日常へ
目の前の景色が数秒のラグを挟んだ後に切り替わる。それによって突然目の前が暗くなり、ほんの少しの間視界が不良となる。だが鼻に感じる匂いは、煙草の残り香に洗濯用洗剤の香料を混ぜた、まるで古ぼけて年月を経た香水の様なそれ。
だがその香りがたった1日感じられなかっただけで懐かしく感じられる。
そのまま少し待つと、暗い部屋に目が慣れたのか視界がはっきりとしてくる。目の前にあるのはいつもの草臥れた黒いソファーに、その前にある小さなローテーブル。
テーブルの上には針鼠とも仙人掌とも見える山盛りになった灰皿があるのだが、それでも尚収まりきらなかった2、3本の吸い殻が崩れて零れ落ちている。また、異世界に行っていた間に着信が来ていたのだろう、灰皿の横に乱雑に置いておいたスマホのLEDライトが等間隔に点滅している。
窓際に配置されたベッドは朝に使ったままの乱雑さで、煙草によってベージュに染まったカーテンから漏れる光に照らされて黄色く淡く照らされていた。……因みに元の色は曇りのないまっさらな白色の筈なのだが、もはやその頃の面影はない。
……ここまで来ると部屋を退去した時のリフォーム代請求が怖くはあるのだが、もう今更なので半ば開き直ってバカスカ吸っている。
部屋の隅に沿う形で置かれたL字型のデスクの上にはノートPCとモニタが置いてあり、電源が入ったままで放置されている。ノートPCの画面にはオフラインで動かせるゲームをオートモードで走らせており、接続されているモニターの方には動画サイトのブラウザが開きっぱなしになっている。
最近だとネット環境が更に高速化したお陰でオンラインゲームが主流になりつつあるけれども、人間付き合いと言うか何と言うか、顔色を伺いながらゲームするのが嫌になり、そこらに転がっているフリーゲームに手を出し始めている。
因みに、オンライン対戦があるコンシューマ型のゲームも、オフラインのストーリーだけやって満足するタイプだ。
そのいつもの光景にやっと帰ってきたんだという安堵を覚え、取り敢えず靴を脱いでクローゼットを出る。そして靴を玄関へと放り投げて冷蔵庫にジャムを入れ、ソファーにどかりと乱雑に座り込んだ。
今まで無意識の内に気を張っていたのか、それだけで体中から力が抜けてゆく様な感覚になり、ふと無意識の内に煙草を取り出していた。そのまま流れる様に火を灯して思いっきり肺へと落とし込むと、軽い目眩に襲われて咳き込んでしまう。
思わず咳き込んで涙目になりつつも、昨日と先程までの事を思い出していた。
まるで薄氷の様な薄い人生を歩んできた二十数年あまりの体験よりも濃いものが、この2日間で体感できた気がする。
「今後の予定どうしようかなぁ……」
眼の前のローテーブルに手を伸ばし、新規通知が来ていたスマホのロックを解除する。一瞬誰からの連絡だろうかと少し心配になるものの、来ていたのはよくある迷惑メールで、人妻との出会い云々のものである。
これが届く理由については俺に原因はなく、高校を卒業した現在でも友達付き合いのある山村のせいである。面白いし気も利くし、良い奴なので今でも付き合いがあるのだが、如何せん、オツムのネジが緩い……もとい、ネジを何処に置いてきた? って思える程にぶっ飛んだ事を時々やらかしてくれる奴のせいなのだ。
では何故彼が原因なのかというと、彼は俺のアドレスを勝手に利用してこの手の会員登録を行ったのだ。そしてその事を少し前の同窓会で「あぁ、それは俺がやったんだよ」と暴露され、現在に至るのだ。
そんな予想もしない事を裏でコソコソやり、その後に本人に堂々と暴露する奇想天外っぷりが好きで、今までも付き合いを続けている。だがその迷惑メールも悪い面だけではない。元よりラノベやアニメが大好きで、暇潰しによく読んでいたり見ていたりしていた。特に移動中などは暇な時間が多かったので、当然スマホを見る事になるのだが、それでもウェブのページを見るのにも飽きてしまう。
そこで迷惑メールの出番だ。あれは一見すると迷惑以外の何物でもないのだが、画面の奥でオッサンが必死に打っていると考えると、とても面白く感じてくる。
また、しっかりと読むと誤字脱字があったり、ツッコミどころ満載な面白い一節があったり、興味を引く一節が書いていたり、男性だから分かる男の心理を掌握する様な文章が書いてあったりと、一時期ラノベをバカスカ読み漁っていた身としてはとても興味を惹かれるのだ。
……と、この前山村と遊んだ時に言った所、「いやぁ、相変わらず君は歪んでて面白いね」と、煽りを含めて笑われた。……そんなに歪んでないよね? ね?
そんな事を無表情で考えつつ迷惑メールに目を通し、面白い一節が無いか目を通しつつ、短くなった煙草を針鼠と化した灰皿へ突っ込む。……明日からどうするのかを考えたのだが、どうも5日間という時間がとても長く感じてしまう。
……時間に換算すると120時間。……マジでどうしようか。
やはりまた協定島に行って工業地区を回ったり、他の国……は流石に時間足りないので却下。……となると、露店を見て回ったり、雑貨見て回ったりとかになるかなー。
それも楽しそうだから良いけれども。
ふとクローゼットに目を向けると、相も変わらず入口が開いているらしく、閉めた扉の隙間から白い光が漏れ出ている。……あれ? 返ってきた時には光消えてたよな? このゲートってもしかしてクールダウンの時間があんのかな? ……って思った所で1つ気付いたのだが、これって他人を家に呼べねぇよな……?
クローゼットが光っている怪現象なんて、どうやって説明しろって言うんだよ……。いや、発信阻害の魔法が掛かっているから説明できないけどよ……。あれ? これって人を部屋に招き入れた時点で詰みじゃね?
……もうどうしようもない目の前の現実に思考が徐々に雁字搦めになって停滞し始めたので、取り敢えずは一度寝てから考える事に。
そうと決まれば服を全て脱ぎ捨ててパンツのみになり、乱れたままの布団に潜り込んだ。ひんやりと冷えた布団が温もりを宿した体に染み渡り、次第に暖かみを表してゆく。
また予想以上に疲労が蓄積していたのだろう。すぐさま眠気が襲いかかり、抵抗する間もなく夢の世界へと落ちていってしまう。
………………
……………
…………
………
……
…
…………それからどの位経ったかわからない頃。ふと目が覚めて真っ暗になった部屋に気付く。カーテンから染み渡る光がない所から考えるに、帳が満ちて夜になったらしい。
ふと気になってクローゼットに目を向けるも、昼間には燦々と漏れ出ていた眩い光が消え、渡航管理局の営業が終了している事を教えられる。
目覚めて一番に空腹を覚えつつもポータブル式の灯油ストーブの電源を入れる。次いでソファーに乱雑に置いた上下スウェットを着込んでソファーに腰を落ち着けた。
そして条件反射の如く煙草に火を灯して紫煙を肺に落とし込んだ。
一呼吸置きソファーから立ち上がって冷蔵庫の中を見るも、あまりの過疎っぷりにそっ閉じしてしまう。……深夜の首都圏かな? ドーナツ化現象も真っ青な伽藍堂っぷりだ。
次いで冷凍庫も開けてチェックするが、ラップに包まれてカチカチに凍った鶏もも肉と牛豚のひき肉、そして先日買って冷凍庫の肥やしになりかけている、クラフトジンの桜尾とゴードンジンがそこで安らかに眠っていた。
我ながらホント何もねぇな……。今から肉を解凍するのも面倒だし、炊飯するのも実際ダルい。となるとコンビニに行って弁当なりカップ麺なりを買いに行く事になるのだが……。如何せん面倒だ。
だがふと煙草の残りが少ない事を思い出し、なら行くかと考えて出掛ける準備をする。また通貨管理局にて日本円を全額ペイスへと換金したので、日本円に関しては無一文の状態なので下ろすついででもある。そうと決まればスウェットを脱ぎ捨て、寝る直前まで穿いていたジーンズに足を通して厚手のコートを羽織った。
煙草を満杯の灰皿に突っ込んで消火し、家の鍵と財布だけを持って部屋を出た所で冷えた風が体を撫で抜けた。するとそれまで眠気で微睡んでいた意識がはっきりと覚醒し、その寒さに身を震わせた。
部屋の鍵を閉めて手摺り越しに見える夜景にふと目をやった。ここはアパートの最上階である4階である上に立地にしても丘の上にある為、眼下に並ぶ街並みを一望する事が出来る。
普通の感覚ならば、この眺めを見て"綺麗"だとか、"凄い"だとかの感想を抱くのだが、協定島の夜景を一度見ている身としては、なんだかしょぼく思えてしまった。
比較する事自体が間違っているのだが、あの綺麗な夜景を見た後だと、どうしてもそんな感想を抱いてしまう。
そんな馬鹿な考えをしてしまった自分に多少なりとも嫌気が差しながらも、各階に貫通しているエレベーターに向かって歩き出す。その虚しく響き渡る自分の足音が、まるでここに居るのは自分だけだという変な錯覚を起こさせ、感じていた虚しさを増幅させた。
運良く4階に止まっていたエレベーターに乗り込んで1階へのボタンを押すと、ドアは正確無比で冷徹に閉まり、俺を1階へと降ろすまで目の前に立ちはだかっていた。
その間、独特に入り混じった臭いとエレベーターの稼働する音だけに支配されたこの空間に、年甲斐もなく寂しく虚しい気持ちになってしまう。
そんな心情を見て見ぬ振りをするかの様に、何処を見るでもなくただ黙って1点を眺めていると、ガタリと眼の前の扉が開いた。次いで目線を上げると、そこには点々と点在する街灯に照らされた住宅地の光景が目に入った。やけに静まり返ったその光景に、ふと違和感を抱く自分が居て気付かされた。
協定島とは違い誰もこの時間に外出している者が居ないのだ。いや、正確に言えば"徒歩で外出している者"、だろうか。
科学が発展して様々な移動手段が人々の手に渡った今、人手の入らない森林などでない限り、人々の移動手段は自転車から飛行機に至るまで多岐に渡っている。近所のコンビニに行くなどの短距離でなければ、態々徒歩なんて非効率的な手段は取らないだろう。
また最近では大型のスーパーやショッピングモールがあるためか、商店街へ行こうという考えが薄れ、人同士の繋がり自体が減ってきている現状もある。態々八百屋であったり、魚屋、肉屋など、ある商品に特化した店舗というのも減ってきている現状も一因としてある上、ハシゴしなくても楽に全てが揃うのならば、そっちを選ぶだろう。
それに関してはとやかく言う気もないし、時代の流れの変化であると言えばそれまでだろう。実際の所、俺も便利で安いからスーパーを利用しているし、その点に関しては何も言えないし何も思わない。
だが、このあまりの人気の無さを見て、イタリアのマルシェの様に道の両サイドに露店を構えていた商業地区が恋しくなり、戻りたい、いや、訪れたいと言う気持ちが大きく膨れ上がる。
そんなどうしようもない感傷に浸りつつも近所のコンビニに足を踏み入れた。深夜帯に近い時間という事もあってか、店員からの挨拶も入店音もなく、ただただBGMだけが流れている店内をATMに向かって歩みを進める。
俺の入店に気付いたのか店員がやる気のない声で出迎えるが、何気に俺はその方が好きだったりする。と言うのもこの方が気疲れせずに何も気にする事もなく買い物をすることが出来るからという理由からなのだが、稀な事に、この態度が気に入らないと言う、有り難たくもクソ迷惑な説教をしだす輩がいらっしゃるのだ。
ぶっちゃけると自分としては何を怒っているのかが理解できない。
極論を言ってしまえば、嫌ならば今度から来なければ良い話で、わざわざ口に出して説教する理由がない。寧ろその怒る労力と時間を無駄に浪費できる程暇ではないので、ある意味でその有り難い輩な方々を尊敬できる。
取り敢えずATMで扱える限度額の10万円を下ろしてレジへと向かう。今日の店員さんはいつもの若い兄ちゃんなので、俺の顔を見てすぐさまJPSのカートンを無言で用意し、レジに到着する前にバーコードを読み取っていた。
……いや、俺としては有り難いけど、何か言う前にレジ通して待ってるってどうなんだろう? 俺は別にいいんだけど、他の人だったらどうしてるんだろ。
何にせよ考えていても埒が明かないし、別に悪いこともないので、今しがた下ろしたばかりの諭吉十傑作の内の1人を召喚致し、会計を済ませた。
……あ、そういえば夕飯買ってねぇや。……まぁいいか。
……ふと思ったけど、この9万4千円が全部ペイスに変わるってとんでもない気がする。
まぁ、仮想通貨などに突っ込んでいるわけでもないし、帰ってくる際にはあちらの預金に全額突っ込むので問題はないのだが。
会計を済ませて間延びした有難うございましたという声を背にコンビニを出つつも、その寒い夜風に撫でられつつ家への帰路を歩き、今後の予定を立てる。
まず、時間は5日間と長く、国外へ遊びに行く以外であれば何でも出来そうな気がする。……いや、国外に遊びに行くとしても日帰りや弾丸旅程であれば可能な気もするが、移動手段が船などの長時間拘束されるものだけだった場合、天候などの変化によって完全に詰んでしまう可能性もあるのが怖い所。
あくまで魔法陣でのタイムラグなしの移動ができるのであれば、予定に組み込んでも大丈夫だろうと思う。現実的な考えとしては2泊3日や3泊4日あたりが一番無難だろう。最終日を移動日として早めに帰ってくる事で疲労回復日として充てる事も出来る。
また、別プランとして協定島でのんびり過ごすのも良いかも知れない。幸いにもまだ行っていない所もあるし、見所がないとファイスが言っていた工業地区にも興味がある。見所がないと言いつつも当の本人であるファイスは足を運んでは小物などを買っているそうで、そういった物を見て時間を潰すのも良い。
更に言うのならば、その2つの案を掛け合わせて実行する事も可能じゃないのかと考えてみるものの、若干RTA染みた行動計画になりそうであまり気が進まない。少しでもミスしたらはい再走、というゲームの様な事は出来ないし、そんなカツカツな日程を組みたくもない。
高校や中学の修学旅行じゃないんだから、1人である以上は完全に自由な日程を組みたいものだ。可能であるならば、何も日程を組まないでぶらりと行動するというのが一番好ましい。
まぁ、そこらへんはスイートキャロッツにいるクラブル3姉妹にでも聞けば分かるだろうし、それが駄目なら他の宿泊客に喫煙所で尋ねてみるのも良いかも知れない。幸いな事にあのホテルは魔族の人が多いので、魔族領の事について聞いてみるのも良いかもしれない。
旅程の日程を組み立てるのはとても楽しいもので、いつの間にやら自身の部屋の前に到着していた。ポケットからジャラジャラと鍵を取り出して施錠を外して中へと足を踏み入れると、モワッとした温風が体を包み込んだ。……ってあぁ、暖房点けっぱなしなのを忘れてた。
……まぁ、この短時間だし、火事の危険もないだろう。
コートをソファーの上へと脱ぎ捨て、こんもりと溜まった灰皿のそれをゴミ箱へ。そうする事で吸い殻は綺麗に無くなったものの、底にはまるで石の如く灰がこびりついているのだが、そんな事はお構いなし。
先程買ったJPSのカートンをベッドの上にぶん投げ、どかりとドファーに腰を落ち着けて空き箱寸前のボックスから煙草を取り出して着火。
一先ず考えてみる。
出国する際に天使の男性が言っていたが、PCが3種類あるという事だ。それ以前としてPCが存在していた事にも驚いたのだが、果たしてOSがどんなもので、ユーザーインターフェイスがどの様なものなのかも確かに興味がある。
だが最も重要なのはそこではなく、"魔法によって稼働するPCがある"という事だ。
それが一体何の問題なのかと言うと、魔族領へと旅行に行くと考えた時、当然魔法が使えない自分が観光に行ったとして、果たしてまともに生活できるのだろうか、という点だ。
当然、話を聞く限り魔族領に住む者達は魔族であり、魔法が身近な手段として確立されている。そこでやはり重要となるのが魔法が扱えるか否かだ。
協定島でも魔法を使っている部分はあったのだが、あくまで魔族と人間が共存している点と、2つの領地とは異なる文化が根付いていたという点があった為、どちらでも扱えるであろう仕組みが組み込まれていたのは違いない。
だが、魔族領や人間領はどうだろうか。
飽くまで魔族領は魔族に、人間領は人間に特化した文明があり、それぞれに適した規格が存在するのはPCの系統の違いからも見て取れる。
地球でさえJISやISO、ANSIなど、様々な規格が存在しているのだ。あちらの世界の人間でも多少なりとも魔法を扱えるものが居るのかも知れない。だが俺はどうだろうか。地球という科学に特化した文明で育った俺が、今更魔法という非科学的なものに触れて操作できるのかと言うと甚だ疑問である。寧ろ不安でしか無い。
ファンタジー小説よろしく1日で魔法を習得しました、だなんてご都合な事はまず無いだろうし、そもそもとして魔法がファンタジー小説のものとはかけ離れている場合もある。
それに30歳まで童貞だと魔法使いになれるというのも、ただの煽り文句であり、本当に魔法が扱えるわけでもない。
「どうすっかなぁ……」
誰も居ない部屋の中、静寂に包まれる中で1人呟くも答えてくれる者は居ない。残念ながらAlexaを使っている訳でもないし、Siriを起動している訳でもないでもないので、本当にただの独り言になってしまう。
取り敢えずウジウジ悩んでいても何も変わらないので、さっさと就寝の準備を始める。
部屋の片隅に埋まっていた銀色のキャリーケースを引っ張り出し、数日分の着替え等を突っ込んで明日の準備を済ませ、シャワーを浴びた後に歯を磨いてベッドイン。寝る時にパンツ一丁になるのも忘れずに。
スマホを持っていった所で使えるかわからないので、取り敢えずは置いてゆくことに。……向こうで紛失しても困るしな。
そして寝る前にアラームを朝5時に掛けてストーブに手を伸ばして電源を落とし、眠気がないながらも目を閉じ、意識が落ちるのを待った。
次の日にふと目覚めてスマホを確認するもアラームが鳴った訳でもなく。時間にしてアラームの丁度10分前に目が覚めた。本来であれば時間になるまで温もりの中で微睡んでいるのだが、湧き上がるワクワクからかそんな気持ちにもなれず、肌寒い空気の中に身を起こした。
肌を突き刺す様な寒さに縮こませた反面、一気に眠気が吹き飛んだ。その震えそうになる体を抑え込み、ストーブに手を伸ばして電源を入れるも温風が出るまでには暫く掛かる。
ふとクローゼットに目をやると光が漏れ出し、今か今かと急かすかの様に白く輝いていた。
取り敢えず応急的に体を温めたい俺は、寒さに震える体を引き摺りながらトイレで用を済ませ、バスルームへと向かった。
唯一体を覆っていたパンツを脱ぎ捨てて温水器のスイッチを入れつつ颯爽と浴室へと足を踏み入れ、藁をも縋る勢いで大きく赤い蛇口を開けた。
温水が出るまでのこの短い時間ですら長く感じてしまう。
早く早くと急かしていると、寒気にて凍てつく水が徐々に暖かなものへと変わっていった。それを確認するや否や思いっきり体へと掛けてゆくと、冷え切った体との温度差か、一瞬熱湯を被ったかの様に感じたがそれも束の間。徐々に体が温まり、熱湯だと感じていた流れが心地よい温度へと変化してゆく。そのまま温まりつつも頭や体の汚れを洗い流しつつ今日の予定を頭の中で整理してゆく。
……取り敢えず入国して両替を済ませて工業地帯に向かい、見学がてら気に入った物があれば購入。その後スイートキャロッツか他の宿屋にチェックインし、荷物をおいてぶらりと散策。翌日の朝にチェックアウトし、取り敢えずは人間領……のつもりだけど、状況次第と言った所だ。
予定として初日の夜に向こうの大衆居酒屋にて情報収集を行い、どちらかに決めるつもりだ。あっちの人は皆気さくだから、気軽に答えてくれるだろう。
……治安は良い筈だ。うん。夜の酒場はどんな感じなのかはわからないのだが。
魔力や魔法の使えない人間でも魔族領で生活できるのであれば、断然魔族領にも行ってみたい。折角の異世界だし、いつもとは違う景色や文化に触れてみたいし美味いものも食べたい。何より俺は菜食主義者ではないので、肉や魚が食いたい。
まぁ、どちらに行くかは臨機応変に対応ということで問題はないだろう。仮に問題が起きたとしても、問題と思わなければ問題にならないので、何とも無い。
……大丈夫だよね?
一応日本円で9万円程下ろしてはいるのだが、果たしてこれで足りるのだろうかと思ってしまう。いざとなれば向こうの預金に200ペイス程入っているので、それを使うかもしれない事を念頭に置いておこう。
地球での旅行とは違い、移動にかかる金額が半額以下どころかタダに近いという所が、とても魅力的だ。こちらだと最短である台北で片道3万円程。最長のウルグアイで大体37万程と、大きな開きがあるものの、往復と考えれば最低でも6万円はかかるだろう。
そのネックとなる移動費がほぼほぼ掛からない事を考えると、協定島はとても魅力的だ。
しかも行き着く先は見た事もない人々と、触れた事のない魔法という文明。当然異世界の方に惹かれるだろう。
シャワーを浴び終えて温まった部屋で服を纏う。下には黒のカーゴパンツを履き、上のインナーには白のロングTシャツ、そしてアウターとして濃い緑色のモッズコートを羽織り、無地の白いニット帽を被った。
取り敢えず出かける前に一服。軽い酩酊感が心地良い微睡みを誘って気分を落ち着かせてくれる。その短くも長い一時に浸りつつ、何を考える訳でもなくぼうっと天井を眺めた。何の変哲もない紫煙によって黄色く染まったそれは、まるで夕日に照らされた光景の様に見えた。
短くなった煙草揉み消し、玄関から靴を持ち込んでクローゼットの前で靴を履く。そして昨日用意したキャリーケースを持ってそのまま光り輝くクローゼットの中へと足を踏み入れた。
すると一刹那を挟んで目の前の景色が一変する。そこにあるのは昨日見たばかりの光景。一面が純白の部屋に、直線を描いて舞い降りる一筋の太陽。辺りに漂うのは爽やかな柑橘系の香りで、幾分か気分を晴れやかにしてくれる。
「ようこそ協定島へ」
そんな俺を出迎えてくれたのは、昨日とは違う蝙蝠の様な艷やかな漆黒の翼を持った、肌の白い、同じく濡羽色のロングヘアの女性。その瞳はまるで血の如く赤く、妖艶な魅力を醸し出していた。これはもしかしてヴァンパイアなのかと疑問を浮かべるが、取り敢えずは入国手続きをと思い、彼女に近付きつつ「ども」と短く挨拶を交えた。
……ん? ヴァンパイア? 昼間なのに活動しても大丈夫なの?
ジロジロと見ていた事が分かったのか、彼女は訝しげに表情を歪めて「私の顔に何か付いてますか?」とまるで問い質すかの様に尋ねて来た。そんな彼女が口を開く度に、まるで猛獣の様でいて純白で綺麗な尖った犬歯が口角からチラリと覗き見える。
「いや、えっと、貴女は、ヴァンパイア……ですか?」
俺が確認するかの様に尋ねると、彼女はきょとんとしつつ「はい、そうですが……」と尻すぼみになるように返事をした。
「その……地球での偏った知識になるのですが、ヴァンパイアって日光とかに弱いのではないのですか?」
俺が率直な疑問を言うと、彼女は一瞬ぽかんとなって唖然とするが、すぐにコロコロと可愛らしく笑い出す。
「確かに、そちらの世界の書き物などではそうですが、こちらの世界では違います」
彼女はそう言いつつ詳しい説明を始めた。
曰く日光に弱いというのは、身体能力が時間帯によって異なると言う事から来ているらしい。
ヴァンパイアは飽くまで魔の存在に近付いた人間で、魔の力が強まる夜の方が格段に身体能力が高くなるのが特徴となっている。その為、普通の人間レベルの身体能力しか無い昼間……。つまり日光に弱いのではないかという扱いになってしまった様だ。彼らは別に日光が苦手という訳でも無く、昼に起きて夜に寝るという生活を大体のヴァンパイアは送っている様だ。人によっては夜の方が身体能力が高い事を利用し、夜に肉体労働をこなして昼に寝ると言う生活を送っている者も居るそうだ。
また血を飲むという習性についてだが、日常的に飲む必要は無く、体力や身体能力の強化、もしくは怪我の治療を早めたい時に少量飲むだけであり、よくあるファンタジーの様に飲まなければ死んでしまうという訳でもなく、ヴァンパイアの中には血を飲む事自体が嫌いという者も居るそうだ。
更に、ヴァンパイア自体は不老であっても不死ではなく、普通に大怪我をすれば死ぬし、大蒜が駄目な訳でも十字架が嫌いな訳でもない。現に彼らの仲間の中には普通に宗教団体に加わる者もいる様で、寿命については人間よりは遥かに長いものの、それでも老衰はあり、いつまでも生き続ける事が出来るという訳ではないようだ。
そして銀や大蒜などの苦手な物等は飽くまで彼らに恐れを感じた人間達が後付けで作った設定的なものであって、実際には大体の事が無意味なのだそうだ。……因みに、よくありがちな"心臓に銀の杭を打ち込むと死ぬ"という設定に関してだが、彼女曰く、「銀がどうとか素材に関係なく、心臓に杭打ち込まれた段階で死ぬと思うんですけど……」との事。……たしかにそうだ。
他愛もない会話を交えた後に所持品の検査を済ませ、持っていた日本円を全て両替して預金を全額下ろし、ちょっとした富豪になった後に入国審査を行う。
特に時間を取られるという訳でもなく、先日と同じく腕に赤い刻印を刻み込んで建物を出たのだが、1つだけ想定外……いや、浮かれていて人の話をしっかりと聞いていなかった俺が悪いのだが、どうやら今回の旅行では人間領や魔族領には行けないという事だ。
と言うのもすっかり忘れていたが身分証明証となる銀のブレスレットを所持しておらず、発行までに2週間程掛かるという事もすっかり忘れていた。
よって出国不可となり、この数日間の日程が協定島のみに決定してしまったのだ。
思わぬ凡ミスでこれからどうしようかと耽りつつ外へ出ると、眩い光が燦々と照りつけた。一刹那を置いて明るさに慣れた目で空を見渡すと、そこには雲1つない真っ青な空が広がっている。そして建物を囲む様に造られた塀の向こう側には、まるで雪の如く輝く町並みと、所々白波の立つ真っ青な海が輝いて見えた。
その景色を眺めつつ、裏側である出口から表の方へと歩んで喫煙所にて一服。これから自由に行動出来るという楽しみと、何があるのか分からない不安に、ついつい笑みが溢れてしまう。
……傍から見たら何笑ってんだろコイツと不審に思われるが、致し方ない。
そのまま紫煙を味わいつつぼうっと呆けながら、目の前にある魔法陣を眺める。
色は4種類あり、赤はスイートキャロッツのある商業地区、緑が港のある生産地区、そして青色の居住地区と黄色の工業地区と、それぞれの魔法陣の外周に明記されている。
最後に大きく一度吸い、赤く燃える火種をもみ消して黄色い魔法陣に向かって歩みを進めた。