36話『後戻りしたら、縁が切れてしまうから』
「唯〜。学校行ってくるね〜」
朝食を食べ終え、食器を流しに置いてベビーベッドで寝ている唯のほっぺをぷにぷにと指で突っついて鞄を持つ。唯は小さな手を一生懸命ボクに向けて伸ばして可愛らしい声を上げているから離れるのが惜しい。もっと沢山可愛がりたい〜!
「休もう。今日は学校休み!」
「何言ってんのお前。無断欠席はやめなさい」
「唯がボクを求めてる!」
「唯はパパが世話するから。お前は学生の本分を全うしなさい」
「ボクは父さんの事『パパ』とは呼ばないでしょ。また唯とボクを間違えてる、キショいぞ」
「間違えてないわ。いいからはよ行きなさい。遅刻するぞ」
「はぁい」
家から追い出されたので渋々学校に向かう。数少ないボクの癒しが〜……くぅ、夕方まで我慢か。修行が過ぎる、学校長いよ〜お昼には帰らせてよ!
「おはよ、星宮」
「おはよう!」
駄菓子屋前で間山さんと会い一緒に学校に向かう。母乳騒動があった後もボクは間山さんと何事もなく普通に関わりを持てていた。
まあ、した事は置いといて『何があっても星宮の味方で居続ける』なんて事を言われたら、ボクの方から間山さんを突き放す事なんてできるはずも無い。それに性癖は十人十色だからね。自分が理解できないからって相手のフェチをとやかく言う資格はないよね。
「彼氏と別れた!」
「おはよう与能本さん」
「彼氏と別れた! 別れたー!」
「なになに。いきなりどうしたの与能本」
「彼氏と別れたー!」
学校に着き、冷泉さん与能本さんコンビニ話しかけに言ったらいきなり与能本さんがプンスコした様子でボク達に一方的に言葉をぶつけてきた。彼氏と別れた、か。そりゃ悲しい出来事だ、でも突然そんな事言われても反応に困るよ。
「早くない? まだ付き合って1年も経ってないのに」
「アイツ知らぬ間に浮気してたんだよー! 二股してたの! まじ有り得ない!!!」
「あちゃー。そうなんだ」
「ドンマイですよ与能本さん。次の殿方を探しましょう!」
「駄目だ〜男は性欲の獣なんだあ! 付き合ってヤッたらすぐ次の女の子に目をつけるんだァ!」
「生々しいって」
「冷泉さんにゴミの情報流さないであげてよ。冷泉さん、今の発言記憶からナイナイしようね」
「星宮さん。頭を振っても記憶は飛んでいきませんよ。気持ち悪くなるのでやめてください〜」
下劣な単語が入ってしまった冷泉さんの脳みそを綺麗に洗浄するためにシェイクしていたら逃げられてしまった。冷泉さんを目を回した様子で間山さんにしがみつく。
しっかし、二股かぁ。確かに付き合ってからまだ間もないのに、もう他の女の人に目移りしちゃうんだ? 与能本さんの彼氏さん、それなりに良い人だよなぁって思ってただけ残念である。与能本さんが男性不信にならないか心配だな。
「言ったでしょ与能本。男なんかと付き合っても何もいいことないのよ。奴らは性欲猿なの。まったく、あたしの忠告を聞かないから穢れてしまって……」
「確かに付き合った相手は悪かったけど、ウチは間山みたいなレズにはなりたくないかな」
「レズじゃないって言ってるでしょ。ねえ星宮、あたしらは普通の友達だもんね?」
「……」
ジトーっと睨んでやる。普通の友達は母乳なんて飲みません。自分のした事を記憶出来ない性質なのだろうか、間山さんは。
「ほら。星宮もそーだそーだって頷いてる」
「何が見えてるの? ウチの目には星宮があんたに呆れたような目付きを向けているようにしか見えないんだけど」
「眼科行った方がいいかもね」
「ウチがおかしいのか。そっかぁ」
諦めたように与能本さんが言う。大丈夫、与能本さんの方が正常だよ。詳しくは言えないけど、間山さんは間違いなく異常性癖の持ち主だからね。自分が正しいと胸を張ってほしいな。
放課後になり、みんなが部活動に向かおうと動き出す中。部活に所属していないボクは冷泉さんと共に間山さんか与能本さんの部活場所まで見に行くのが定例になっている。しかし今日は彼女らの方には行かず、ボクは1人で荷物を持ってグラウンドの奥のネットの方に赴いていた。
「やあ、海原くん」
「星宮じゃん。どうした?」
「練習見に来た。ボクに熱血少年野球の熱さを見せておくれ」
「なんじゃそりゃ。お前もキャッチボールするか?」
「それはいいや」
ユニフォーム姿の海原くんの提案をやんわり断り、日陰になっている所のベンチに座る。目の前では海原くんと同じユニフォームに身を包んだ野球部員達が等間隔開けて横並びになり、キャッチボールをしていた。
懐かしいな〜、野球。小学校の頃に何度か海原くん達に誘われてやった事あったっけ。掃除当番の時にやってたのとは違って本格的な、とは言っても草野球レベルだからそれほどでもないんだけど、それでもちゃんとしたスポーツとして成立していた野球はやっててとても楽しかったと記憶している。
「海原ァ、お前の彼女いんじゃん。自慢かー?」
「彼女じゃねえっすよ! ただの、友達っす!」
「じゃあ俺告っちゃおうか、な〜!」
「まじっすか? アイツ、ろくでもない奴っすよ〜」
「顔可愛いじゃんっ」
「顔だけっすよ」
おーーーい。海原くんがキャッチボール相手の先輩と失礼な事を言い合っている。本人の耳に届く場所でめちゃくちゃな事言うんじゃないよ。
しばらく野球部の練習をボーッと眺めていたけど、気付けばボクは海原くんの方ばかり目で追っていた。まあ周りにいる人、ほとんど知らない人だしな。顔を見た事のある同級生もいるにはいるけど喋ったことは無いし。知らない人を見てるよりも知り合いを見てる方が楽しいのは当たり前か。
「ふぅー疲れた」
「お疲れ様、海原くん」
「おう? 気が利くなお前」
休憩に入ったタイミングで海原くんがこっちに来たからタオルを渡したら彼はそれを受け取ってボクの頭を撫でてきた。……何故に撫でた?
「あ、悪い。つい癖で」
「癖で女の子の頭を撫でるの? ヤリのチンだ」
「ちげーわ。妹に対する癖だよ。考えりゃ分かるだろ」
「分かんないよ」
そんな事するから野球部の他の連中がまた離れた所で噂をし始めてるよ。もうちょっと周りの目があるって意識を持とうか、海原くん。
「タオル、サンキューな。また後日洗って返すわ」
「うん。海原くんに貸す用のタオル持ってくるか、今後」
「毎日来る気なの? お前」
「駄目?」
「駄目じゃねーけど。女達と話さなくていいのかよ?」
「実の所女子と一緒に居てもあんま楽しめない時もあるんだよねー。中身が男なもんで。今はスポーツを見てた方が楽しいや」
「へぇ」
まあ、ちょっと間山さんから離れていたいって気持ちもあるんだけどね。母乳好きを否定する気は無いけど、それでも提供してしまった側としてはやっぱり気まずいからさ。
「明日も見に来んの?」
「うん。雨降らなかったら見に行こうかな」
「そうか。それなら明日、顧問が出張らしいからお前も混ざれよ」
「え?」
海原くんの提案に目を丸くする。ボクが男子の野球部に混ざって練習するの? 体力の差で拷問じゃないか? それは。
「別に本格的に練習に混ざれとは言わねえよ。キャッチボールくらいならいいだろ、体力の差はそんな出ないし」
「ボクが遠くまで球を投げれると?」
「運動神経良い方だろ?」
「ガッツリ過大評価されてるな」
「男の頃のお前はかなり暴れてたからな」
「ふむぅ」
「いいじゃん、やろーぜ。お前なんか辛気臭い顔してるし。生理ぶち当たりの日じゃなかったら行けんだろ」
「……海原くん。女子相手に生理の話とかしない方がいいと思うよ」
「相手が星宮だからなぁ」
「ボクだから何言ってもいいってわけじゃないからね!?」
まだ生理再開してないからいいけどさ! デリカシーの問題だよ! まったく。
……ボクが本調子じゃないこと、海原くんには見抜かれていたんだ。それなりに明るいフリしてたんだけどな。
間山さんといい、付き合いが長い人にはそういうのってバレるんだなぁ。ボクのメッキの空元気もそこまで人を欺く能力は無いらしい。もうちょっと真剣に表情を作って嘘を吐かないとだな。
最終下校時間になった。野球部の面々が部活動の片付けを始めてる中、ボクは海原くんを探し出しそちらへ駆けていくと周りの人達がまた口々に何かを言い出した。それらを無視して、歩く海原くんの腕を掴み彼を立ち止せる。
「お前か。やけにちっこい奴が腕掴んできたなって思ったわ」
「平均身長だって言ってるでしょ。海原くん、ボクはそろそろ失礼するよ」
「あれ? 一緒に帰らんの?」
「んー。間山さん、まだボクと海原くんが仲良くしてるの気にしてるっぽいからさ。ここら辺で退散して合流しないとまたなにか文句言われちゃう」
「なんでアイツがそんな事気にするんだよ? よく分からんな」
「それはボクも分からないけどさ。陰口とか言われたくないでしょ?」
「そりゃ言われたくないけど。まあいいや、分かった。どんな筋書きで空白の時間を埋めるのかは知らんがまあ頑張れ」
「うん。またね、海原くん!」
「ういー」
軽く挨拶を交わし海原くんの元から離れて体育館に向かう。冷泉さんはバスケ部の方を見に行くって言っていた。みんな体育館に集まっているのだろう。
体育館に入り、3人と合流して帰路に着く。想定通り何をしていたのかを間山さんから問われたが、ボクは「眠かったから保健室で寝てた!」の無理筋すぎる言い訳を口にした。みんなはあっさりそれを信じてくれた、どうやら特に気にしてもなかったらしい。次からはもっとちゃんとした理由を考えておこう。
*
「ごめん。今日も別の用事があって! 最終下校時間までには合流出来るようにするから!」
「おっけ。いってら〜」
「行ってらっしゃい」
与能本と冷泉が星宮を見送る。最近星宮が放課後どこに行っているのかあたしには皆目見当もつかない。けど、去り際の星宮は普段よりも嬉しそうというか、早くそこに行きたいって感情が溢れ出てて釈然としない気持ちになる。
あたしらと離れてまで何をそんなに楽しみにしているのだろう。星宮がどこに行って何をしているのか、それが知りたくてあたしは今日部活をサボる事にした。
「あたしも今日はちょっと用事」
「え、間山も? 部活行かなくていいの?」
「うん」
「……ふふっ」
「? どうしたの冷泉」
「ごめんなさい与能本さん、私も今日は用事がありますっ」
「まじか。なんだなんだみんなして。ウチだけ仲間はずれかー!」
与能本は大きく嘆くと「まあいっか」と言って体育館へ向かった。冷泉も用事? なんだろう、家の用事かな。
「星宮さんの事、気になるんですよね。間山さん」
「え。なんで分かるの?」
「分かりますよ。星宮さんが用事でどこかに行くようになってからいつも落ち着きのない様子でしたもん」
「バレてたか。冷泉は星宮が何してるのか知ってる?」
「知ってますよ。着いてきてください!」
鞄を手に持ち冷泉があたしより先に教室を出る。その足取りは軽い、やけに楽しそうだ。星宮が何してるかって話なのに冷泉が楽しそうになるのはなんで? 関係者なの?
冷泉に連れてこられたのは学校の渡り廊下だった。なんでこんな場所?
「ほら、見てください向こう,野球部の方々がいる方」
「野球部?」
冷泉が指を指す方に目を凝らすと、頭丸坊主の男子集団がグラウンドを広く取って練習している隅の方、日陰になっているベンチに星宮が座っているのが見えた。
「アイツ、あんな所で何してんの?」
「ふふっ。野球部のある方の練習を見に行ってるみたいなんです!」
「は? ……男しかいないよね、うちの野球部」
「マネージャーを除いたらそうですね。あ、そうそう。星宮さん、野球部のマネージャーやろうかなって言ってましたよ」
「は? いつ」
「昨日だったかな?」
「あたしそんなの知らないんだけど」
「その場で思いついて言っただけだと思いますよ。でも来年から本当にマネージャーになっているかも。とある方と会話する時、星宮さんとっても楽しそうにしてますから」
「とある方……?」
誰だよそれ。てか冷泉が楽しそうにしてた理由ってそういう、恋愛ゴシップ的なものを見つけてしまったみたいなノリの話?
勝手に期待を膨らませてる所悪いんだけど、星宮は彼氏とか作らないと思うよ。アイツ中身男だし、それにもう子供いるし。そんな奴が恋愛なんて出来るわけないじゃんね。
「あ! あの方です! 間山さん!」
「どれどれ」
キャーと黄色い声を出して冷泉が飛び跳ねたのでそれを合図にあたしも星宮の周りを注意深く観察する。
「うーん、周りと変わらぬじゃがいも頭……」
「星宮さんと話してる間はここからじゃ顔見えませんね〜」
「なんでこんな離れた位置から見てるのさ、あたし達は。普通に星宮の所に行けば良くない?」
「駄目ですよ! 人の恋路を邪魔したらお馬さんに蹴られちゃいますよ!」
「星宮が恋路なんか始めたらあたしがその男を蹴り飛ばすけど」
「星宮さん専用のユニコーンさんなんですね……」
「その言い方は嫌かも」
上手く説明できないけどユニコーン呼びはちょっと。あたし、別に他人の処女とかどうでもいいので。てかそもそも星宮は処女じゃないし。
あ、練習再開みたい。野球部員達が一斉に動きだした。星宮と話してるあの男も星宮に手を振ってこちら側に体を向けた。その顔をよーく注意深く観察する。
「……海原?」
「あら。海原さんって言うんですか? あの方。お知り合い?」
「知り合いってか……なんでまた、アイツと」
「?」
つい不機嫌な声を出してしまったばっかりに隣にいる冷泉が怪訝な顔であたしを見てきた。なんでもないと冷泉に言って誤魔化しつつ、胸の中から湧き上がる怒りを抑える為に拳を握る。
星宮はあたしらに隠れて海原と会っていた? いや、与能本や冷泉にそれを隠す意味なんてないからきっとあたしにだけ隠していたんだろう。野球部のマネージャーになりたいだなんて、そんな話を冷泉に話すんだから間違いない。星宮はあたしにこの事をバレるのが嫌で、『用事がある』なんてハッキリとしない言い方で誤魔化して海原と会っていたんだ。
……どうして? なんでまた海原なの? あの赤ちゃんは海原との子じゃないって、そう言ったよね? 初詣の件だって、偶然居合わせただけって言ってたよね? それなのに連日あたしに隠れて二人で会ってたの?
信じたくなかった、でもさ。こんなのもう決まってるじゃん。
やっぱりあの子供は嫌がらせをしていた時に海原が星宮をレイプして出来た子供。妊娠が発覚した後に星宮は海原と話し合って、双方納得出来る形で話し合いにオチが着いたから産むことになった。つまり付き合い始めたってことでしょ? そうじゃなきゃ何もかもがおかしいもん、矛盾してるよ。
気持ち悪い。気持ち悪っ、本っ当に気持ち悪い!!!! なにそれ!? 元々男同士だったじゃんって何回あたしに思わせれば気が済むわけ!? なんでそんな関係になれるの!? まじで有り得ないんだけど!?
あたしだって人間として頭おかしい行動を取ったよ!? でもそんなの全然霞むくらい頭おかしい事になってんじゃん! アイツら、キチガイなの!? いじめていじめられてって関係性でしかも男同士なのにガキ作って、そこまでをしてきたのに許して許されたつもりになって、今は仲良くお付き合いしてるって? 脳みそ腐ってんじゃないの、まじで! 気色悪いなあ本当に!!!
「星宮さんにもとうとう春が訪れそうですね〜。羨ましい!」
「どこが?」
「へ? ……間山さん? あの、怖い顔してますけど……大丈夫ですか?」
「あ、ご、ごめん。大丈夫。あはは」
いけない、全然抑えきれてなかった。冷泉が心配そうな顔をしている。笑って誤魔化さないと。
「……あたし、部活行ってくる」
「星宮さんの事はもういいんです? もしかしたら素敵なものが見れるかもですよ!」
「素敵なものってなによ。学校だよ? 変な事しないでしょ」
「えー?」
名残惜しそうな声を出すと冷泉はあたしの横についてきた。
「星宮のラブストーリーを観劇したいんじゃないの?」
「したいですけど! 1人で覗くのは寂しいので。そのうち星宮さんに直接尋ねてみようかな〜って思ってます! 気になる人とか好きな人とか、いるんじゃないですか〜? って!」
絶対答えてくれないと思うけど。それか嘘を言うに決まってる、冷泉の近くにはあたしがいるんだし。
その日以降も毎日星宮はあたしらの元を離れて野球部を見に行った。あたしが気付いてないと思って、星宮は海原と話せるのを毎日楽しみにしている。
少し経った頃、星宮の方から『野球部』という単語を出すようになった。冷泉がしつこくそういう話を聞いてくるから根負けしたのだろう。その単語を口にして以降、あたしの前でも星宮は野球部の話を楽しそうに話すようになった。
イライラする。あたしはこんなに星宮の事を大切に思ってるのに、星宮は全然あたしの方を見てくれない。でも、遊びに誘ったりしたら必ず星宮は即決でその誘いに乗ってくれるし、無理に付き纏おうとしても嫌がる素振りを見せないからあたしから星宮に『何をしているのか』って聞き出したり、『もう男とつるむのやめてよ」って言い出す事は出来なかった。
苛立ちが募るばかりでそれを発散することは出来ない。煮え切らない感情を星宮に抱く。
「お、星宮ちゃんだ。おっすー」
「高田先輩だ、こんにちはー!」
放課後、星宮と2人で廊下を歩いていたら坊主頭の2年生に星宮が声をかけられた。野球部の先輩か。星宮はソイツと楽しそうに談笑している。海原と話すのもムカつくけど、この先輩と話すのもなんか星宮が取られてるみたいでムカつく。
「で? いつうちのマネージャーになってくれるんよ、星宮ちゃんは」
「時期的に来年の春とかじゃないですかー?」
「はよ来て欲しいわ〜。星宮ちゃんみたいな可愛い子がマネージャーやってくれたらまじ毎日頑張れるし!」
「あははっ! でもボクあんまり部活に時間割けないんですよね〜。幽霊部員になる見込み大いにアリですよ? そんな奴が入る意味あるんですかねー?」
「あるある! 意味大あり! 入ってくれたら星宮ちゃんと一緒に居れる時間増えるし! みんな喜ぶぞ〜!」
「おだてますね〜。まあ来年、時間に余裕できたら顔を出すようにしますよ」
「毎日顔出してるじゃん? うなばっ」
「あ〜! ボク達ちょっと急いでるのでもう行きますね! それじゃ!」
先輩が言い終える前に星宮があたしの手を引いて強引に走らせてきた。海原って単語があたしの耳に入るのを嫌ったな、気付かないと思っているのだろうか。
「随分人気者だね、星宮」
「そんな事ないよ! あの人とはちょっと話す程度だし!」
「ふーん」
あたしがどれだけ嫉妬心を抱こうと、それは星宮には関係の無い話。だから今みたいに、なんでもない風に答えるのが彼女にとって普通の反応、あたしももうそこに関してしつこく聞き出すようなことはやめた。
星宮を誰にも取られたくない。星宮はあたしだけのもの。どうすれば星宮を独占できる? そう考えた時、あたしの中には『また星宮を孤立させてしまえばいい』っていう考えが浮かんだ。
でも、それは駄目だ。もう二度と同じ失敗は繰り返さないって決めたのに、また星宮を独りぼっちにさせて寂しい思いや悲しい思いをさせるだなんて、そんなのあたし自身が耐えられない。
そこであたしは考えた。その為にあたしは、学校にいる内に星宮を呼び出して行動を起こそうと思った。
「所で間山さん。用って?」
校舎4階、技術室と呼ばれる教室の前であたし達は立ち止まる。この特別教室は鍵が壊れていて、南京錠も緩くなっているから少し力を込めれば簡単にこじ開けることが可能だ。
「入って」
「? 分かった」
技術室の鍵を開け、扉を開けて中に星宮を立ち入らせると、扉を閉める。
「技術室? この教室使うのって2年生からだよね。今ん所ボクらに関係なくない?」
「うん。星宮、どこでもいいから壁に背中をつけて、座り込んでみて」
「え? ……わかった?」
あたしの頼みを聞き、渋々星宮は言われる通り少し行った先の窓の下の壁に背中をつける形で座り込んだ。あたしはその星宮の正面に来て、床に膝をつく。
頭にはてなマークを浮かべた星宮が、少しだけ不安そうな目であたしを見る。表情から、あたしが何を考えているのかどことなく察しが着いたのだろう。
「ま、間山さん?」
「まだ、母乳出る?」
「……」
「出るよね。赤ちゃんの授乳期間って年単位だもんね」
「……ここ、学校だよ」
「知ってるよ」
「何考えてるの。馬鹿じゃないの」
冷たく、突き放すような声で星宮が言う。彼女の目にはあたしを責める強い感情が滲んでいた。
「隠し通せると思ってんの? 子供の事」
「っ!」
あたしが言った言葉に、星宮が息を飲む。彼女はあたしの言葉をどう解釈したのか、攻撃的な目を向けたまま震える手でセーラー服のチャックに指をかけた。
「…………わ、わかったよ。いいから。だから、あの子の事、誰にも話さないで」
「……あたしは、星宮の味方だから。どんな事があってもそれだけは」
「そんな話してないよ。誰にも話さないでってお願いしてるの。……ボクの味方だからって、言ってるだけでしょ。今この場でそんな言葉、聞きたくないよ」
それは断じてちがう。言ってるだけじゃない。あたしは本当に何があっても星宮の味方だ。それを証明するために、星宮と2人っきりになる為に学校でこんな事をしているんだ。そこだけは履き違えてほしくない。
星宮があたしに隠し事をするなら、あたしだって星宮と2人だけの誰にも話せない秘密を作ってやる。もしバレたら、あたしも一緒に孤立してやる。そんな思いでこんな事をしている、それを星宮に理解してほしかった。
「体壊すよ」
「……」
「……こんなのやめてよ。汚いよ」
「汚くない。赤ちゃんにあげる為のものなのに汚いわけないじゃん」
「……」
自分で言ってておかしくなる。そうなんだよな、本来これは赤ちゃんにあげるもの。なのになんであたしは友達の母乳なんて飲んでるんだろう。なんていうか、もう後戻り出来ないところまでやばい事やってるよなぁ……。
星宮にセーラー服を押さえてもらって、ブラを外して、星宮の胸に口をつける。胸を吸うと、少しして仄かに甘いうっすい味の液体が出てくる。あたしはそれが何なのか意識しないように、無心でただ吸って飲み続けた。
星宮はこんな事をするあたしを心の底から気持ち悪がって、軽蔑してるんだろうな。でも、これくらいやって共有の秘密を作らないと星宮はどこかの誰かの手元に行ってしまう気がする。
「……んむ?」
あたしが乳を飲み始めると、星宮はまたあたしの頭を優しく撫でてきた。その行動の真意は分からない。本来なら気持ち悪がってあたしを突き飛ばしてもいいはずなのに、なんで彼女はこんな事をするあたしを受け入れるように頭を撫でるのだろうか?
母性でも抱いてるのだろうか。同い年の友達相手に。あたしがそれを言うのも変か、その同い年の友達の乳を飲んでるんだから。
……なんだろう。今思うと、星宮と仲良くなってからずっとあたしはどこかイライラしていて、不安を抱いていた。ストレスから解放されていた期間はめちゃくちゃ短く感じる。それなのに、星宮の乳を吸ってるとなんだかそういう疲れが少しずつ減っていって、謎の安心感を抱くような気がした。
実の所、初めて吸った時からしばらく『また同じ事をしたい』って思っていた。今日この行動を取ったのも、その理由が大きかったと思う。
飲んでいる最中に涙が零れた。自分が情けなくて、馬鹿馬鹿しくて、でも星宮はそんなあたしを優しく撫でて受け入れてくれて。嬉しいんだか悲しいんだか分からない感情に支配されて、それなのにあたしの胸にあったモヤ付きは解消されて涙となって体外に出ていく。
「……っ」
乳首から口を離して、そのままあたしは縋るように星宮の体に体重を預けた。蹴って突き放せばいいのに、星宮は何もせずにただあたしを抱き留め、赤ちゃんにするようにあたしの腰に添えた手を優しくポンポンと叩いていた。
……このまま甘えていたら、星宮がどうとかじゃなくて本当にあたし自身が駄目になると思った。星宮に悪い形での依存をしてしまう気がした。だからあたしは体重を預けた姿勢から体を持ち上げさせ、胸を出したまま座り込んだ姿勢の星宮の前に同じように座り視線を合わせた。
赤ちゃんをあやすような優しい仕草を取っていた星宮は、そんな行動を取っていたようには全く見えない冷たい顔をあたしに向けていた。
「……これからも、定期的にこれ、やるから」
そう言うと、星宮の顔が嫌悪感に塗れた表情に歪んだ。口には出さないものの、あたしに対して悪意に満ちた言い方で『気持ち悪いんだよお前』って言うような顔をしたのに、すぐに星宮はそれを歪な笑みに変えて「あははっ。そう」と言った。
「でっかい赤ちゃんだね」
「……赤ちゃんじゃない」
「あはは、はは。……ならこんな事させんじゃねぇよ」
初めて聞く声、初めて聞くセリフに耳を疑い、星宮の顔が直視出来なくなる。しばらく俯いていたら、星宮の方から「もういいの?」と尋ねられた。
そこでおかわりなんて頼めるわけもなく、あたしは「いい」とだけ返し立ち上がった。その日、一度も星宮の方からあたしに話しかけることは無かった。