19話『みんな優しい』
本当は、伊藤がクラスからハブられればいいと思った。あることないこと勝手な噂を言い触らす女ってレッテルを貼られて、星宮本人からも突き放されて、面倒事からは離れたいってスタンスの長尾と裏で仲良くやってくれればそれでいいと思っていた。
星宮は最初から最後まで伊藤を疑う事なんてしなかった。あたしが伊藤のランドセルに上靴を仕込んでも、それを『他人がやった事かもしれない』とちゃんと可能性を模索した上で、決めつけるのは良くないと主張して皆の前で伊藤を庇ってみせた。
あたしはあたしで、自分の保身に走りすぎた。最初疑われた時は何も関係ない、この件とは無関係だけど全員から等しく好ましく思われてない勅使河原を囮にして言い逃れようとして。その結果、多分星宮に不信感を抱かれたんだと思う。
あたしだけでも星宮の事を庇おうとした。味方であろうとした。でも、星宮は海原との言い争いで海原の気持ちを考えない発言を繰り返した結果、海原に心の底から憎まれる形になってしまって、それで周りの星宮を見る目が変わったと知った時、あたしは星宮を庇い続けることが出来なくなってしまった。
誰がきっかけとなったかは知らないけど長尾と星宮がキスしてたって噂が流れて、星宮は女子から嫌われた。海原が星宮の嘘の噂を流した結果、星宮は男子からも嫌われた。
時間が経つと嫌いの感情が『排除するべき』という使命感に移行していった。星宮はこのクラスの癌のように扱われ、担任である山田先生に気付かれないよう全員が悪知恵を働かせて分かりにくい方法で星宮に嫌がらせをするようになった。
星宮から伊藤を引き剥がす一心で敢行したあたしの行いのせいで、星宮は居場所を失ってしまった。
「間違えた……全部、間違えた……」
暗い部屋で呟く。自分の仕出かした行いの結果が、最も望んでない形で叶ってしまった事を悔いるように口が動く。
最終的に確かに星宮から伊藤を引き剥がすことは出来た。今となっては伊藤は自分のランドセルに星宮自身が上靴を仕込んだと信じて疑わない。それ故に、今までの仲良い態度とは裏腹に彼女も星宮いじめに少し加担するようになった。
孤立しているんだから今こそチャンスじゃないか。星宮に近付くのを邪魔する奴はもう居ない、そんなのは分かってる。
「でも……」
今の星宮に近付けば、あたしもいじめの巻き添えを食らうかもしれない。それが怖くて、あたしは星宮との関わりを断ち遠くから傍観するようになった。
……海原と敵対していた時はあれほど声を大にして自分を強く見せていたのに、少し事情が変わればこれだ。あたしは、星宮が思うような強い人間じゃない。周りが気を使ってくれるから間違った自信を得て威張ってただけの、ただの弱い人間なのだ。
特技なんかないし、好きなこともない。ただ周りに合わせてるだけの、自分を持たない女だった。
海原と言い合えてたのは、アイツも同類だったからだ。群れなきゃ何も出来ない弱虫、そんな風にアイツを馬鹿にしてたのは自分と同族で、見てるだけで痛々しく思うからってだけの理由だった。
星宮を攻撃する人は単体じゃないし、周りのみんなはいじめをしていようが嫌がらせをしていようが確かな自分を持っている。
理由無しに星宮をいじめてるわけじゃない、そんな下らない事はしない。それを分かってるから、海原もそれっぽい残酷な作り話に星宮を紐付けて流布したんだと思う。
伊藤だって、あたしが上靴の件でアイツを嵌めようとしなければきっといじめに加担なんかしなかった。むしろあたしとは違って、やり過ぎだよってみんなに言っていじめを止めようとしたのかもしれない。
「……ほんと、馬鹿みたい。くだらない人間だ、あたしって」
劣等感と自責の念で無気力になる。もう長い事、星宮と共通の話題になるドラマやアニメの視聴もしていないし、絵の練習もしなくなった。そういうのを始めると星宮の事が脳裏に浮かぶから、アイツの事を思い出して意識しちゃうから手を付けられなかった。
「……」
直接会話は出来ないけど、でも、メッセージを送るのはいいかも……。違う、駄目だ。星宮のスマホの画面にあたしからのメッセージを残したくない。怖い。
打ちかけていた文字を消して、そのまま流れでブロックしようとしたけどその指が震えて動かなかった。ブロックは、流石にしなくてもいいよね。辞めよう、そこまでするのはやめよう。自分に言い聞かせてスマホを手放す。
「……話したい」
自分の口から漏れた呟きがあまりにも卑怯で、自分に対して嫌悪感を抱く。星宮がこんな事態になった張本人なのに、自分は罪の意識から逃れたくてアイツとの意思の疎通を図ってる。それがどんなに卑怯で、残酷で、浅ましくて、自己中心的な考えなのか、分かっているのに平然と口にできる自分に気持ち悪ささえ覚えた。
「……っ、ぐっ、うぅ……っ」
悔しくて涙が出てきた。自分が憎くて、殺意すら沸いた。死ね、死ね、卑怯者、人間のクズ。ゴミ。裏切り者! そう自分を責める声が聞こえてくるような気すらした。あたしと全く同じ声をした誰かが、あたしを口汚く罵って早く死んでしまえと首を絞めてくるような感覚がした。
「……っ!! はぁっ、はぁっ!」
耐えきれなかった。自分を責める自分自身の声に。これがいけないことだって知っておきながら、スマホを取る。
通話をかけた。長い、長い呼出音がスマホから響く。星宮が通話を取ってくれない、その時間が伸びる毎に胸が苦しくなる。時間の経過と共に首が絞まるような、絞首刑に処されているような気分があたしを苛む。
「…………あっ」
結局、星宮は通話に出なかった。
手からスマホが落ちる。出てくれるまで連続で通話をかけるような事は流石に出来なかった。
「ごめ、なさっ」
途切れ途切れの謝罪の言葉が、どことも繋がっていないスマホに向けて発せられた。あたしは、星宮に拒絶されてしまっていた。
当たり前だ。星宮だって、馬鹿っぽく見えて実はそこまで馬鹿じゃないから。あたしが全部の黒幕だったってもう分かっているはずだし、その上で最近のあたしはただ遠くで傍観しているだけなのだから嫌われて然るべき存在だ。
……きっと、星宮の目にはあたしの姿は悪魔のように映っていたのだろう。安全圏から見下し、今か今かと命が絶えるのを愉しみながら待つ、非道な存在としか思えなかったんだ。そうでもなければ、こんな夜中に通話に出ないなんてことは有り得ない。アイツの生活習慣は把握してる、この時間帯は暇してる筈だから。
「あんたー。そろそろお風呂入っちゃいなさいよ〜」
ママがドアの向こうから声を掛けてくる。あたしは返事をする事が出来ず、何も言わないままドアを開けて風呂場に向かった。
*
また星宮が俺に対して謝ってきた。何に対しての謝罪かはもはや分からない。思い当たることがあるとすれば、陰口を言っていたことに対する謝罪か。
「あんの野郎……!」
馬鹿にしてくれる。思い切り壁を殴ると、向こうの部屋から妹が怒る声がした。黙れ、この部屋に入ってきたら殺してやるからな。
俺が星宮へのいじめを扇動してるってアイツ自身分かってるから、今更俺に謝罪してきたんだろうな。クソがっ、伊藤と間山がいる場で素直にそれを認めて謝ってれば情状酌量の余地があったってのによ! いじめを止める為に、思ってもない謝罪をしてきたって事だろ! 本当に精神ひねくれてるな!! 間山とつるんで以降どんどん終わった人間になってってんじゃん!!!
「諸悪の根源は間山だわ、アイツまじで! はぁっ!」
勢いよく椅子に腰掛けると背もたれがギシギシ言った。間山、関わった人間の性根を腐らせる事に特化しすぎだろ! 仲良い女連中も揃って頭お花畑のクソ性悪女ばっかだし!!
はぁ。だからアレほど仲良くするのやめろって忠告したのに!! 昔からコイツ馬鹿だよな〜って思ってたけど、後先考えることも出来ない大馬鹿だったとは思いもよらなかった!!
「もうこれ以上アイツに更生を促しても意味ねぇんだろうなー」
星宮が俺に対して行った舐めてきた態度を改めさせる為、自分がどういう事をしてたか分からせるために同じ手段を取ってやったが、今日のやり取りでわかった。
アイツは微塵も反省などしていない、ここまで来てまだ俺の事を睨みやがったんだ。謝罪を口にした直後に。終わってる、まじで終わってる。人間として関わるのは辞めた方がいいな。
「だが、性格は終わってるけど手は出してこないんだよな。身の程は理解してると」
姿勢だけは評価出来るか。アイツ、単純な腕っぷしや身体能力だけで見れば俺と大差なかったし。
でも、それならなんでさっき殴った時に抵抗しなかったんだろ?
アイツがいじめられる以前、俺をムカつかせても反抗してこなかったのは『お前程度の力じゃ痛くも痒くもねぇんだよバーカ』っていう意思表示だったのは分かってるんだけど、あの場での暴行は明らかに傷になるくらいの力で振るってたんだが。流石に、アザになったり皮膚が切れたりするような暴行を受けても『効きませーん』とはならないよな? うーむ。
「あれより長く殴ってたら手を出してた? いや、そんな風にも見えなかったんだよな……てか、あのヒョロヒョロのミミズみたいなオタク野郎に関しては言ってる事が意味不明だし『お前ギャグセン無いから黙れ』っつってボコっても良いラインだったよな。なのに黙ってたのはなんでなんだ? 間山もつるんでた影響でアイツ自身ギャグセンが枯れたとか?」
うーむ、分からん。女になる前の星宮だったら、横井辺りがよく分からんゲームのキャラの話とかしてたら『つまんないから黙ってー?』とか言って平気で頭叩いてたと思うんだけど。まるっきり別人みたいだったな。
「……あ。アイツ女になったら弱くなったんかな。単純に」
身体測定とかしてないからアイツの今の体力とか筋力とかはどれほどなのかは分からないけど、女って足遅いし力も弱いもんな。その常識にアイツを当てはめるのなら、男だった頃より喧嘩が弱くなってても不思議じゃないか。
「とするならば、喧嘩じゃ勝てないからって裏で俺の悪評流してたのか。うわぁ……引くわぁ……まじで」
どんどん真実が明かされてくと同時に、星宮への気持ち悪さが俺の中で増大していく。なんだかなぁ、肉体が変わると精神まで変わるんだな。魂の堕落ってやつか。怖いわーオカマ病、かかったのが俺じゃなくて良かった本当に。
てかアイツ、障害者のくせになんで俺らと同じクラスにいるんだろ。まるで俺らも障害者みたいになるじゃん、相応しくなくね? 担任はどう思ってんだろーなそこら辺。
「周りのみんなも迷惑してるだろうし、追い出してみるかー。つっても卒業まで残り少ないし……いや、中学になっても同じクラスとかなる奴いたら可哀想か。今のうちに常識ってのを教えてあげるのも優しさかもなー。どわっ!?」
勉強机に足を乗っけて、椅子を傾けた状態を思考を巡らせていたら椅子の足が滑って思い切り床に頭をぶつけた。いってー!
まっ、弱い癖に調子乗ってる悪い奴を叩き伏せるのは俺としても楽しいし、ここは我儘を言わずクラスの仲間達の為に星宮いじめに貢献してやるか。
最近やる事もないしな、日々の退屈を紛らわせるって点でアイツも誰かの力になれるってんなら喜んでやるだろう。慈善行為慈善行為っと。
「お兄ちゃんさっきからうるさい!」
「あー? うるっせぇな」
「なにしてるの! 壁殴ったでしょー!」
「悪い奴を懲らしめる予行演習してたんだよ。空手だよ空手。しゅっしゅっ」
「悪い奴を懲らしめる……? なにかするの?」
「おう。この地に蔓延る巨悪と闘う使命があるのだ。兄ちゃんはその巨悪との戦いに命を賭して参加するのだ。分かるか? 妹よ」
「! 山の悪い神様との戦いってコト!? ヤマケケ様と戦うの!?」
「うんなーんだそれ。聞いた事ないんだけど」
「うちのクラスで流行ってる噂だよ! 村のさっ、山の途中にさっ、古いほこら? あるじゃん!」
「あるね」
星宮んちから真っ直ぐ行った登坂の先にある奴な、バッキバキに割れてる地蔵とかある所。
「そこにはね、太古の昔からこの地に住み着く祟り神が住んでるんだよ!」
「そうなんだー」
「そうなの! 名前はヤマケケ様って言ってね!」
「とたけけみたいな名前してんね」
「人に取り憑いて周りの人を呪い殺す神様なんだよ!」
「へぇ〜」
「お兄ちゃん、ヤマケケ様と戦うの!?」
なわけないだろ。なんだよヤマケケ様って、初耳だわ。てかいるわけないだろそんなやつ、まあ夢を壊すのは悪いから言わないでおいてやるけどさ。今時の小3でもそんな下らねえ嘘話を信じたりするんだな。我が妹ながら、頭の悪さに少し絶望だ。
「やだー! お兄ちゃん祟り殺されちゃうよ! 悪い神様に殺されちゃう!」
「殺されない殺されない。抱きついてくるな暑苦しい」
「そうやって舐めてる人から食べちゃうんだよその神様! この村って結構人が行方不明になるでしょ! ヤマケケ様の仕業だって言われてるんだよ!?」
「クソ強いじゃんヤマケケ様。なんで今まで放置されてたんだよ」
「強すぎてどんなれいしょくし? れいぼうし? も勝てないんだって!」
「霊媒師だもんね多分。霊媒師ってそんな、エクソシストみたいな事する人なんだっけ?」
「知らないけどお兄ちゃん殺されちゃうよー!」
「任せとけって。必ず生きて帰るからよ」
「やー!」
なぜだかエンジン全開でぎゃいのぎゃいの騒ぎながらしがみついてくる妹をどうにか引き剥がす。ったく、とたけけ様だかヤマノケ様だか知らないけど誰がそんな噂を流したんだが。根も葉もない噂を広めるとかやってる事が低俗すぎるだろ。まさに子供の考えるイタズラって感じ、いっそ微笑ましいわ。
「大丈夫、お兄ちゃんは誰よりも強いってのはお前もよく知ってるだろ。俺が倒すべき相手は俺からしてみればザコ同然、傷一つ付けずにボッコボコにしてやるって」
「ほんと……?」
「ほんとほんと。だから心配すんなって」
「わかった。……絶対生きて帰るんだよ! 死んじゃダメだからね!」
「誰が死ぬかぁ」
「お兄ちゃんが死んだら誰がわたしを守ってくれるの、だからね! 約束! 指切りげんまん!!」
「大袈裟すぎるだろ」
なんか本当に死地に赴くみたいなテンションじゃん。それほどまでにその都市伝説は小3界隈では恐ろしき事実として浸透してるのか。数年後が楽しみになってくるな、あの時信じてたのは一体……ってなるのを早く見てみたい。
怒鳴り込んできた筈の妹と指切りげんまんして、妹が部屋から出ていったのを確認しため息を吐く。
まったく、いつまで経っても兄離れしないなーアイツ。まあ、幼い頃からなにかと色んな所に連れ回してやったし、いじめられそうになったら仕方なしに助けてやってたからああいう風になるのも納得は出来るが。放任主義な親が1番悪いわ、まじで。
「さて。そいじゃあ登校再開してから、星宮にどんなお仕置をするか考えとくかー。生半可な嫌がらせ程度じゃクラスから追放するのなんて無理だろうし。なにがあるかなー?」
最近つるむようになった星宮いじめクラブの面々とのグループライン画面を開き、『三学期からどうするよ?』とメッセージを送る。すぐに既読が着いて次々に嫌がらせの内容が送られてくる。中々面白いものもあるが、イマイチユニークさの欠ける内容ばっかで見応えがない。
うーん、やっぱりコイツらセンスイマイチだなー。星宮や長尾、横井とかだったらもうちょい笑える文章も打てるんだが。まあ、上澄み連中と比較してもしょうがないか。
俺は送られてきたメッセージの一つ一つに添削をしつつ、より良いアイデアを出せるよう皆にアドバイスを送り自分でも考える。星宮をやっつけるという皆の熱意は相当なものだから、こりゃー意見をまとめるのは一苦労だな。今日は徹夜になりそうだ……!
*
「すまなかった、憂……!」
扉越しに父さんが謝る声が聞こえる。
長時間眠ることの出来なかったボクは、朝早くから謝罪に来た父さんの意志に応えようと扉近くまでは行けたのだが、その扉を開けて父さんとちゃんと対面することは出来なかった。
自分でも驚くくらい、今のボクは冷静で落ち着き払っていた。昨日の出来事も、結局は事故のようなものであり父さんにボクを犯してやろうって意思が無かったのは明白だからそこまで嫌悪感を抱く事はなかった。
ただ、ここで開けてしまったら、ボクは父さんに向けて酷い言葉を吐きかけてしまうかもしれない。それが嫌で、ボクは扉に背中をつけて床に座り込みようにして、向こうから扉を開けられないようにしただ父さんの言葉に耳を傾けていた。
「俺は、なんということを……憂、すまない……俺は、父親失格だ……!」
「…………そんな事ないよ。父さんは、ボクが普通の子じゃないって分かってたのに、必死に育ててくれたじゃない」
「そんなの関係ない! 昨日、俺はっ……!!」
「ボクには、そういう事をしたくなる気持ちって全く分からないけど。でも、酔っ払って母さんに見えてたんでしょ? ……それなら、仕方ないんじゃないかな」
「許されるわけがない! 仕方なくなんてない!! 実の子を、この手でっ……うああぁぁぁっ!!」
悲痛な叫びが上がる。……どうしてだろう、父さんのこんなに辛そうな声を聞けば、普通ならボクも釣られて泣き出してしまうはずなのに。今は逆に、父さんが辛そうにすればするほど、心が冷えていくような感じがする。
「……そうだね。父さんはとっても悪い事をしたよ」
「そうだ、そうなんだよっ、俺はっ」
「ボク、生理きてるんだよ。子供を産める身体なんだよ。なのに……あんな事、しちゃダメだよ」
「うううぅぅぅっ!! 憂っ、ああぁぁあああぁぁっ!!!」
あれ? ボク、父さんに酷い事を言いたくないから部屋にこもってるはずだったのになんでこんな、責めるような事を言ったんだろう?
自分の感情が分からない。もしかしたらボクは、自分で思っているよりももっとずっと、父さんの事を軽蔑しているのかもしれない。
父さんはボクの親だ。父さんが居なければボクは生まれていなかった。父さんが育ててくれたからボクは大きくなれた。父さんが仕事を辞めてまでして環境を整えてくれたから友達も出来た。父さんが慣れない人付き合いをしてくれたおかげで近所の人からも受け入れられた。父さんは宿題で困った時に助けてくれる。父さんは面倒臭がりだけど休みには遊びに連れてってくれる。父さんは時々無茶をして高い買い物をして美味しいものを食べさせてくれる。父さんは面白い昔話を聞かせてくれる。父さんはボクの気持ちに寄り添ってくれる。父さんは将来の夢を一緒に考えてくれた。父さんはこれだけはやるなという悪い事を理由も併せて教えてくれた。父さんは時々意地悪でボクが女子と遊んでいたら彼女かと聞いてくる。父さんはボクに良い友達ができるかいつも心配してくれていた。父さんは母さんが居なくなってもボクを傍に置いてくれた。父さんは最後までボクの面倒を見ると約束してくれた。父さんは他の人の親よりも若くて見た目もかっこいいと思う。父さんは、父さんは……。
父さんは酒に逃げてる。父さんはボクをレイプした。
あれ、駄目だ。
なんでだろう、軽蔑って感覚が体から抜けない。
おかしい。父さんの肯定出来る意見を沢山列挙したのに、父さんを否定する意見なんて一呼吸の間に言い切れるくらい短いのに。なんで、気持ち悪いって思ってしまうのだろう。
「……とっても痛かったんだよ、父さん」
「そうだよな、そうだよな……ごめん……俺は、本当にっ……」
「血も出たよ。処女膜、だっけ。ねえ、父さん。自分の子供の処女膜をズタボロにするのって、どんな気分なの」
「! あ、ああぁっ」
「自分の子供を犯して、何が気持ちいいの」
「ち、違うっ、気持ちよくなんかないっ、違うんだ……!」
「調べたんだよ、あれが何なのか。精子だってね。ボク、自分がされた事の重大さに気付いて、何度も何度も吐いちゃった」
ごめんなさいと、謝る父さんの声が大きくなった。何度も何度も床に頭を打ち付ける音が響いた。
なんの感情も湧かなかった。なんでだろう、今のボクはいつもみたいに前向きな思考に移行出来ない。昨日の今日で感情を作るのが下手になったみたいだ。
「シャワーと指でかきだしたけど、それで足りてるのかなぁ。どうしよう、父さんとボクの子供が出来たら」
「あああぁぁっ、憂っ、もうっ」
「あと、あれからずっとお腹の奥が痛いんだ。調べたんだけど、多分子宮怪我しちゃってるよこれ。父さん、乱暴にするんだもん」
「そんなっ!? びょ、病院にっ」
「いいの? なんでそうなったのか聞かれたら、多分ボクは正直に答えるよ? 実の父親とそういう事をしましたって」
「そっ…………」
「……困るよね。この村、狭いもんね。噂なんてすぐ広まっちゃうもんね」
父さんを責めるつもりなんてないのに、どうしてこんなにスルスルと言葉が出てくるのだろう。こんな残酷な言葉が出てくるのに、なんでボクはこんなにも心を動かさずに済んでいるのだろう。
もう、どっちみちボクの口は意思に反して勝手に動くみたいだし、扉越しに話してても変わらないから立ち上がって扉を開く。ボクが扉を開けると、父さんは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに濡らし歪めながら、ボクに土下座をしているのが見えた。
なんて無様な姿なんだろう。そんな思いしか抱かなかった。
「憂……っ!?」
「……なんで目を逸らすの?」
「なんでっ、裸なんだっ!?」
「……」
なんでって、そういえばなんでだろう。なんにも考えてなかったな、服の事とか全然頭の中になかった。寒い。
「下にさ、ボクの寝巻きあったでしょ。ゲロまみれの」
「……体操服とか、あるだろ!」
「そっか。そうだね」
寝巻きがないから裸でって理屈でいたつもりだったけど、代わりに着れる服なんて確かに沢山あるか。体操服に着替えよう、よいしょよいしょ。
「ねえ父さん」
「ゆ、憂っ、すまなかった! 本当に! もう二度とあんな事はしないっ、だから!」
「もう許してるよ」
「えっ……?」
ボクの言葉に絶句した様子で父さんが目を見開く。顔が汚い、タオルでも渡してあげよう。父さんに未使用のタオルを渡し、顔を拭かせてから言葉を続ける。
「昨日された事って、普通に考えたら有り得ない事だけど。でも、ボクには父さんしか家族が居ないし、あんな事で憎んで父さんを拒絶してたら、普通の子供になんてなれないでしょ?」
「普通の、子……?」
「うん。父さんも母さんも、昔っからずーっと言ってたよね。ボクに。友達が居て、頭がそこそこ良くて、でも子供らしい馬鹿さもあって、遊びにも活発で、元気で、素直で、前向きな、普通の子と同じようになりなさいって」
「……」
「母さんはこうも付け足してた。傷付いたり、悲しい事があったら『ボクは強い子』って言いなさいって。昨日、それを沢山言った。言い聞かせた。だからもう大丈夫。気にしてない」
「憂……?」
「普通の子になる為には、周りの家族も普通の家族と同じようにしないとでしょ? ならそんな必死に謝っちゃダメだよ。例えどんな最低な事をしたとしても、普通の親は普通の子に対して土下座したり、泣き腫らしながら謝ったりはしない。そうでしょ?」
「憂っ!!!」
父さんは突然、ボクの体を強く抱きしめてきてまた泣き出した。泣きながら、「俺達が間違ってた! 普通の子と同じなんて、そんな酷い事……すまないっ、父さんも母さんも……」となにやら訴えてきていたが、あんまり耳には入らなかった。
抱きしめられた。父さんと体が密着している。まるで昨日犯された時みたいだ。
頭の中でグルグルと黒い雲が渦巻き、自分を抱きしめる男に対する拒絶反応のようなものが芽吹きかける。
本能的な嫌悪感を、理性で抑えつける。ボクは強い子だから、こんな事では吐いたりしない。一度父さんを支えるって決めたんだから、こんな程度の事で父さんを拒絶するわけにはいかなかった。
「父さん」
「憂っ、ゆうぅぅううぅ……!!」
寒かったから体温で温まるのには丁度いいけど、それを抜きしたらちょっと面倒臭いなぁ。はあ、気持ち悪い。
「憂っ、もう酒は辞めるから! 辞めるからなっ……!」
「え、なんで」
「えっ……? いや、だって……」
「あんな事をしたのは別にお酒のせいじゃないよ。父さんが寂しかったから、母さんだと思ってそういう事したんでしょ」
「それは……」
「お酒は辞めなくてもいいよ。無理にやめようとしてもストレスになるでしょ。……お酒に酔ってなくて、シラフの状態で殴られたりする方が嫌だよ」
「そんな事言ったってお前……」
「自棄酒を辞めてくれたらそれでいいから。好きなんでしょ、お酒。なら、程々にしよ。ね?」
ボクがそう伝えると、父さんは申し訳なさそうに視線を下げて小さく頷いた。うん、そこで『いや、辞める』って言えない辺り、どのみち酒は辞められて無かったんだろうな。口だけの言葉を聞いても、後から嫌な気持ちになるだけだしもうなんでもいい。どうでもいい。
「それじゃ、部屋から出てってね」
「えっ? ゆ、憂?」
「? まだなにか話すことあるの?」
「…………いや」
「だよね。じゃあ出て。早く。今すぐに」
「……すまなかった。本当に」
「何度も何度も同じ事言うなよ、聴こえてるって。お仕事頑張ってね。じゃ」
半ば強引に父さんを部屋から出して、深い深いため息を吐いてベッドに寝転がる。
……イライラする。なんでだろう、理由は無いのにイライラする。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。そんな考えも同時に湧いてくる。なんでだろう。
……寝よ。全然寝られなかったし、多分イライラするのもそれが理由だ。父さんとはこれで円満に何事もなく和解出来たんだし、もう起きている理由がない。寝よう。ボクは目を閉じ、頭の中に響く雑音を無視しながら呼吸を整えて寝に入った。