1話『長所は運が良い所』
俺を階段の上から突き落とした女擬きが笑っている。ざまあみろ、そう嘲笑うような憎たらしい顔を浮かべながら、俺を見下している。
『……お前が悪いんだ。ボクのせいじゃない』
後頭部が熱い。うなじに液体の感触がある。グラグラする視界の中で、ソイツは侮蔑の目を向けたまま何かを呟くと、体の向きを変えて歩き去っていった。
一時期、俺はアイツの事を好きだったと錯覚してた事もあった。素直で、明るくて、少しだけ馬鹿っぽくて。一緒に話していると時間を忘れるくらい楽しくて、だから出会った頃はアイツともっと仲良くなりたくて……独占したくて、それまでの関係性を全く考慮しない行き過ぎた干渉をしようとしたという自覚はある。
アイツは、悪魔だった。
俺が想像していたよりもアイツはずっと悪辣で、他人を不幸に突き落とす手段を平気で実行する奴だった。
俺にも罪はあった。けれど、アイツは関係ない人まで巻き込もうとした。
侮っていた。内心、下に見ていた。それがいつからか恐怖に変わり、失望し、嫌悪した。
アイツはここに居ちゃいけない。そう思った、だからいじめた。いじめの範疇を越えるような酷い事もした。アイツは何もやり返してこなかった。
俺はアイツの『表面上の弱さ』を過信した。ただの弱虫で泣き虫。男から女に変わってしまったなどという、よく分からない嘘を吐いて自分を哀れなヒロインに見せかけようとする卑怯者。
そんな奴、いじめていじめていじめ抜いて、俺の住んでいる世界から排除してやろう。そう思っていた。
その顛末が、これだ。
散々舐め腐っていた相手に突き落とされ、頭を打ち、血を流す。すぐにでも起き上がって反撃したいのに体は言うことを聞かず、抗いようの無いまどろみに襲われて目の前が暗くなっていく。
底の深い沼に足を漬けて沈んでいくような、抗いようのない脱力感がゆったりと俺の意識を蝕んでいく。
これが死なんだと悟った頃には、俺の世界から光は失われていた。
三年前。
「よっしゃー1位! みんなおっそいよー!」
「はぁ、はぁ……っ! 星宮が早すぎんだよ!」
「待ってよ〜!」
「はいドンケツは回避〜!」
「ほらみんなランドセルここ落としとくから勝手に拾って〜。おばちゃーん!」
「はいはい。こんにちは悪ガキども、アイス冷えてるよ!」
ジャン負けで持たされていたボク以外の三人のランドセルを地面に落とし、駄菓子屋に入っておばちゃんに話しかけ、100円をカウンターに置いてアイスを貰う。
「うっま〜!」
「今日も相変わらず元気ねぇ。はい麦茶」
「ありがとーおばちゃん! って、当たりだ!? おばちゃんアイス当たったー!」
「あら〜おめでとう〜!」
「おばちゃん星宮に甘くね〜? 絶対当たりのやつ仕込んだじゃん!」
「未開封なのにどうやって仕込むのよ。運よ、運」
「くそー! ここでもラッキーマンパワーを発揮するのかよ星宮〜!」
「へっへっへ。おばちゃん、次も当たりだったら二本ちょうだい!!! 賭け勝負!」
「いいけど、アイス4本も食べたらお腹壊しちゃわない?」
「当たったらみんなにもアイス分けるよ! 争奪戦勃発!」
「まじ! 当てろ星宮、ラッキーマンパワー使え使え!」
「任せろー!」
ボク、星宮憂はクラスで『ラッキーマン』というあだ名が付けられている。
最初に付けられたきっかけは、昔ジャンプで掲載されてたラッキーマンっていう漫画の主人公と顔が似てるからっていう理由。
後にボクが給食ジャンケンで連勝したり、漫画の抽選に当たったりといった幸運な出来事が何度も起きた事で『とんでもなく豪運な男』という意味でそのあだ名が定着した。
ボクの顔がラッキーマンに似てるって言った人は、「お前って能天気だしいつも笑顔で明るいから似てるよね」と言っていた。顔自体はそんなに似てないけど、イメージ的にぴったりなんだって。
「げ、外れた。ラッキーマンパワー足りなかった……」
「くぅ、確率の壁が越えられなかったか!」
「あらあら残念。でも挑戦者サービスでもう1個アイス無料であげる」
「やったー!」
「はあ!? やっぱ星宮に甘いんじゃん!」
「1番子供っぽくて可愛いから甘やかしちゃうのよ〜。でも、勝負には負けてるからアイスは私が選ぶわね? はいこれ」
「? なにこれ、初めてのアイスだ」
「あずきバーよ」
「あずきバー? 美味しいの?」
「美味しいんだけどねぇ、なかなか売れないのよコレ」
「わー、ずるい星宮三本もアイス貰ってる!」
「ほーら贔屓するからデブが怒ってるぞー」
「仕方ないなー。はい、長尾くん、一齧りだけね」
「まじ!? サンキュー神様星宮様!」
「ふっふっふ。もっとうやまうのだ!」
駄菓子屋レースのびりっけつであるぽっちゃり少年の長尾くんに、貰ったあずきバー? を一齧りさせてやる事にした。ボクは優しいのだ。長尾くんは喜んでボクが持つあずきバーに歯を立てる。
「んがっ!? かったぁ! なんだこれ!?」
「お前デブなのにアイスも噛み砕けないの?」
「いやこのアイスがおかしいんだって! 横井も齧ってみろよ!」
「え〜? ……っ!? かっっった!!!」
「大袈裟じゃない? 二人とも。……かたっ!? え、これ食べ物!?」
横井くんに続いてボクもあずきバーに歯を立てる。二人の言うとおり全く噛み付けなかった。なにこれ、石?
「そんな固ぇの?」
海原くんがあずきバーを中指の第二関節で軽く叩く。コンコンと、まるで扉をノックしているかのような音が出て海原くんが笑う。
「なんだこれ、食えねーだろ! 溶けない氷ってやつ!? ゲームに出てくるアイテムじゃん!」
「炎ダメージ減らすやつだ!」
「伝説の氷の龍を封印していた氷だろ!」
「そんなものが何故こんな田舎の寂れた駄菓子屋に……!?」
「寂れた言うな」
「あいたっ!」
横井くんがおばちゃんのゲンコツを食らう。それを見てみんなが笑う。
「じゃ、ゲームしようぜ。おばちゃん、奥入っていい?」
「あまり騒がないようにね。うちの子、今勉強してるから」
「げ! もう帰ってきてんのアイツ!」
「降りてきたら面倒臭いな〜」
長尾くんと横井くんがカウンターの奥の襖を開けて中の和室に入っていく。
「星宮もそれ食べ終えたら来いよー」
「溶けないアイスをどうやって食べるのさ!」
「太陽に晒せば溶けるんじゃね?」
「溶ける気がしない……」
「しょーがなくね? アイス持ったまま入ってまた和室汚したらガチ怒られるじゃん?」
「それはそうだけど……分かった! 先に楽しんでて! 主役は遅れて登場するからね」
「今日は絶対に横井を負かすぞ!」
「任せろ! すぐに合流する!」
「ラジャ!」
海原くんと熱く腕をぶつけ合う。おばちゃんがカウンターに頬杖をついた状態で「子供ねぇ」と微笑んでいた。
外のベンチに座りあずきバーを溶かそうとしたら、「あ」と声を出して海原くんがこちらに戻ってきた。
「どうしたの?」
「星宮、もしアイツが降りてきたらこれ渡しといてくんね」
そう言って海原くんはボクに小さな手帳を手渡してきた。
「なにこれ?」
「プロフィール帳。大昔に流行ったやつを真似してんだって」
「へぇ」
知らなかった、そんな物が流行ってるんだ。どんな事が書かれているのか見てみたいけど、勝手に見るのは流石に失礼か。
「じゃ、それよろしくな〜」
「はーい」
海原くんはそれだけ言うと、二人の後を追って和室へと入っていった。
プロフィール帳、か。
知らない所で知らない流行りがあった事に置いてかれた感があるけど、まあ海原くんって女子にモテるしな。女子の間で流行ってるってだけならまず最初に海原くんがそれを手渡されるのも当たり前か。
駄菓子屋の前のベンチに座り、日向にアイスを出して溶かしながら少しずつ舐める。和室の方からは三人の笑い声や騒ぐ音が漏れている。駄菓子屋のおばちゃんは接客を終えたのでカウンターで居眠りをしている。ボクだけ和室の中のメンツに混ざっていない事を除けば、いつもの日常だった。
「ったく! ほんっとにうるさい!!」
アイスが溶けるのを待ちながらボーっとしていたら誰かが文句を言いながら外階段をコツコツと降りてくる音がした。
「あっ」
「……む」
階段を降りてきた人と目が合う。Tシャツとホットパンツというシンプルな服装のツインテールの少女、クラスメートの間山さんだった。
「星宮、あんた1人で何してんの?」
「アイス溶かしてるー」
「はあ? なんで。舐めなさいよ」
「いやこれぜんっぜん舐めても溶けないんだよ! 石みたいに硬いの! ほんとに!」
「ふーん……。……てか、アイツらうるさすぎなんだけど!」
「あははっ。今日はラスボスの横井くんが来てるからね〜、いつもより白熱してると思うよ」
「どうでもいいけどあたしの家で騒がないでくれる!? メーワク!」
「そんなこと言われても、駄菓子屋さんってここしかないし」
「はぁもううっざ! 文句行ってくる!」
そう言って海原くん達に文句を言いに行こうとする間山さん。和室からギャーギャーと騒ぐ声が聴こえる、今日も喧嘩してるなあ。
うたた寝をしていたおばちゃんが目を覚まし「まーた喧嘩始めた……」とため息混じりに言って和室に顔を覗かせる。そして、騒ぐ小学生達を一喝し静かにさせるとおばちゃんは再び眠りについた。
ボクら以外のお客さんが来た時もああやって眠っているのかな? お菓子とか盗まれたりしないんだろうか、少し心配になるなあ。
「早く出てけよブス!」
「言われなくても出ていくわよハゲ! 死ね!」
「はあ!? お前が死ね! ブス間山!!」
「お前だけ死ね! ハゲ海原!」
ぎゃいのぎゃいの、和室の中にいる海原くんと口喧嘩をしながら間山さんが出てきた。彼女は苛立たしげにドスドスと足音を立てながら駄菓子屋の通路を通り、ボクの座るベンチにドスンと腰掛けた。
「はームカつく! アイツらがいるせいであたしまで怒られたし! まじうざっ!!」
「あははっ。本当に海原くんと仲悪いねぇ」
「アイツまじムカつく! あんたはなんで海原なんかとつるんでるわけ? アイツウザくない!?」
「友達だからウザイとは思わないなー」
「センスわるっ! 友達くらい選べば?」
「悪いかな〜? 海原君めっちゃ良い奴じゃない?」
「どこが!? 馬鹿の筆頭じゃん!」
足をパタパタさせながら海原くんの悪口を言う間山さん。怖いなー。間山さんって、うちの小学校じゃ1番可愛いし人気あるのに、何故か海原くん絡みになると今みたいにプンスコプンスコ怒り出すんだよな。なんでなんだろ? 相性悪いのかな?
「あ、そういえばさ。海原くんに渡してって頼まれた物があるんだけど」
「アイツに? なにそれ、また泥団子?」
「泥団子……?」
「アイツ小一の時にあたしの誕生日に泥団子押し付けてきたの! 有り得なくない!?」
「あはははははっ! それめっちゃ面白いね!」
「面白くない! マジ最悪だから!」
「あっははは! いいねぇそれ、ボクも泥団子あげよっか?」
「いらないから! で? 渡したいものって何?」
「これ」
ポケットから手帳を出し、こちらに伸ばしてきた手に手帳を乗せる。
「あー、コレね」
間山さんはその場でパラパラと手帳を捲り、海原くんが書いた内容をその場で黙読する。さっきは暑いって怒ってたけど、上には戻らないのかな? ここ、外だし日向に足が出てるし暑くない?
「アイツ、やっぱテキトーに書いてるし。ったく……てか、君コレ書いてないじゃん」
「えっ? うん、今日初めて存在知ったし」
「海原に渡されたんでしょ? ついでに書いといてよ」
「え? いいの?」
「そういうもんだから! 今日書いて明日渡しに来て!」
「わかった!」
渡した手帳をもう一回受け取りポケットに入れる。それを見た間山さんは立ち上がり、自分の部屋に戻ろうと外階段の一段目に足を乗せる。
「……あ。それと、アレ見せてよ」
「アレ? なんだろ?」
「あー……あの、休み時間とかに描いてるじゃん。なんか。海原がなんか褒めてたけど」
「えっ。いやー、あれは……」
「見せて。明日。分かった?」
「い、いや、その」
「分かった!? 見せてね!」
一方的にそう言うと間山さんは階段を駆け上っていった。アレって、ボクが描いているイラストの事、だよね。うーん、海原くんには確かに見せたことあるけど、正直自信ないしあんまり人には見せたくないんだけどなぁ。
というか、今まであまり話したこと無かったから間山さんの人となりをよく知らなかったんだけど、予想していたよりもずーっと強引な人だな。海原くん絡みじゃなくてもあんな感じなのか……。ちょっと苦手かも。
夕方になり長尾くん、横井くんと別れて家が途中まで同じ方向の海原くんと一緒に歩く。
「間山が来たせいで散々だったわまじ! 止めとけよ星宮ぁー!」
「無茶だよー。ボクあの子とロクに話した事ないし、今日はいつもよりずっと不機嫌そうだったし止めようものなら釘パンチでしょ!」
「声の大きさゼブラだしな! まじ嫌な奴だよアイツ!」
「でもあの子って海原くんがいると余計イライラしてるよね。ボクとか横井くんとか長尾くんにはあんまり怒らないし」
「意味わかんねーよな! 昔は良い奴だったのに、小四くらいから急にあんなんになったんだよ。マジ意味わかんねぇ」
「泥団子とかあげてたからじゃない?」
「それ小一とかの話だろ? なんで星宮が知ってんの?」
「さっき聞いた。結構昔から知り合いだったの?」
「あー、まぁ。一応幼稚園の頃からの幼馴染だし」
「そうなんだ! 歴史長いねぇ。昔からライバルか」
「いーや、昔は常に俺の圧勝だった! アイツ泣き虫だし、アイツを泣かして先生に怒られての繰り返しよ、そしたらなんか強くなっちまった」
「眠れる獅子を目覚めさせてしまったのか……」
「くぅ。俺の力が至らぬばっかりに、みんなすまねぇ……!」
へぇー、知らなかった。海原くんと間山さんって幼馴染だったのか。言われてみれば確かに、二人と同じクラスになったのは小四からだけど当時からぎゃいのぎゃいの言ってたしなぁ。そこから二年間丸々そのまま、よくエネルギーが保つなあと思う。
「お前もアイツに目ェ付けられないよう気をつけろよ。アイツまじで性格悪いから。嫌われたら女数人で悪口言ってくるからな。まじ陰湿だから」
「あはは。それは何となくわかるかも」
海原くんと間山さんって、言い合いをする時いつも男女複数人で争ってるイメージだからなぁ。共にクラスの中心人物って感じだから二人が喧嘩する時はいつもお祭り騒ぎだ。かくいうボクも野次を飛ばしたりするから部外者って訳では無いけど、巻き込まれるのは御免だな。
「じゃ、また明日なー星宮」
「うん、また明日!」
水車小屋が目印の分かれ道に着き、海原くんと別れの挨拶を交わす。
どこまでも広がる、空を映す水田の間の畦道を歩き近道をして家まで着き、玄関の戸を開ける。
「遅かったじゃない憂、もうとっくにご飯は出来てるわよ!」
「ごめーん母さん! 友達と遊んでて」
「勉強もしないで遅くまで遊びすぎよ! まったく」
「お、帰ったのか憂」
「あ、ちょっとそれ何本目!? お酒は飲みすぎないでって一昨日言ったばかりよね!」
「これでやめにするから多目に見てくれよ母さん」
「そう言っていつも本数増やしていくでしょ! もう!」
父さんはビールを片手に母さんの小言を聞き流しながらソファーに座りテレビをつける。その様子を見て母さんは呆れたようにため息を吐く。
これもまたいつもと変わらない日常。時々喧嘩が起こりそうな空気を感じてひやひやする場面があるけど、なんだかんだでお父さんとお母さんは仲良しなので今まで大きな喧嘩をすることは1度もない。
手を洗い、ご飯を食べ、自分の部屋に行って日課の模写を始める。今日は何を描こう、スマホに保存した画像を漁る。
「憂〜、明日の準備はした?」
「うわぁっ!? か、母さん! 勝手に部屋に入らないでよ!」
「言わないとあんた忘れ物するでしょ! もう上級生なんだからしっかりしなさい」
「分かってるって! いいから出てってよ!」
部屋に入ってきた母さんを追い出す。これから絵の練習をしようって思ってたのに邪魔が入った。もう、作業を始める直前に邪魔されると集中力が維持できないからやめて欲しいのに!
2時間くらいペンを走らせて集中力が途切れたので作業を中断し、ランドセルの中身を入れ替える。
そろそろお風呂に入ろう。着替えを用意し、ズボンの中身を確認するために手を突っ込んだら何かが指に当たる。
「あっ、忘れてたや」
ポケットの中にあった物を出して思い出す。そういえば、間山さんに「書いてきて」って手帳を渡されたんだった。
手帳を開き、出来るだけ他の人が書いた内容を見ないようにページを捲り空白のページを開く。名前を書く欄の他に、好きな物とか好きな人とか、趣味とか特技とか書く欄がある。へぇ〜、意外と項目が多いんだ。字を小さく書くのは得意だ、テキトーに書いたら怒られるっぽいし少し真面目に書いてみようかな。
手帳に指示された内容を記入し、ランドセルに入れてお風呂に入る。
「明日の間山さんはどうか苛立っていませんように」
今日の記憶を思い返し、そう願いながら目を閉じる。苛立ってたら嫌だなあ。なんとなく、間山さんってボクみたいなタイプ嫌ってそうな印象あるし。ちゃんと様子を見て、怒りのゲージが溜まっていないタイミングで渡しに行く事にしよう。