を向いてそのボールを追っていたが、丁度太陽と被ったのか眩しそうに目を瞑った瞬間にボールが冷泉さんの顔の上に落下した。
「いたぁい!」
「!? 冷泉さん、大丈夫!?」
ボールが地面に落ちると同時に冷泉さんもその場にどしゃっと尻もちを着いた。冷泉さんの元へと駆け寄る。
「冷泉さんっ!」
「冷泉さん! って、鼻血出てるぞ!?」
「わわわっ!? う、上向かなきゃ!」
「上向くのはダメだって聞いたよ! 冷泉さん、顔は真っ直ぐ、前見て!」
ポケットティッシュを取り出し冷泉さんに手渡し、彼女に鼻血を拭き取らせ鼻の穴に詰めさせる。彼女は恥ずかしそうに「嫌です〜!」と言っていたが、鼻血を止めないとなのでそこは我慢して言う事を聞いてもらった。
「ごめんな! 俺があんな球投げなければ……」
「大丈夫ですよ! 海原さんのせいじゃないです! 私の技量不足が招いた事態なので!」
「未経験なのにいきなりフライは取れないって! まじごめん!」
海原くんがその場で土下座をする。地面の上なのに迷いなく出来ることに感心してしまった。
「1人だけ鼻に詰め物してるのは恥ずかしいよね……海原くんの鼻も折っとく?」
「待って? 頭おかしい事言わないでもらっていいか? 星宮」
「多分鼻は折れてないと思うんですけど……」
「女の子の顔に傷をつけるのはご法度だからね。折るくらいはしなきゃ」
「それもそうか……仕方ない。来い、星宮!」
「大丈夫ですって!? やめてください2人とも! 星宮さん! 拳を握って構えないでください!」
冷泉さんに止められたので仕方なく動作を中断する。止められなければこのまま海原くんの顔面に正拳突きをしていた。
「折角ですし休憩にしましょ? このくらいの時間だと涼しい風が吹いて気持ちいいですし!」
「そうだね。休憩しよう。海原くん、こっち」
「? おう、わかった」
その場にそのまま座りこもうとする海原くんを呼びつけ、ボクと冷泉さんの間に座らせる。石の階段に腰掛けているためお尻が少し冷たい。少しだけ体をズラして海原くん達と若干の距離を空けつつ、手をお尻の下に敷いて石の表面から裏太ももを逃がすようにして座る。
「……えと。海原さんって野球の他に、なにかご趣味とか、ありますか?」
少しの間全員沈黙していたが、会話の口火を切ったのは冷泉さんだった。彼女はモジモジと膝に手を当て動かしながら、懸命に言葉を紡ぎ海原くんに質問をする。
……なんで黙ってるんだろうと思ったら海原くん、冷泉さんの胸元を見ていたな? 話しかけられた瞬間に焦って目を逸らしてたけど手遅れだから。ボクもう見ちゃってるからね。後で激詰めしてやる。
「趣味かぁ。ゲームは結構やるかも? 漫画とかアニメ系も少しなら分かるよ」
「ゲーム……どんなゲームするんです?」
「格闘ゲームが好きかな。冷泉さんは? ゲームとかする?」
「私はやった事ないです。やってみたいなとは思ってるんですけど、何を買い揃えばいいのか分からなくて……」
「おっ。じゃあ今度2人で買い物に行ってみれば? 海原くん街の地理とか詳しいでしょ」
「んぇっ!? ふ、2人でですか!?」
「俺は構わんが、買える資金力あるのか? 本体とカセット、ないならモニターとかも必要だし相当金かかるぞ?」
「お金は大丈夫です! きっと! でもあの、2人というのは……」
冷泉さんが顔を紅潮させて、リンゴみたいな顔色になりながら小さな声で呟く。
「ほ、星宮さんも一緒に……」
「ボクは向こう1ヶ月スケジュールがパンパンなので難しいねぇ。期末テスト前ならまた部活動をしない期間があるから、その間に2人でお出かけするといいと思うな!」
「星宮さんっ!」
縋るような目でボクを見てくる冷泉さんだったが、その目から逃れようと体を後ろに倒すとボクを追っていた視線は自然と海原くんの方に重なる事になる。冷泉さんは可愛らしく「ひゃっ!?」と小さな悲鳴をあげると、すぐに足元に視線を戻してまたモジモジし始めた。
「お前スケジュール詰まってんの? その期間にカラオケ行こうって言ってなかったっけ」
「言ってないよ。記憶違いだね海原くん」
「まじぃ?」
「まじ。……でも一応何日か予定は空けといてね」
「どっちだよ」
ジト目で海原くんがツッコミを入れてきた。今は冷泉さんとの予定を取り付けるのに集中してほしいな! 付き合い長いんだから少しくらいボクの意図を汲み取ってくれ!
そこから3人で趣味の話とかスイーツの話とか、そういうありふれた日常会話が始まった。冷泉さんは意中の相手と会話すると緊張してしまうのか話し方がどこかたどたどしかったが、時間が経過すると自然に海原くんと言葉を交わせるようになった。緊張が解れたら案外2人とも会話のテンポが良くて、言っている言葉も両方柔らかくて相性バッチリに感じる。
行き当たりばったりでこんな場を設けてみたものの、結果的に見たらオーライだったみたいだ。2人が親交を深める機会を提供することが出来た。
となれば、次はボクのいない状態でさらに親交を深めるフェイズに以降しないとだよね。邪魔者は退散するとしよう。
「あっ。そういえばボク今日予定があるんだった! 先に失礼するよ!」
「!? 星宮さん、もう行っちゃうんですか!?」
「もう行っちゃいます。あとは2人だけでごゆっくり〜」
「おー。おつかれな〜星宮」
「おつかれ! 帰る時はちゃんと冷泉さんの事見送ってあげなよ!」
「任せろ」
「い、いいいきなりそんなっ、あのっ、星宮さぁん!!」
冷泉さんが何か言いたげだったが、恋愛の第1歩は自分から勇気出して踏み出さないとだからね。ボクは心を鬼にして振り返らずに家に帰るとするよ。
一応、冷泉さんの戦いを応援するよって意味を込めて左腕を振り上げて拳を天に掲げた。海原くんから「アラバスタ編じゃん」とツッコミを入れられる。今日はやけにツッコミ役に回りますね、認知してるネタが共通し過ぎてる。当たり前か、海原くんのサブカル知識ってボクの家にあった漫画から得ているのがほとんどだもんな。
さて。1人になって公園を出た所でボクは振り返り「冷泉さん。ファイト!」とエールを送る。あの2人が付き合ってさえくれれば間山さんからの誤解も晴れるから実はボクにとっても都合がいいんだよね〜って考えてる事は内緒で。結局あれから1度も間山さんと話してないし、LINEを送っても返信が帰ってこないから嫌われちゃったかなって不安が芽生えてきてるんだよな……。
海原くんと仲良しに戻れた代わりに、今度は間山さんと折り合いが悪くなってしまった。人間関係っていうのはやはり難しい。
みんな仲良くなれたらいいのに、なんて考えたりもするけどそれってほぼ不可能なんじゃないかなって思う。誰が誰を嫌っているか分からないし、触れてはならない地雷っていうのも人によって異なるから無意識に踏んづけちゃうかもしれないし。
「でも、あの2人がカップルになったら海原くんと遊びにくくなるよなぁ……」
是非とも冷泉さんの恋愛は成就してほしいと思う傍ら、なんだか複雑な気持ちになる。ボクが男のままだったらこんなこと気にしなくてよかったのに、肉体が女体なせいでボクは女としてカウントされてるから男子とつるむのには最大限気を使わないといけないんだよな……。
なんというか、難儀な話である。冷泉さんの事は傷つけたくないし、不安にもさせたくないから2人が付き合い始めたら関わる頻度をボクの方から下げないとだよね。
うーん……なんだろう? この胸のモヤモヤ。ただの友達のはずなのにどうしてか胸が晴れない。
考えても仕方ないので、あまり考えないようにして道路を歩く。台風が来る前の鱗のような雲から差す夕焼けが少し目に沁みる。早く帰って唯を抱きしめよう。ボクは孤独感を紛らわせるように大地を蹴り、今日帰ってからの事を考えながら走って家に向かった。