表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

不倫の証拠をさがす女






 隣の家の女がきらいだった。


 去年、都合があって田舎に引っ越して、三ヶ月ほど経つ。不満なのはそれだけだった。隣の家の女が、きらい。居なくなってしまえばいいのにと思う。


 まず、初対面の印象がよくなかった。

 隣の家の女は、まあ、美人といえば美人なのだろうが、三十をすぎているだろうに化粧気もないし髪は伸ばしっぱなしだしゴムウエストのスカートを平気ではいている。根暗な感じで、オタクっぽい。

 わたしが(田舎だからそういうことはきちんとするようにと尊敬するかたに云われたので)引っ越しの挨拶に行くと、分厚いレンズの眼鏡の奥から睨むように上目遣いで見てきて、にまにましたかと思うと、鼻にかかったばかにしたような喋りかたで「どうも」とひと言だけ返しやがった。

 大体、なんなのだろうか、あの厚ぼったい前髪。顔の上半分がほとんど隠れていて、不潔な感じだ。越してきてからすぐ、聴こえるようになった鼻歌も、お世辞にも上手とはいえない。


 実際オタクなのだろう。たまに友達が家に来ているみたいなのだが、そいつらと「モエ」だのなんだの云っている。騒ぐ声が煩いので抗議に行くと、やはり眼鏡の胸板の厚い男が低姿勢で謝ってきたが、女はなにも云わなかった。

 眼鏡の男、背の高い男、ひげの男、それに最近では、唇と鼻にピアスをつけた男が、頻繁に隣家を訪れている。なにが楽しいのかしらないが、声が可愛いというだけでたいして歌唱力もないような歌手の歌を延々と流し、笑い合っている。マンガのプリントされたtシャツを干していたこともあるし、人形を持って真剣な顔で話していたこともある。完全なオタクだ。


 なのに、あの女は結婚している。はじめて会った時に見た。左手の薬指に指環をしている。




 女は周囲と没交渉のようで、町内会には一度も顔を出したことがないという。

「旦那さんはともかく、あのひとはなにしてるかもわからないですよ」

「まともにゴミ出しもしないしね。いっつも旦那さんがやってる」

「なんだか男のひとの出入りが激しいから、ちょっと付き合いはしたくなくて」

「ちょっと、やめなさいよ……」

 町内会の集まりに参加させられた時、河川敷の草むしりについての話し合いが終わったあとの休憩で、ご近所のご夫人がたに水を向けてみると、そんな言葉が返ってきた。

 わたしは特に興味ないふうを装う。

「ご友人が多いみたいですね」

「それくらいの仲なのかね」

 台拭きを持ってテーブルの向こうに居た、いかにも権力のありそうな白髪の老齢女性が、身をのりだして低声(こごえ)で云った。

「この間も、旦那以外とうろうろしてたからね。また旦那が、女房に甘いのかよほど鈍いのか、好きにさせてるし」

「旦那さんって?」

「見たことない? そっちもよそもんだけど、駅前のレストランでコックをやってるの。結構はやってるんですって。わたしらは行かないけどね。ほら、ひげを生やしてる……」






 正直に云うと、むかついた。

 化粧もしない、いつ美容室に行ったのかわからない頭の、分厚い眼鏡の女に、あんな素敵な男がどうやって騙されたのか。隣家に出入りする男達のなかで、ひげの男は一番……素敵だった。顔がよかった。こんなバカみたいな田舎にもあんな素敵なひとが居るんだと嬉しかったのに。

 話すこともあった。名前は知らないが、まともに整備されてもいない道に傘の先端がはさまって難儀していたわたしを、助けてくれた。あのたくましい腕。低い声。手に傷が多かったのは、レストランをやっている所為だろう。腕の太さも、料理人ならば頷ける。

 わたしはこんなへんぴなところに、ひとり淋しくやってきたのに。

 わたしは身だしなみに気を遣っているし、あんな野暮ったいゴムウエストのスカートなんて絶対にはかないのに。

 わたしはあの女と違ってきちんとした仕事を持っているのに。






 田舎者は防犯意識というものに欠けている。あの女も例にもれなかった。

 防犯カメラを設置した。隣の家がうつるように。庭と、カーテンが開きっぱなしのリビングの窓が映り込むように設置しても、あの女も近所の人間も気付かない。田舎のホームセンターにまともなものは売っておらず、便利な通販で入手したカメラは、女のわたしでも簡単に設置できた。脚立にのって、説明書の通りにとりつければ、それでお仕舞だ。

 だいぶ懐は痛んだけれど、性能のいい「集音器」というものも買った。凄く役に立つものだとすぐにわかった。切れ切れだけれど、女と「男友達」の会話が聴こえるのだ。


 『やっぱ、ねえさん凄いっすね』


 『――かな。ね、――さ、今度行かない? みみずく。旦那も来てほしいみたい』


 みみずく、というのは、あの女の夫が働いているイタリアンレストランの名前だ。ということは、あの男達は、彼の知り合い……?

 同僚を誘って行ってみたから、どんなところで、どんな料理を出すかは知っている。わたしはそこで一番高いコースを注文し、同僚達におごった。筍のスープも、牛肉のカルパッチョも、デザートのチョコレートも、どれも素晴らしくおいしかった。あんな素敵なひとがやっているのだから、当然だろう。

 彼は最後に、わたし達に挨拶してくれた。料理長らしい。同僚達が色めき立った。素敵なひとなのだ。

 けれどその左手薬指には、あの女と同じように指環がはまっていた。同僚が、ご結婚されてるんですか、とそわそわした様子で聴くと、彼はにっこり笑った。給仕長が、もともと同じ職場で知り合ったのだと云っていた。彼は照れていた。とてもわかりやすく。


 『あの、これはどうしたらいいんです?』


 『あー、かんたんかんたん。こっちに筋があるから、こう、関節を――にね、こうやったら――の時にも楽でしょ?』


 『このまんまだとはいらないですもんね』


 『すげー、流石の手際だ』


 『あとは鶏の解体とかわんないよ。何度も練習したでしょ? サガミくん』


 男相手だとやけに饒舌になる。男達の亢奮したような様子も気にくわない。夫の留守に大勢の男を家に上げて、料理教室でもしているのか? 男相手に? 夫が汗水垂らして働いている時間に、自分を誉めてくれる男達を侍らせてお遊びしているのか。

 ゆるせない……。






「大丈夫ですか?」

 家の前の道路で、わたしははっと顔を上げる。

 眼鏡の男と背の高い男が近くに居た。どちらも野暮ったい格好で、垢抜けない。田舎くさいことこの上ない。なにがはいっているのか知らないが、登山にでも行けそうなリュックを背負っている。

 わたしはふたりを無視したかったが、我慢した。彼の知り合いを無下には扱えない。「大丈夫です、ちょっと……ヒールがはさまってしまって」

「ああ、大変だ」

 側溝の蓋がずれていて、すきまができていたのだ。わたしはこの道で何度も、なにかを道路に喰われて足止めされている。今朝は大荷物なのもあって男手がほしく、タクシーを頼んで職場へ行ったから、駅からここまではバスにのってきた。そういう、やむにやまれぬ事情でここを歩いている時に限って、ヒールだの傘だのを地面に喰われる。


「ちょっと、じっとしててください。すぐとりますから」

 眼鏡の男は、以外にも親切だった。田舎特有のお節介だろうか。リュックをおろし、わたしのハイヒールを掴んで側溝からとりだしたのだ。ごつごつした大きな手で、傷痕が多くあった。この男も料理人か、でなくば料理人志望かもしれない。

「ありがとうございます」

 ハイヒールをとりだしてもらえて助かったのは事実だ。精々愛想よく云ってやると、男達はにんまり笑った。

「いえ。大丈夫ですか? もし、どこか痛いなら、お宅の前までおつれします」

 わたしは薄気味悪さを覚えて、挨拶もそこそこに玄関へ向かい、鍵をさした。気持ち悪さに肌が粟立っている。

 背の高い男が背後で、笑うような声を出した。「僕ら、この辺りによく来るんです。なにかお困りなら、手をかしますよ」

「いえ、大丈夫です」

「いつでもいってください」

「ありがとう……」


 玄関に這入って、内側から施錠すると、ほっとした。

 なんだか気色の悪い目付きだった……。あのふたりの男、愛想がよかったけれど、なにか思惑があるのではないだろうか。

 わたしがしていることに気付いている筈はない。だからあれはわたしを、「女」として見ている目だ。下心があったのだ。

 ぞっとして、その日は風呂場で入念に足を洗った。触れられたわけではないが、眼鏡の男が触ったハイヒールを履いた足だ。あの眼鏡の男は一番オタクっぽくて、近場で見ていると吐き気を催す。

 風呂から上がると、ハイヒールはごみ袋に突っ込んだ。田舎者には、都会の、それもきちんとした職を持っている女は、もしかしたら「軽く」見えているのかもしれない。あんな男達を相手にするつもりは毛頭ない。

 わたしくらいの女には、彼のような男が居なくては。






 『ねえさーん、これはちょっとまずくないすか』


 『どうして?』


 『いやあ――ガガガガ――だから――だと思います。俺が持って帰りますよ』


 『ううん、あのひと気にしないから』


 『気にするでしょ』


 『この間も笑ってたよ、やんちゃしたなって』


 しゃっと、カーテンを閉めるような音がする。

 カメラの映像を確認すると、隣家のリビングの窓には白いカーテンがかかっていた。

 あの女のシルエットが黒く沈んでいる。


 『寒いねえ』


 『タイラくん、スープできてる?』


 『はいはい』


 『社長、なんか云ってた?』


 『今度の日曜来てほしいらしいですよ』


 『え、めんど』


 『あ、時間。テレビつけます』


 『田舎ってこういうの再放送してくれるから助かりますよね~。アルさまかっけええ』


 がちゃがちゃした音がイヤホンから響いてくる。テレビをつけて、あいつらが見ている番組を見た。子どもだましのくだらない内容のマンガだ。やけに短いスカートをはいた、髪が赤い女の子が出てきて、歌ったり踊ったりしている。話の筋はあってないようなものだった。騒がしい曲が何度もかかり、画面がやけに明るい。

 こういうばからしいものをつくる会社は潰れてしまえばいいのに。人間と思えないような不自然な顔、体型、扇情的な格好。世の女性が皆、こんなばか女だと、青少年が勘違いしかねないではないか? どこのテレビ局だか知らないが、抗議をしなくてはなるまい。

 わたしは新聞のテレビ欄で、局の番号をたしかめ、電話をかけて抗議した。男の子達の正常な発育に、ああいった扇情的で間違った情報だらけの番組はいかがなものかと。






 『――てた? 大丈夫?』


 『ううん、起きてる』


 きた。

 彼の声だ。これであのふたりが本当に夫婦なのかわかる。集音器を手にいれてから一週間、夫婦はまともな会話をしていない。いつも、あの女が寝てから彼が戻る。

 随分長く沈黙があった。


 『あいつらは』


 『あ、もう帰った。だいぶすすんだよ。タイラくん、凄く熱心』


 『そりゃよかった。社長も喜ぶな』


 『そう、それで今度ガガガガ』


 『いつ?』


 『日曜』


 『一緒に――』


 『あなたが運転してくれる? わたし――――眩暈がするようになっちゃって』


 『いいよ』


 今度の日曜……。

 ふたりは食事をはじめたようだ。食器の音が聴こえる。彼もくだらないマンガが好きみたいで、例の騒がしい音楽が聴こえてきた。いや、きっと彼はあんなもの好きではない。あの女が見ているから付き合っているだけだ。わたしだったらそんな無理はさせないのに。




 三時間ほどすると、マンガの音がぷつりと途切れた。


 『いい?』


 『うん』


 そのあとはふたりのせわしない息づかいが聴こえてくる。たまに、「よいしょ」とか、「大丈夫?」とか、「これでいいかな」と、かすかな声がした。女の声はしない。

 わたしは防犯カメラの映像を見る。カーテンは完全に閉められているみたいで、そのすきまから光がわずかにもれているだけだ。だが、声を聴けばわかった。夫婦の実態がある。






 カメラを買った。望遠機能のついているものだ。わたしは機械にくわしくないけれど説明書を読めばつかえた。

 あの女は相変わらず、めったに家の敷地から出てこないが、出入りしている男達はその辺をうろついている。だからたまに、挨拶を交わした。気持ち悪いが目的の為だ。背の高い男以外は愛想がよく、わたしと話しているとにこにこしていた。幾度となく、荷物を持ちましょうかと云われた。気持ち悪いので触らせないが、礼は云った。


 あの女の写真を撮った。


 あの女と、鼻と唇にピアスをしている男が、庭に出て話している場面だ。内容は知らないが、深刻そうな顔で、男はあの女の手を掴み、今にも抱きしめそうだった。それなりに顔のいい若い男だ。どうしてあの女に騙されたんだろう?

 背の高い男とあの女が近所をうろついているところも写真に収めた。なにが楽しいのか知らないが、笑い合っていた。

 眼鏡の男はあの女とふたりきりにはならない。

 職場近くの写真展で写真を現像し、封筒に入れた。手袋はしている。同封した手紙は、定規をつかって文字を書いたものだ。短い文章だが骨が折れた。

 あなたのおくさんのしゃしんをおくります。

 それだけだ。脅迫にはなるまい。

 仕事帰り、closedと書かれた看板のさがった「みみずく」の扉前にそれを置いておいた。満足した気分だった。決定的な場面はまだとれていないけれど、いずれ手にいれる。きっとあの女は、あの三人のうちの誰かと不倫している。全員と、かもしれない。

 それを突きつければ、彼も目を覚ますだろう。






「おはようございます」

 眼鏡の男が前の道路から、塀越しにこちらを見ていた。

 車に乗ろうとしていたわたしは、なんとか笑みをつくって男を見る。眼鏡の奥の目が鋭い。

「すみません」

「はい……」

「昨日、僕達お隣で、騒がしかったんじゃないかと思って。前、叱られたので」

 忘れていたかと思ったのに、わたしが抗議に行ったことを覚えていたらしい。ああ、きっとあの時に目をつけられたのだ。男というのはちょっと目が合ったくらいで勘違いする。

「大丈夫ですよ。なにもきこえませんでした」

「そうですか。これからも、煩かったらいつでも云ってください。静かにしてるつもりなんですけれど、都会から来たばかりのひとには……」

 わたしが都会から越してきたことを知っている……!

 わたしは適当に挨拶してきりあげ、車に乗り込んだ。眼鏡の男はなおもわたしを見ていたが、わたしが車を発進させると隣家の敷地へさっと這入った。




「先生、お顔の色が優れませんけれど」

「だいじょうぶよ」

 大丈夫どころではなかった。頭が痛い。

「なにかお持ちしましょうか」

「ううん。……あ、コーヒー入れてもらえる?」

「はい」

 お化粧が崩れてしまっている気がする……。

 眼鏡を外し、コーヒーをいれるミコちゃんの背中側を通って廊下へ出た。お手洗いへ這入り、鏡を覗きこむ。汗をだいぶかいていた。眉が落ちそうだし、眉間と目尻がよれている。

 お化粧をささっと直し、廊下へ出ると、通りかかったひとにぶつかった。「あっ」

 落ちた荷物を拾う。体を起こして、悲鳴をあげそうになった。鼻と唇にピアスをしている男だ!


 男はなにか云っていたが、わたしはその手に拾ったものを押しつけ、逃げた。こんなところにまであの女の「男友達」が居る。どうして?

 角を曲がる前に振り返ると男は荷物をたしかめていた。マンガのシャツを着ている。わたしを威嚇しに来たんだろうか。それとも、勤め先を調べて追ってきた? わたしの挨拶をなにか好意的なものと勘違いしたのかもしれない。

 ぞっとした。

 ミコちゃんのコーヒーは相変わらずおいしいけれど、あたたかいのを飲んでも気持ちは解れなかった。


 書類を脇に避け、ミコちゃんを見る。

「ミコちゃん、マンガにくわしい?」

「えっと、あんまり……人気のものなら、なんとなく知ってますけど、今はほとんど読みません」

 それが大人の女性というものだろう。

 わたしは苦労して、あの女と男達が夢中になっているマンガの説明をした。親戚の子がそれを好んでいて、やめさせたいのだ、といいわけをつけて。

 ミコちゃんはうーんと唸り、首をひねった。

「あ、多分、マジカル戦士シリーズかな」

「マジカル?」

「わたしが子どもの頃放送されてたものです。今でも再放送がたまに……中学生の女の子が変身して、悪役を倒して行く話で……凄くかっこよかったです」

 幼い頃の記憶がよみがえったか、彼女はふふっと笑った。幼い女の子が見るようなものをありがたがっているのか、あいつらは。

 幼い女の子向けだとしたら、尚更問題があるのでは? あんな間違った知識を与えてはいけない。もう一度抗議しよう。






 『日曜ね』


 『忘れてるんじゃないですか』


 『――てる』


 『絶対ですよ。夫婦できてくだガガガガ』


 『獣道みたいっすよね、前の道路』


 『田舎だから』


 『走れない』


 『でも田舎のほう――――だから――――』


 『あ、はじまる!』


 テレビ局の人間はばかなんだろうか? 相変わらず、例のマンガをやっている。なにが面白いのかわからない。女の子が寒そうな格好をしているだけだ。おなかが冷えてしまいそう。


 『じゃ、明日にしましょう』


 『はい』




 土曜の夜、わたしの気持ちは弾んでいた。第二弾の封筒を「みみずく」前に置いて戻ったところ、丁度、注文していたものが届いたのだ。

 これがあれば……。




 『なにそれ?』


 『写真』


 『いや、みればわかる』


 彼があの女を問い詰めている。ざまあみろ。


 『ガガガガじゃないの』


 『でも――この――ガガガガ――だね』


 今夜に限って、「集音器」の調子がよくない。


 『明日は呼ばれてるのに――』


 ぶちっと音がしたと思ったら、そのあとまったくなにもきこえなくなった。

 あわてて、「集音器」の説明書にルーペを重ね、読む。……電池切れだ。肝腎なときに!

 読み落としていたことを悔しがっても仕方ない。とにかく、明日になれば、夫婦仲がぎくしゃくしていてもふたりで出掛ける筈だ。眼鏡の男の声が、夫婦で行くようにと何度か念押ししていた。よほどのことなのだろう。社長というのが誰かしらないが、「みみずく」のオーナーかなにかかもしれない。


 カメラはコンセントにつないでいるので問題なかった。カーテンは開いて織らず、音もほとんど拾えない。

 じっとモニターをみていると、カーテンが揺れた。ゆっくり開き、窓も開く。女が身をのりだしていた。彼がその隣に居る。ふたりで缶にはいった酒を呑んでいるみたいだった。別れ話にはならなかったのか。やはり、もっと強力な証拠が要る。

 彼が缶を置いて、女の肩をもんだ。女がやるのが正しいのではないだろうか。彼は疲れて帰ってきているのに。






 五時に目が覚めた。ふたりがいつ出掛けるかわからないからだ。

 トーストをかじり、コーヒーを飲んでいると、隣家から声がして、車のとドアを何度も開け閉めする音が響いた。はやくに起きてよかった。

 防犯カメラで見てみる。あの女は相変わらず野暮ったい。彼が大きなボストンバッグをふたつ、トランクに積んでいた。女が甘えるみたいにその腕を撫で、笑った。

 開いた窓から、くすくす笑いが飛びこんでくる。

 不愉快な、耳障りな声だ。

 車が出て行き、わたしはゆっくりとコーヒーを飲み干した。軍手をして、厚手の靴下をはかなくてはいけない。スニーカーは、昨日用意してある。


 スニーカーをはいて、軍手をし、庭に出た。隣家の庭との間には塀はない。南天の木立があるが、南天はしなるので、わたしが間をすりぬけても大丈夫だ。一度やったけれど誰もなにも気付かない。

 昨日手にいれたものを持って、お隣の庭へ這入った。

 朝はやく、騒いでいるのは鳥くらいだ。近くで郵便受けを確認する音がしたが、隣家の裏の家らしい。大丈夫だ。すぐに、扉の閉まる音がする。


 窓に触れた。

 手にしたガスバーナーで、窓をあぶる。

 田舎の古い一軒家の窓ガラスはもろい。びちびちと音をたてている。

 ガラスを静かに割って、クレセント錠を外し、窓を開けた。スニーカーを脱いでそこから這入りこむ。


 息を整えた。

 ごみ箱だ。ごみ箱を見るのだ。寝室。寝室はどこだろう。あの女が不貞をしている証拠。不倫をしている証拠。なにかある筈。絶対になにかある。絶対に手にいれる。絶対に。彼が目を覚ますようなもの。あの女に幻滅するようなもの。

 わたしはゴムウエストのスカートなんて死んでもはかない。


 リビングには気持ち悪い、人間と思えないような顔と体型の、女の子らしい人形が沢山あった。ロボットのおもちゃも置いてある。大画面のテレビに、本棚にはマンガがばかみたいに並んでいた。子どもみたいな女だ。

 息を切らして廊下へ出る。廊下にもおもちゃを飾っている。こんなものに価値はない。

 階段をのぼっていくと寝室があったが、生活感はなかった。客用の寝室か。一階へ戻る。

「お邪魔しまーす」

 とびあがった。

 眼鏡の男の声だ。


「いいんですか」

「鍵預かってる」

 眼鏡の男とピアスの若い男が這入ってきた。親しげに笑い合っている。わたしは息を潜め、階段の裏のくらがりにしゃがみこんでいた。眼鏡は登山でもできそうなリュック、ピアスはスポーツバッグを持っている。

「一体だけだけど、ひとりで頑張って」

「はい」

「君の昇給もかかってるからね。とりあえず、なにを持ってきたか確認させて」

 ふたりはリビングには這入らなかった。ほっとする。窓を開けたままだったのだ。いや、閉めていたとしても、風が吹けばカーテンが揺れ、窓が破られているとわかる。

 男達は奥へ行き、わたしは階段下から出る。あいつらが気付く前に出て行かなくては。こんなところでわたしのキャリアを終わらせることはできない。


 喘ぎながら歩き出すと、なにかに躓いた。床にはなにもない。脚がこわばっていたらしい。おちつこう……と深呼吸して、傍に扉があることに気付いた。

 開く。

 がらんとした部屋だ。更に奥に戸があって、それを押し開けた。

 浴室……。

 白い壁に、白い床、白い天井、それに浴槽がある。

 排水溝のなかにたまった水が妙にくらい色をしている。

 女にはなじみのある匂いがした。

 それ以外の匂いも。


 床板の軋む音がして、振り返ると、ピアスの若い男がぽかんとしていた。手には細長い包丁を持っている。肩に裸の人間を担いでいる。ぐったりして、開いた目が白く、舌をだらんと垂らした人間を。

 水気のぬけたような体だった。

 男をつきとばして廊下へ出る。眼鏡の男が立っている。「え」リビングへ飛びこんだ。まずい。まずい。まずい。まずい。あれは死体だ。死体、何度も見たことがある。だからわかる。あの体にもう命はない。

 窓から外へ出る。この何年かで一番体が動いていた。スニーカーに脚をつっこみ、ガスバーナーは放っておいた。指紋は残していない。

 振り返ると、窓から眼鏡の男が出てくるところだった。笑顔で追ってくる。南天を折りながら自宅の庭へ戻った。ポケットの鍵束を掴んで車のドアを開け、飛びのる。「待って」

 ドアを閉め、ロックした。シートベルトもせずに発進させる。男が立ちはだかったが、わたしは思いきりアクセルを踏み込む。


 跳ねると思った瞬間男が脇へ避けた。笑顔のままで。

 ハンドルをまわす。

 とにかく逃げなくては。

 携帯電話を持ってこなかった。

 車の側面をお向かいの塀へぶつけた。

 だが、曲がれた。

 新聞配達の車があった。ブレーキを踏む。











 ――――




「あ、ほんとにあった」

 タイラは暢気に云って、小さな黒いものを外壁からとりはずした。「盗聴器。……電池切れてるみたいですね」

「迷惑な話だな」

 クワナは眼鏡をおしあげ、ちらっと前の通りをうかがった。救急車だのパトカーだので大変なことになっている。

 タイラが盗聴器を踏み潰した。「クワさん、行ったほうがよくないすか。大変だ―とか云って」

「ああ……あのひと、どうしてこの家に忍びこんだんだろう」

「なんでもいいっすよ。ひとん家に忍びこんで、悪党じゃないすか。俺、あの教授苦手だったし」

 クワナは片眉を上げる。「タイラくんの大学の教授?」

「っす。こないだ、ぶつかってきて、ろくに謝りもしないで、やな教授っすよ。サガミもこないだ、云ってたじゃないですか、クワさんが折角親切に、丁寧に話しかけてんのに、変態でも見るみたいに見てたって。サガミのことも覚えてないし」

「ああ、俺も不躾だったかもしれないけどね。年上の女性には親切にするように、母親に云われててさ」

「退治できたと思えばいいっすよ……車燃えてるし、証拠もなくなるでしょ。燃えたら一番楽だっていつも云うじゃないすか? 皆さん」

「まあなあ」

 クワナはガスバーナーを拾い、くるくると振る。「まったく、慣れないことはするものじゃないねえ」




 ――――




 新聞の一面には、医者で大学教授だった66歳の女性が、アクセルとブレーキの踏み間違いで交通事故を起こし、亡くなったと書かれている。あてられた新聞配達のバンには誰ものっていなかったので、大丈夫だったそうだ。

 新聞に載った写真のお隣さんは、きっちり化粧をし、高級そうなスーツを着て、微笑んでいた。

 少々若作りだが、「素敵なおばさん」と云えなくもない。結婚歴はなく独身で、本を数冊書き、子育て世代からの人気があった。最近ではある政党からの接触があり、夏に行われる選挙に出る予定だったらしい。その為にあんなへんぴなところへ越して、そこから何時間もかけて通勤していたのだ。当選は確実だったろう候補が不慮の事故死をとげ、その政党はてんやわんやになっている。


 タイラは拾った新聞を捨て、バックパックを背負いなおして、駅から大学へ向かって歩く。彼は医学部に所属していた。だが、人命救助の為にその知識をつかうつもりはない。ある意味人助けではあるが。

 昇給が決まったので、機嫌はすこぶるよかった。サガミよりも先に昇給したのが嬉しかった。

 これも、カヤさんが丁寧に解体方法を教えてくれたおかげだ。どうやったらあんな素敵な奥さんをもらえるんだろう? 俺にもカヤさんみたいに、アニメやゲームの話をできて、死体をあっという間に細切れにしてくれる奥さんが居たらいいのに。




「あ、御子柴さん、おはようございます」

 ちょっと素敵だなと思っている教員に声をかけると、彼女は憔悴した様子で項垂れた。

「あら、タイラくん……おはよう。どうしたの?」

「佐原先生に呼ばれたんです」

「じゃあ、あなたが……」

「え?」

 御子柴は涙ぐんでいる。

「先生のご遺体、佐原先生にエンバーミングしてもらうことになってるの。あなたが手伝うんじゃない?」

「あ……でしょうね」

 タイラは頭をかく。御子柴は、頑張って、といって、踵を返した。




 手足をしっかり解す作業に、一時間かかった。筋肉が思った以上に硬く縮んでしまっている。

 下着が汗でびちゃびちゃなのがわかる。

 佐原が慣れた手付きで、遺体の内容物をとる作業を始める。消化管の中身を吸い出すのだ。「タイラ、邪魔するなら出て行け!」

「はい、すんません!」

 機械が動きはじめ、音をたてる。

 血管へ注入する防腐剤に、赤い着色料を混ぜた。これであおざめた肌が少しは綺麗に見える。佐原が調合した防腐剤には、絶妙な割合でシリコンも含まれていた。

 縫合できるところは佐原がすべて縫合し、血管へ防腐剤を流しこんだら、またマッサージだ。頬が色づき、生きているような錯覚を一瞬覚える。口に綿を含ませて頬をふっくらさせた。それでもどうにもできない部分は、パテをつかってもりあげる。火傷のひきつれは、特に慎重に隠した。

 タイラは遺体を「綺麗」に、まるで眠っているだけのように見せるのが得意だった。生きている人間は汚いし、卑劣だし、悪いこともするからきらいだが、死んだ人間からは余分なものが取り除かれていて、好きだ。だからタイラは手間を惜しまず、丁寧な作業をした。

 背の高い人物が這入ってくる。

「遅れました」

「サガミ、たるんでるぞ」

「すみません!」

「ほとんどタイラがやってる」

「はい」

 損傷をなかったように見せるのは得意だが、女性の死に化粧に関してはサガミにはかなわなかった。

 サガミはメイク道具をひろげ、真剣な表情で遺体の顔を彩りはじめる。タイラは一旦部屋を出てシャワーを浴び、もう一度フル装備でそこへ這入った。佐原は居ない。

「できた?」

「もうちっと」

「……生きてるときよか美人じゃん」

 台の上に横たわった「いけ好かないおばさん教授」は、サガミのメイクを施され、目を瞠るような美人にかわっていた。流石、フィギュアを彩色するだけでなく、フルスクラッチする男は違う。

「すげえな」

「お前の修復がよかったんだよ」

 タイラとは、こっそりとカヤを取り合っている仲のサガミだが、お互いに腕を認めてはいた。もしかしたら将来、邪魔になって殺し合うことになるかもしれないが、その時が来るまではとりあえずは、「悪党退治」の盟友だ。

「社長から連絡あった?」

「あった」

「なんて?」

「明日、みみずくに届くって。今度は俺が昇級試験だ。カヤさんに、最後にもう一回、指導してもらおう」

 いらついたが黙っていた。

 最後にオールドローズ色の口紅をきっちりひいて、サガミの手が停まった。丁度佐原が戻ってくる。佐原は紙袋の中身を、空いている台へ丁寧に並べた。

「ご遺族……甥っ子だったかな、ご親戚が選んだものだ。これを着てもらいましょう」

 佐原は疲れ切った顔だが、手付きは丁寧だった。死者への敬意を誰よりも持っている人間だ。佐原が用意した、遺体に着せやすい服もあるのだが、遺族の意向でこれがいいというのならそうするしかない。

 サガミが苦労して、化粧を崩さないよう頭を支え、佐原とタイラで服を着せていく。最後に、燃えた所為で半分なくなった髪を、佐原が用意しているかつらでごまかし、髪飾りをつけた。

 タイラは不備がないか、最後に遺体をチェックする係を仰せつかった。鼻や耳に綿を詰めているし、下半身にも問題はない。縫合した箇所も、ほつれなどはなかった。サガミのヘアメイクは相変わらず完璧だ。

 ダサい花柄スカートのウエストのゴムがねじれているのを丁寧に調え、タイラが手を合わせると、サガミや佐原もそうした。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] エンバーミング?の描写が丁寧ですごいなと思いました。 女の執念みたいなものが見れて楽しかったです!
[良い点] おくりびとでしたか。 何事も経験ですので、最後に甥御さんのお勧めを着られてよかったかも。
[気になる点] カヤを取り合ってる……って、ホントに不倫もしてたのですか? だとしたら驚いた。 [一言] 語り部は神経質で頭の固いオールドミス(キャリア持ち)なんだろうなぁと思ってたので、予想が当たっ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ