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クローゼットトラベラー  作者: モノクロ◎ココナッツ
第一部、第二章
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マリアの一面


「……何見てるんですか、見ないで下さい」


 そのまま彼女の表情を眺めていると、顔を赤らめたままに怪訝な表情を浮かべた。そんな彼女を可愛いと思いながらもあえて触れない様にと思っていると、「それよりも、今日はどうしたっての?」と若干面倒くさそうな面持ちでマリアが仁王立ちのまま用件を尋ねてくる。


「あぁ、ちょっと訳ありで、外国旅行のつもりが出入国出来なかったんで、この島を観光しようと思ってな」

「あー、そっか。来たばっかりだもんね。そりゃまだ発行されない筈だよ」


 訳を聞き入れた彼女は苦笑いを浮かべる。大体発行までに2週間……半月程度かかるんだっけか。

 となると、国外旅行は来月までお預けかな……。


「事情はわかったよ。取り敢えず4泊する予定でいい?」

「そうだな。内容に関しては任せるよ」

「ん。わかった。……じゃあこっちに来て、受付しちゃうから」


 それを聞いた彼女は満足げに頷きつつ受付カウンターへと向かったので、後に続いて歩みを進めつつカウンターの中へ入った彼女に対峙(たいじ)する。

 カウンター越しの彼女は先程見た時の凛々しい表情で、いつも見る人懐っこい笑顔は何処へやら。完全に仕事のスイッチが入った樣だ。


「では、今日より4泊の予定でよろしいですね?」

「……はい、そうです」


 その彼女の突然の変わり様に少し戸惑いながらも答える。その凛々しい姿に思わず敬語で対応してしまうが、そんな事を彼女は気にする訳もなく淡々と説明を進める。


「では、ご夕食の選択ですが、こちらに一任するという事でよろしいですね? ……また、翌日の朝食につきましてはシッティングビュッフェの形式となっておりますので、朝7時半から10時までの間にご利用下さい」


 淡々と説明を続けつつ、俺に鍵とホテルのルールブックを手渡してきた。どうやらそれにはこのホテルを利用する上でのルールや利用可能時間などの情報が乗っている樣で、マリアに「後で軽くで構わないので目を通しておいて下さい」と念を押された。


 また、手渡された鍵は先日渡されたそれとはデザインが異なっており、1号棟のスペードではなくクローバーがモチーフとなっていた。

 更にその色も異なっており、金色であった1号棟のそれとは違って鈍く銀色に輝いている。当然その番号も前回とは異なる、"410"が刻まれていた。


「ではお支払いについてですが、朝食の有無は如何(いかが)致しますか? 別料金として1日5ペイス加算されますが」


 彼女は手元にある管理用の台帳に記入しつつ質問を投げかけてくる。その視線は台帳へと目を向けたままで、時折その綺麗な金髪のエアリーボブを視線から外すように(いじ)る仕草が妙に(あで)やかに感じてしまう。


「……いや、朝食は無しでお願いします」


 彼女のその大人びた仕草に一瞬魅入ってしまうが、何事も無いかの様に(つくろ)って言葉を紡ぐ。

 元々朝は弱く朝食を受け付けない体質な為、朝食に関しては余程気分が乗らない限りはどうも食べたくない。いくら興味があるとは言え、ここで無理をしては体調が崩れる可能性もあるため、遠慮しておく。


「畏まりました。ではお支払いは如何なさいますか? 前払いですか? それとも後払いですか?」


 彼女はそこで一旦視線を上げて上目遣い気味に視線を投げかけてくる。俺は考え込む事も無く「前払いで」と即答し、前回の料金を思い出しつつ財布を取り出して100と書かれた紫色の紙幣を3枚カウンターの上へと置いた。

 すると一瞬驚いた様に目を見開きつつも紙幣を手にとり、凛とした表情を崩して微かに笑みを浮かべつつも3枚あることを確認した。

 そしていつも通りの無邪気な笑みを浮かべてお釣りである青色の10ペイス硬貨を2枚渡してくれる。だが彼女は今一度態度を凛々しいものへと正し、表情を引き締めた。


「ではお部屋へとご案内いたします。……クリス、お願いしても良い?」


 すると彼女は左手を掲げ、前回とは反対方向である、右側の通路へと繋がる"02"と金字で書かれた漆黒のドアへと手を向けた。

 そこで手の先へと視線を向けた際に、彼女の隣に、大柄な男性がスーツを纏って佇んでいた事に気付く。


 彼は彼女らと同じく黒いスーツに紫色のネクタイをしており、その顔は正に鬼の形相。……いや、形相と言うか文字通り鬼である。肌は白粉(おしろい)を塗ったかの様に白く、その瞳はまるで頭を垂れる稲穂の如く金色に輝く虹彩を残し、本来白色である所は漆黒の如く染まりきっている。

 その猛々(たけだけ)しく角張った顔の額にはこれまた肌と対となる様な黒い角が2本生えており、オールバックにされた髪は光を通さぬかの様に黒く、されども濡羽色(ぬればいろ)の如く艶を放っていた。


 彼は話を振られるまでは(いか)つい……いや、真面目な表情を浮かべていたのだが、話を振られるや否や柔らかに顔を(ほころ)ばせ、俺に視線を向けつつも口角を上げて目を細めた。……彼にとっては爽やかでにこやかに微笑んだつもりなのだろうが、その、……とても怖いです止めて下さい無茶苦茶冗談抜きで怖いです。


「ではお部屋へとご案内致します。こちらへどうぞ」


 そんな俺の心情を知る訳もなく、その(いか)つい微笑みを浮かべつつカウンターから出て俺を待つ。このまま突っ立っていても仕方ないので彼の元へと歩み寄ると、彼も付かず離れずといった感じで先を歩き出し、廊下へと繋がる"02"と金色で書かれた黒いドアを開けて中へとエスコートしてくれる。


 その歩き方は洗練されており、鬼に対して勝手に抱く、横柄な雰囲気などは一切感じない。(むし)ろその歩き方は領主や王に(つか)える側近の如くスマートで、その俺よりも高い身長をより映えさせているかの様に思えた。


「4階へと上がりますので、こちらへどうぞ」


 廊下へと出た所で彼がすぐさまこちらを向きつつ横のドアへと手を向けた。

 その扉は一見すると何の変哲もない黒いドアだが、本来部屋番号が記載されている部分が異なっており、シンプルにエレベーターと書かれていた。先日宿泊した際には全く気づかなかったが、このドアにはドアレバーが存在せず、代わりに半球状の丸いスイッチが1つそこに存在していた。

 彼がその半球状のボタンを押すと、ボタンの根本が白く光り、辺りにドアベルのような鐘の音を響かせた。


「貴方はとても興味深いお人ですね」


 エレベーターを待つ間、沈黙に包まれて気まずい雰囲気となるかと思われたが、意外にも意外に鬼である彼から話を振られた。思わず顔を見上げたがその表情は先程まで浮かべていた厳つい笑みではなく、穏やかでいて優しげな表情に思えた。


「……どういう意味ですか?」


 俺はその言葉の真意がわからずに問い返すのだが、彼は短く笑いつつ「いやね、珍しいなと思いまして」と何か思案しながら言葉を返した。

 すると再びドアベルの音が鳴り響き、扉が中へと誘う様に横へとスライドして開く。それを確認した彼は「中へどうぞ」と言いつつドアを押さえて中へ入る様に促してくれる。彼に従って中へと足を踏み入れると彼も共に中へと入り、"4"と書かれた金色のボタンを押した。

 ボタンは"1"から"5"まであり、この建物が5階建てである事を示していた。


 その内装は廊下やエントランス等と違ってリフォームなどはされていないのだろう。本来のものと思われる暖かな木目調と、何処か少しばかりくすみ掛かった金色で装飾が施されていた。

 だがその金色の装飾はゴールドラッシュ全開なド派手なものではなく、それぞれの階のボタンが配置されている操作盤と、奥に張られた曇り1つ無い姿見の様な鏡の枠組みに使われているのみとなっている。


 それ以外は温もりを感じる木材が素材として使用されており、印象としてはアンティークの樣な、良い意味での古臭さを感じさせる。当然ながら木材も決して真新しいものではなく、その長い年月によって刻まれたであろう様々な傷や色褪せ、汚れがこの建物の長い歴史を物語っていた。


「マリア主任は、仕事中にあの様な笑みを見せた事はありません」


 扉が閉まってゆるりと上昇し始めた所で彼が続きの言葉を吐き出した。……と言うか、マリアって主任だったんだな……すげぇ。通りで全部のスケジュールを把握している訳だ。

 横で彼の顔を見上げていると、彼は続きを絞り出す。


「私も長い間彼女の下で働いておりますが、あの様な表情を見たのは久しぶりです。……確かに彼女の優しさはわかりにくく、常に自他共に厳しくありますが、そのお陰でクレームが激減し、満足して何度も利用して下さるお客様も日々増加しています。……ですが、彼女の事をよく知らない新人の従業員からは"冷徹"だとか、"鬼"だとか噂されております」


 そう吐き出す彼の表情はまさに曇り空で、心做(こころな)しか発せられる声のトーンも少しばかり暗くなっており、彼女がそう言われるのを快く思っていないのが感じられる。

 働いていない、自由な時の彼女を先に知ったという事もあるだろうが、どうもそれを考慮したとしても彼女が冷徹である様には全く思えない。

 

 そんな事を考えているといつの間にやら4階へと到着していたのかドアベルの音が鳴り響き、目の前に立ち塞がっていたドアが横へと滑り出した。

 ドアが開いたのを確認した彼は「どうぞ」と呟きつつ、ドアを押さえて廊下へと出る様に促した。そして彼は俺がエレベーターから出たのを確認すると室内のボタンを一度押しつつ廊下へと足を踏み出した。

 するとエレベーターはまたもやドアベルの音を響かせながらドアを無情に閉ざして降りたのか、段々とその音を遠ざけてゆく。


 するといつの間にやら到着していたのかドアベルの音が鳴り響き、目の前のドアが横へと開いた。

 彼は「どうぞ」と一言呟き、ドアを押さえて出るように促した。俺がエレベーターから降りて廊下へと足を踏み出すと、彼も何やらボタンを押してエレベーターから降りた。

 するとエレベーターはドアベルの音を鳴らしながらドアを閉ざし、降りていったのか段々とその音を遠ざけてゆく。


「部屋はこちらです」


 彼はそう言いつつ歩みを進めながら言葉を紡ぎ出す。


「……そのあまりの言い草に腹が立った私は、一度マリア主任へと噂の件を報告したんです。……すると彼女はどうしたと思いますか?」


 彼からの突然の問い掛けに言葉を失った。否、ふさわしい答えを導き出せなかったと言うべきだろうか。その答えの価値に値し得る答えを用意できなかった。


「……彼女は腹を立てつつ状況を報告した私を(なだ)める様に笑いながらこう言ったんです。……"私は私を信じて着いて来てくれる者を信じる。それ以外はどうでもいい"。とね」


 その言葉に俺は彼女への印象を改める事となった。彼女はプライベートではあんなにじゃじゃ馬で、トリカブトの毒を塗ったくった言葉のナイフで滅多(めった)刺しにしてくる樣な、何とも制御しづらい、けれども可愛気のある脳天気だと思っていた。だが実の所、しっかりと部下を信頼して育て上げる事が出来る優秀な上司であると言う事を認識させられた。

 だからこそ、この目の前の彼の様に、完璧な所作を身に着けて宿泊客を満足させ続けられるのだろう。



「……余計な話をしてしまいましたね。申し訳ありません。お部屋はこちらになります」


 そうこうしている間に目的の410号室へと到着した。俺は「気にしないで下さい」と答えつつ、先程受け取った鍵をドアの鍵穴に差し込んだ。するとドアが呼応し、施錠がカシャリと解除される音が鳴り響いたので、「ありがとうございました」と礼を述べつつドアを開けて中へと足を踏み入れる。

 すると彼は笑みを浮かべた。


「いえいえ。……これからも彼女の良き友人であって下さい。彼女は私の上司ではありますが、それ以前に幼い頃からその様子を見てきました。……こう言っては語弊がありますが、彼女は私にとって娘や孫みたいな者なのです。……では失礼致します」


 彼はそう言い残しつつ扉を閉めようとするが、「あ、そうでした」と呟いて部屋の中へと顔だけを入れてきた。


「夕食のお時間は19時から22時までの間となっておりますので、それまでには1階のご夕食会場へといらして下さい」


 彼はそう言い残すと「失礼しました。ごゆっくりと」と後に続けて顔を引っ込めてドアを閉めた。

 そのバタンと鳴り響いたドアの閉まる音に無情さを感じつつも、その部屋を包み込む静寂に何処か安心感を感じた自分が居る。私生活でもそんなに交友関係のない俺が、クラブル姉妹……。主にマリアとファイスだが、こうして交友関係を結べているのは本当に稀な事で、嬉しく感じる反面、その本来煩わしいと感じているであろう感情すらも心地良い疲労感として感じてしまっている。


「煙草吸いたい……」


 ふと一人でに漏れ出した感情。そうと決まれば玄関へと向かう決意を決め、握りしめていたキャリーケースをベッドの横に置き、煙草と部屋の鍵と財布を持って部屋を出る。他の宿泊客は未だに島内を観光中なのだろう。廊下に出た所で誰もおらず、しんと静まり返っている。


 今日からここに連泊するという事もあってか、前回宿泊した時に感じた寂しさや虚しさなどを感じない。(むし)ろここからの期待感にワクワクしている。それは、今まで片手を塞いでいたキャリーケースをやっと放置できる様になった事も要因の1つとしてあるだろう。


 その静まり返った廊下を独り歩いてエレベーターで1階へと降りるのだが、そこもまた静寂に包まれており、まるで自分以外の誰も居ないかの樣に錯覚してしまう。そこから中央のエントランスへと出ると、先程と同じく真剣な眼差しで手元で作業しているマリアと鬼のクリスがそこに居た。

 先程まで一緒に行動していたファイスはと言うと、既にその姿は見えず、いつの間にやら何処かへ行って――。


「あれ? コースケさん、何処行くんですか?」


 っと思ったらいきなり当の本人から声を掛けられる。咄嗟(とっさ)に振り返ると、そこには前回ガイドをお願いした時と同様にソファーに腰を落ち着け、コーヒーを飲みつつ雑誌に目を通しているファイスの姿があった。


「いや、ちょっと一服ね」


 そう言いつつ彼女に煙草とジッポーをちらりと見せると、苦笑いを浮かべて「健康に悪いので止めた方が良いですよ」と心配してくれるが、「どうも止められなくてね。ごめんね?」と笑って流す事にした。


 次いでカウンターに目を向けると、そこにいたクリスが俺に気付きニコリと笑みを向けてきたのだが、やはり怖いです、本人には悪いけれども。

 そんな彼にほんの少しぎこちないであろう笑みを返しながら外へと出ると、明るいままの長閑な風景が出迎えてくれる。目に映るその鮮やかな紫色のアイリスが、まるで敷き詰められた紫色のカーペットに見えてしまう。


 そこで喫煙所の壁に(もた)れ掛かりつつ煙草に火を灯し、そのままぼーっと門の向こう側に見える街を行き交う人々を眺めた。その中には祭りの際に行われる踊りの為だろうか、仮装のような衣装を纏っているものや、リヤカーにてとても大きな荷物を積み込んで軽々と運んでいる者など、やはり昨日とは違う賑わいを見せていた。

 ……どう見ても過積載なのに軽々運んでいる所を見ると、ひょっとして魔法が付与されているのだろうかと、ふと異世界に来た事を自覚してしまう。


「おや、コースケさんじゃないですか。また泊まりに来たんですか?」


 そんな景色をぼんやりと眺めていると、突然入り口から出てきたであろう彼女から声を掛けられる。ふと振り向くと、そこにはアプリコットオレンジ色のセミロングを引っさげたレイラさんの姿があり、にこやかな表情を浮かべていた。

 彼女の服装はとてもカジュアルで、鮮やかな青色のフレアジーンズに、男物だろうか、明るいブラウンのミリタリージャケットを羽織っている。

 だが中は案外と薄着の様で、フルオープンされたジャケットの中に白いタンクトップが見える。


「あぁレイラさんですか。貴女こそどうしたんですか? 因みに今日から4連泊です」


 俺がそう言いつつ一口紫煙を肺に落とし込むと、彼女もまたジャケットのポケットから煙草を取り出し、マッチで火を灯した。


「私は今日の午後から明日の午前中まで休みで、どうしようかと考えてた所です」


 彼女はそう溜息交じりに紫煙を吐き出しつつ言葉を紡ぎ上げた。次いで少しの間無言になるが、「あ、そうだ」と何かを思い付いたように話題を振ってくる。

 何かと思ってふと目線を向けると、その表情にはニヤニヤという言葉がふさわしいであろう笑みを浮かべていた。……ちょっと嫌な予感がするのは気のせいかな?


「……どうしたんですか?」

「ちょっと、何でそんな嫌そうな顔してるんですか」


 どうやら無意識に怪訝な表情をしていた様で、思わず彼女からジト目を向けられる。

 いや、だって……ねぇ? 会っていきなりニヤニヤしながらそんな事言われたら誰だって警戒すると思うんだけど……。


「まぁそれは良いとして。……この後って時間あります?」


 彼女は煙草を口の端に咥え、ジャケットのポケットに両手を突っ込んでカツカツと靴音を響かせながら、隣に並ぶ様に寄りかかって尋ねてくる。

 途端、ふわりと香る甘い感じの芳香が鼻腔を(くすぐ)る。

 その表情は何かを期待しているかの様に笑顔で、本人には悪いが嫌な予感しかしない。


「……あぁいや、アレがソレでコレだからちょっと……」


 そこで俺は某千葉県の仲良し兄妹の兄の真似をする。あれ、原作もアニメも終わっちゃったよね……。純粋に悲しい。いや、悲しいっていうか虚無感が半端ない。


「んー、何がどうなったんですか? ねぇ?」


 だが虚しいかな、目の前にいるレイラには全く通用しない。明らかに顔がニヤけている。……あっれーおっかしいなぁ。いくら"逃げる"コマンドを選択しても受け付けないんだけど……やっぱクソゲーだわ、この"人生"ってゲーム。


「まぁいいです。……ちょっと夜に相手して欲しいだけなんですよね」


 彼女はそんな事を気にすること無く、人差し指で道を挟んだ向かい側を指した。……たしかあそこには……。


「カルム?」

「そうです。1人で飲むのも寂しいんで少し付き合って下さいよ」


 そう、このホテルと懇意(こんい)にしているバー、"カルム"。前回宿泊した際にも利用したが、カクテルが美味しく、フード類もホテルから提供して貰ったものが多いためか、とても美味いのでまた行きたいと思っていた所だ。


「あぁ、それなら良いですよ。丁度俺も行きたかったですし」


 そこのフードにあるタコのカルパッチョと生ハムのがまた美味いんだ。

 ……今思い返せばあの時のタコ、やけに切り口が広かった気が……。いや、気にしないでおこう。味に変わりはない。酔っ払ってて若干覚えてないけどな。


「じゃあ、夕飯が終わったらフロアで待っててくれます?」


 彼女はそう言いつつ煙草を揉み消し、後ろ手でひらひらと手を振りつつ「じゃあまた後で宜しくお願いします」と言い残してスタスタと歩き出してゆく。

 その後姿がまたワイルドに見えて、思わず魅入ってしまう。……やっべぇ、何あのイケメン。惚れそう。頭の天辺にピンと立つ兎の耳が可愛く生えてるけどイケメンだ。


 ……さて、俺もどっかそのへんをぶらついてみようかと思って煙草を揉み消し、壁に(もた)れていた背中を離して宛もなく歩き出そうとする寸前、ホテルから出てきたスーツ姿のままのマリアに「あ、コースケ、丁度いい所に」と言って呼び止められる。

 その満面の笑みを浮かべている彼女の手には一枚のメモが握られており、その後ろには同じくスーツ姿のままのクリスが立っていた。


 彼のその辺りを見回す仕草がどこかゆったりとしているせいか、まるで獲物を吟味しているかのように感じられた。本人としてはそんな気なんて全く無いだろうし失礼だとは思うのだが、どうも見慣れない内は怖く感じる。


 今日はやけにクラブル姉妹に絡まれる。……まぁ、こっちに来たばっかりで彼女達位しか知り合いが居ないんだけどね。

 あぁ、あとあのゴブリンのあんちゃんとラミアのミスティアさん位か。


「一体どうしたってんだ?」


 俺はその場でしゃがみ込んで喫煙所の壁に寄りかかった。その表情を見る限り、何か急いでいる訳でも焦りが見える訳でもないのだが……。


「明日の朝食のジャムとドリンクが足りないらしくてね、ちょっとクリスと一緒に注文してきて欲しいんだけど、大丈夫?」


 詳細を聞く限りどうやら発注にミスが有った様で、ジャムとドリンクの桁が1つ少ない状態で発注してしまったらしい。因みにその発注した子は新人だったらしく、昨日が初めての発注だった様だ。


「あー、良いけど、何で俺?」


 俺個人としては暇なので構わないのだが、何でそこで俺が選択肢として出てくるのだろうか……。あれ? もしかして俺って従業員だと思われてる? ……ちょっと待って、雇用契約結んでないよ?


「んー、暇そうだから? それにコースケが甘々で何でも言うこと聞いてくれそうだから?」


 おっとぉ? コレって喧嘩売られてるぅ? そんなウィンクして可愛げあるように見せかけても流されないぞぉ?


「……わかりました。よろしくおねがいしますね、"マリア"」


 彼女から売られた喧嘩に対してどう対応しようかと考えていると、彼女の背後にて佇んでいたクリスが思わずちびってしまいそうな程の笑みを浮かべてそう言い放った。

 途端に名前を呼ばれた彼女が一瞬固まるが、驚いた様に目を見開いて勢い良くクリスへと向き合った。


「……ちょっと、どういう事?」


 その彼の言葉が予想外だったのか、突如仕事モードへと切り替わり彼を責める様に仁王立ちとなる。だがそんな彼女の言葉に部下であるクリスは怖気づくと思われたが、彼は腕を組んで溜め息を零した。


「……たまにはサボってもいいじゃないか。むしろサボりなさい。どこまで気を張り詰めるつもりだ? ……そんな君を心配する皆の気持ちにもなりなさい」


 だが彼の口から零れ落ちた言葉は叱咤(しった)するかの様な口調でありながらも、真に彼女を心配しているのが感じられ、まるで彼女の親であるかの様に感じられた。


「第一、去年もそうやって気を張り詰め過ぎてぶっ倒れただろ。まさか、また看護しろって言うんじゃないだろうな?」


 クリスは溜息交じりに言いつつスーツの胸ポケットから煙草を取り出した。……いや、自分が言えた事じゃないけど、喫煙者多くね?

 どんどんと喫煙者の肩身が狭くなってゆく地球とは違い、ここは喫煙者に対してある程度寛容な様だ。だがいくら優しいとは言え、その優しさに溺れていると段々と肩身が狭くなってゆくので、しっかりとルールやマナーを守ろう。……一度マリアに注意されている俺が言えた事ではないのだが。


 「……で、どうするんだ? このまま彼と買い出しに出るか、ホテルで半監禁状態の強制休暇を取るか……。どっちがいい?」


 クリスは苛つきを抑えるようにタバコに火を灯し、大きく一口肺に落とし込んだ。先程まで仕事モードで凛々しかった彼女の姿は一体何処へやら。顔を俯き気味にさせて「いや、その……」と何やらしおらしく手をもじもじさせて返答に困っていた。


 一方で紳士だと思っていたクリスがまるで雷親父のそれの様に……いや、それ以上の形相で睨みを効かせていた。……ごめん、俺関係ない筈なのに体の震えが止まらない。


「うぅ……わかった。買い出しに行き――」

「今日の夕食の時間まで帰ってこない事。いいな?」


 渋々と了承する彼女の言葉をぶった切って一言付け足すクリス。その言葉に彼女はビクリと一瞬肩を震わせたが……どれだけ仕事したいんだ? もしかしてワーカホリック?


「……わ、わかりました……」


 クリスによって退路を完全に絶たれ、どうしようもなくなったので認めるしかなくなった様だ。取り敢えず俺としては暇潰しの用事が出来た上に観光が出来る様になったので、何も言う事はない。いや、むしろ有り難い。


「……では、短い間ですがマリアをよろしくお願い致します」


 そんな事をポケーと考えていると、クリスがこちらを向いて俺にそう行って微笑みを向けてくる。先程部屋に案内されるまでの間に彼女の事を娘の様だと思っていると言っていたが、今しがたの態度からもヒシヒシと感じる事が出来た。


「……わかりました。よし、じゃあ行こ――いや、着替えた方が良いか」


 クリスに一旦同意するが、彼女のビシッとしたスーツ姿にそんな考えが過ぎった。……いや流石にスーツで歩き回るのは良くはないだろ……。

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