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*小説・エッセイ・散文・その他*

愚者の恋

作者: a i o

 


 昼の虹の女神は今生の幸せを、夜の虹の女神は死後の幸せを、約束してくれるという──





 宵闇に射す月明かりの中、ぼんやりと虹が架かる。

 その男は、息も絶え絶えに、古い大木の根もとに横たわっていた。

 もはや、これまでか。

 男は自分の命の灯火が尽きていくのを、じわりじわりと感じ取っていた。

 思えば奇異な人生だった。たった一目で恋に落ち、それを追い求め旅をするなど、誰が想像しよう。

 自嘲の笑みが次第に可笑しみに変わり、男は肩を震わせながら笑った。

 恋は人を狂わせる。きっと俺は世界で一番愚かな男だ。だけれど、今一度、一目だけでも──。

 男の頭上、見上げた紫を深く落とし込んだ空には、銀色を帯びた虹が輝いていた。

「夜の虹の女神よ……」

 男の吐息のような呼び掛けに応えるように、雨上がりの湿り気とともにあたたかな風がひとすじ吹く。

 一段と明るい光が、虹の曲線をなぞるように降りてきたかと思うと、急に男の目の前が真っ白な明かりに包まれた。

『我を呼んだか。人の子よ』

 竪琴をつま弾くような声が、男の耳に届く。男は眩しさに閉じていた目を恐る恐る開くと、白い輝きの中から現れた姿に思わず息をのんだ。

「あぁ……! 夜の虹の女神よ、お会いしとうございました。私は、私はこの日をずっと待ちわびていたのでございます」

 長く艶やかな黒髪は螺鈿の煌めきを湛え、月の光の硬質さを携えた肌は仄かに青く白い。

 この世ならぬ美を持つ女神に、男は涙を浮かべながら最後の力を振り絞り跪いた。

『人の子らと交わした約束を我は違いはせぬ。おまえが望むなら、必ずや死後の幸福を授けようぞ』

 遠い時代から幾度となく繰り返してきた言葉を、女神が厳かに告げる。しかし、男は顔を上げ微動だにしないまま、食い入るように女神の姿を己の眼に焼き付けていた。

『……おまえは、死が近い。早うせぬと、願わぬままこと尽きてしまうぞ』

 自分を見つめるばかりで動こうともしない男に痺れを切らし、見下ろしたまま女神が言葉を促す。しかし、男はキッパリとそれに否を突きつけた。

「私めの身を案じるなど、なんてお優しいのでしょう。女神様のお姿を目にした今、私に願うことなどありません」

『死後の幸せを願わぬというのか? ならば、なぜ我の名を呼んだ』

 冴えざえとしたつめたい美貌をピクリとも動かすことなく、女神が恍惚とした表情の男に問う。

「私は昼の虹の女神様に祈りました。あなたさまにもう一度お会いしたいと。それが私の今生の幸せであると、お願い申したのでございます」

『我が妹に祈ったと……』

 男は残り幾ばくかの命を惜しむ様子も見せずに、瞳にぎらぎらとした熱情を燃やし女神を見つめる。それは紛れもない恋の炎だった。

「死後の幸せなど私には要りませぬ。幼き頃、物陰からあなたさまが降り立つのを偶然目にして以来、私の頭はあなたさまのことしか考えられなくなってしまったのです。私は、私が私でいる間に、生きているこの内に、あなたさまを一目見たい。お会いしたい。そればかりを日々願って生きてまいりました。故に、愛しいあなたさまと相見(あいまみ)え、言葉を交わすことが叶った今、何の願いがございましょう」

『なんと浅はかな。死後の世界はそなたが思うより遥かに永いぞ。そなたの選択は……我には理解し難い』

「尊いあなたさまには、卑しく愚かな男の幸せなど理解できなくて当然でございます。しかし、この愚かさが人生の最後、最高の幸せをもたらしたのならば、私の愚かさも報われましょう」

 男はそう言い終えると女神の纏う七色に光る衣の裾に、かさついた唇で触れるか触れないかの口づけを落とし、そのまま地面に崩れ落ちた。

 あれほどまでに煌々と輝いていた瞳は虚ろに空を見つめ、唇だけが満足げに弧を描く。

 女神は結局何も願うことなく死後の世界に旅立った男を一瞥(いちべつ)すると、虹を渡り天へと帰って行った。




『姉上。お久しゅうございます』

『おぉ、久しいな。息災であったか?』

 ざわめきまでもが光に満ちるという神々の宴席で、昼の虹の女神と夜の虹の女神は久しぶりに顔を合わせた。姉妹といえど、司る光が違うので、なかなかに会う機会がない。二人の麗しい女神は親密さを露にしたまま、肩を並べ腰を下ろすことにした。

『ええ。お陰さまで変わりなく。しかし、姉上は……どこか浮かない顔をしていらっしゃる』

 光の粒を集めた美酒で唇を濡らしながらも憂いた瞳の姉神に、昼の虹の女神が気遣わしげに尋ねる。

『おまえに祈ったという男に、死の間際会った。何でも、我に会うことが今生の幸せだと言ってな』

 夜の虹の女神は、いまだ不可解な男の死に顔を思い出すと、わずかに眉を潜めた。

 人の子の生も死も、散々見てきたというのに。とるに足らぬ願いが、どうにも気にかかる。

『覚えておりまする。なんとも一途な男でございました。姉上に恋情を抱くなど身の程知らずも甚だしいが、切実なその祈りは真でございました。あれは本当に姉上に再会することだけが、喜びであったのです』

『我には……わからぬ』

 自分が見ることの無かった男の姿に、夜の虹の女神は一層眉間の皺を深くした。

『わからなくてもよいのです』

『……おまえはあの男と同じことを言う。なぜだ』

 姉妹の気安さから拗ねたようにそう言うと、昼の虹の女神が諭すように微笑む。

『それは幸せがあの男だけのものであるからですよ。あの男にとって、姉上が自分の想いを知り、そのことで姉上を悩ませているのならこれ以上の幸せはありますまい。死してなお、人の身に余る幸せを得たのです』

『欲深く、勝手なものだな。人の子というのは』

『まったく仰る通りにございます』

 昼の虹の女神は、杯を揺らす度に色を変える美酒を眺めながら、自分に必死の形相で祈った男の言葉を思い浮かべた。


 ──慈悲深い昼の虹の女神様。私はもう一度あのお方にお会いしたいのです。この命が脈打つ度に乞うのです。あのお方に出会った瞬間から、私の生は恋に焦がれるばかりなのです。この命を燃やす理由はあのお方のみ。今生の幸せは、ただもう一度あのお方に会うことだけにございます──


 気高い姉上に、このような顔をさせるなど、まこと人の子というものは罪深い。

 そして、その愚かさのなんと眩しいことよ。


『愚かで──この世の誰よりも幸せな男の生と、死に』

 昼の虹の女神はそう呟くと、夜の虹の女神に向かって杯を掲げる。

 夜の虹の女神は黙したまま杯を掲げると、己の胸に射した月の光の影を打ち消すように、一息にそれを飲み干した。








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