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クローゼットトラベラー  作者: モノクロ◎ココナッツ
第二部、第三章
43/46

常闇の翌日


 個室へと足を踏み入れる前にスリッパを脱ぎ、少し上がった位置にある敷居を跨いで中へと入る。

 中は何ともシンプルに畳と掘り炬燵(こたつ)のみの空間となっており、同じく和をコンセプトとしているのか、木の枠によってはめ殺しにされた丸い窓が一つ。


 その窓は()硝子(がらす)となっており外の景色は見えないのだが、庭と思われるガラスの向こう側からは虫の音と思われる鳴き声が聞こえる。

 りんりんと軽やかな音が聞こえる中にまるで刀を打つ時の様な甲高い音が混じり、けれども違和感なく溶け込んでいるのがまた、風情と言うか何というか。

 異音に感じるのかと思ったのだが、聞いている内に違和感などはとうに忘れ、対面に腰を落ち着けたファイスと共に、お品書きをペラリと捲りながらどんなメニューとなっているのかを話し合う。


 和な内装が故に異世界だという事も忘れそうになるのだが、ここは紛うこと無き異世界。一体どんな奇抜な料理が記載されているのかと、面白半分の恐怖半分で覚悟を決めていたのだが、どうも本当に純和食しか取り扱っていない様で、いつもお馴染みとも言えるであろう料理名にホッと胸を撫で下ろす。


 ……一体どんな物を想像していたのかと言うと、和食レストランと言いながらも本来の形から大きく逸れた形状や味で提供されているものであったり、日本食と言っておきながら中華であったりなどと、少しばかり国境が入り混じっている風なものを期待していたのだ。

 いや、まぁ、それを言ってしまうと、日本の魔改造文化も本場の物と大きくかけ離れているものは多いので、あまり声を大きくしては言えないだろう。……中華の定番メニューである青椒肉絲(チンジャオロース)でさえ、本来であればピーマンではなく青唐辛子を使うそうなのだから、もしかしたら他にも元祖とは違うものもあるのかもしれない。


 因みに、一度原典通りという訳ではないのだが、ピーマンではなく青唐辛子で青椒肉絲を作ったのだが、あまり辛くない個体だったのかとても美味しく平らげることが出来た。

 まぁ、そんな事はさておき。

 その予想以上のガチ加減というか、日本でも余り見ない……いや、見たとしても所謂高級料亭と言われる一部の老舗だけで、最近では余り見なくなったものが、文字列として目に飛び込んでくる。

 和食といえば御膳として殆ど固定されている事が多いと思うのだが、どうもここは違うらしく、主食を始め、主菜や副菜、はたまた汁物までもが選択可能で、少なくとも日本では見た事のない形式に、少しばかりワクワクしてしまう。


 その記載されているのは、主食では白米から始まり五穀米まで取り揃えてあり、主食は魚か肉、そして副菜としては野菜を使った料理の中から煮物や煮浸し等の選択ができる。

 これが美味しそうや、これがどんな料理なのかを彼女に説明しつつやいのやいのと話し合っていると、個室の引き戸がコンコンとノックされ、着物を羽織った男性がスススと音を立てずに扉を開く。


 彼は少し濃い臙脂(えんじ)色の着物を羽織っており、その黒髪はベリーショートでさっぱりと纏められている。彼は微かに笑みを浮かべつつ「失礼します」と言い、その場に立膝を着く。

 すると彼は手に持っていたお盆を自身の目の前に置き、食前酒だろうか? 小さめのガラスコップをテーブルの上においた。

 置かれた容器自体はどちらも同じものなのだが、どうも中身は異なっている様で、蛍光の如く鮮やかな黄色のそれと、赤に近い(だいだい)色のそれがコトリと小さく硬い音を立てて佇んだ。


果実酒だろうかとふと考えていると、彼はスッと小さく息を吸い込み「これは当館の裏で栽培されている果実のジュースです。ご賞味下さい」と一言、まるで水を流す様にスルスルと言葉を零した。

 次いで彼はスッと両手をグラスに添え、「右手のオレンジ色がオレンジジュースで、左手の黄色のものが蜜柑のジュースとなっております」と、それぞれに使われている果実についての説明をする。


 その説明を聞いた所で、一体どちらにしようかと対面に佇む彼女へと視線を向けると、彼女も同じ事を考えていた様で、示し合わせた訳でもないのに視線が互いにぶつかり合う。

 考える事が同じと彼女も感じたのか、少し顔を緩ませて「どっちにしますか?」と一つ尋ねてくる。

 自分としてはどちらも好きなので、ファイスに「好きな方を選んで良いよ」と言った所、少し怖ず怖ずとしつつ蜜柑の方へと手を伸ばして「じゃあこっちで……」と言いつつ手元へと引き寄せた。


 俺もオレンジジュースに手を伸ばして一口飲み込むと、爽やかな香りと蜜の様な甘さと柔らかな酸味が口内へと広がった。

 オレンジの果汁を飲んでいる筈なのだが、どうも強い甘さが故にどちらかと言うとリキュールを飲んでいるかの様な感覚になる。……いや、アルコールは入っていないのは風味がない事から明らかなのだが、どうもそう感じてしまう程に甘く感じてしまう。

 それは向かいに座る彼女も同じく思った様で、少しばかり驚いた面持ちのまま、手に持っているグラスをじっと眺めていた。


「……まるでお酒みたいですね」

「いや、まだ君は飲んだ事無いでしょ」


 彼女が俺と同じ感想を抱いたので、条件反射的にツッコミを入れた所、彼女はお茶目にも舌をペロリと出しつつウィンク一つ。

 ……あれ? なかったっけ? まぁいいや。

 ……いや、飲んだ事無いんだよね? そのお茶目なボケは偶々(たまたま)だよね?



………………

……………

…………

………

……



「有難うございました。またのご来店をお待ちしております」


 朝食を済ませて出発の準備を終えてチェックアウトを済ませて館を後にすると、背後よりそう言葉を掛けられる。

 本来であれば眩い朝日を浴びながら、さて、今日一日はどんな予定にしようかと楽しげに話し合う所なのだが、ここはディープダークで、常闇の街。


「……わかってはいましたけど、見事に夜ですね……」

「……いや、うん。仕方ないよ」


 夜に寝て朝に起きた筈なのに外へと出てみると未だに夜。……いや、これ結構頭バグりそうで怖い。

 本当に朝だよな? と思って街中の所々に設置されている時計を見るもどれも9時を示しており、もしかして夜の9時なのかと思ってデジタルの時計を見てみても、時刻はAMを指しているので紛う事なき朝。

 まるで極夜の世界にいるかの様に思えるのだが、一日中同じ暗さなので確実に極夜よりも暗いだろう。


「ねぇコースケさん、光の回廊に行ってみませんか?」


 宿を出たものの、行き当たりばったりな旅路故に目的地を定めている訳ではないので、これからどうしようかと思っていた所、並んで歩いていた彼女がどこから聞いてきたのか、観光名所と思われる場所を口にした。どうも名前から察するにこのディープダークの中では滅多に見られない光景なのだろうと一人納得。


 彼女はどうやらその場所を事前に調べているらしく、「こっちです!」と、まるでアミューズメントパークにでも来たかの様な無邪気さを漂わせながら、ガラガラとキャリーケースを引き摺ってゆく。


 辺りの様子はまだ一見すると猥雑な雰囲気を纏ったままなのだが、それでも歩き続ける内に段々とネオンが疎らとなり、段々と首を傷めそうな程の摩天楼が背丈を縮めてゆき、終いには一般的な平屋程の大きさとなる。


 かと言って相も変わらず辺りは暗いままなのかと言うと、流石にそれは生活に支障をきたすと思われたのか、太陽の代わりとは言ってはとても無理なのだが、頭上には眩いまでの光があり、燦々と何処か冷たさを孕んだ光を注いでいた。


 一体何処で調べたのか、彼女は得意げに指を立てつつ「ここは常闇が苦手な方々の為の居住区となっているんです!」と、自分の事ではないのにどこか誇らしげな所が可愛く感じてしまう。


 そんな彼女とこれからどうしようか、何処へ行こうか、どんなスケジュールで旅行しようかと話しながら案内されるがままになっていると、真っ直ぐに伸びている道の向こう側に、離れたここからでも伺える程に広大な、光のカーテンが横一面に広がっているのが伺える。

 その光景に圧巻されて気も(そぞ)ろになって呆気にとられていると、少し前を歩いていたファイスがこちらを振り向き、「目当ての場所はこちらです」と、ウキウキなのを抑えきれぬままに歩みを勧めてゆく。

 どうも片手にキャリーケースを引き摺っているのを忘れる程に楽しみなのがよく分かるのだが、その……なんだ? 現在進行系で引き摺られているそれが、激しく揺れながら彼女の後ろを追従しているのが気がかりで、今にも壊れてしまいそうにも思えてしまう。


 そんな彼女の連れられて住宅地の中央通りを歩く。

 住宅地の様相はまるで平和を体現したかの様に長閑で。けれども、人が疎らかというとそういう訳ではなく、家事の合間と思われる主婦の方々が井戸端会議をしていたり、家庭の庭に備え付けられた物干し竿にて衣服を干していたりと、本当に和やかな雰囲気が流れていた。

 またジェンダー問題と言うか、男はこうあるべきで女はこうあるべきという事が無い様で、家事をしているのが女性だけなく、男性が行っている家庭もあり、中にはまだ未就学の子供と共に楽しく家事を行っている所もあり、豪華絢爛とも言える常闇部分とは違う、暖かな心地良さとでも言うのだろう雰囲気が漂っていた。


 そのまま暫く横切る形で歩き続けると、段々とこの光と闇とを分ける境界が、まるで聳え立つ崖の如く現れ始める。

 ここで街の終わりなのかと思ったのだが、彼女の歩む先はその壁から逸れることはない。


 彼女の言った光の回廊と言うのは何処なのだろうかとふと考えながらも彼女の後を追うと、目の前にまるで獣道をただ広くしただけの様な、荒れ果てた……とまではいかないものの、そこそこ草花が生い茂った道が現れた。

 その道は暗闇に包まれているせいもあってか見るからに薄気味悪く感じてしまう。


 その手前で入るのを一旦躊躇してしまうものの、その眼の前で彼女は振り返り、「どうしたんですか?」と不思議そうな笑みを浮かべつつも、そのまま中へと入ってゆく。

その姿にある種の不気味さと言うか、妖艶さを感じたのだが、入らない事には何も始まらないので、年甲斐もなく湧き出た恐怖心を無視して獣道の様に荒れた道に足を踏み入れる。

 視界が暗闇へと包まれるのだが、それは一刹那の事で、すぐさま光が真正面に見える。

 その光はまるで木漏れ日の如く半楕円を(かたど)っていて、ファイスの後ろ姿が影絵のシルエットを模している。


 ……それだけでまるで絵画のワンシーンの様で、つい見惚れて立ち止まってしまう。当然、その様子を見たファイスは黒い影の姿のまま首を傾げて「どうしたんですか?」と一言。


 いや、何でも無いよと答えて側に近づくと、それに伴って光の向こう側が段々と明らかになってゆく。


 その先に見えるのは、まるで"聖域"という言葉がぴったりな風景。

 そこは扇状に開かれており、奥に行くに従って広がりを見せており、奥の中心に座すのは、まるでセレナイトのみで象られたかの様に純白な、シンプルなドレスに身を包んだ女性の石像が佇んでおり、その手前は、まるで彼女を祝福しているかの様に様々な花々が咲き誇っており、足の踏み場がないと言える程だ。


 そして上からは筋を伴った光が差し込み、幾分か漂う埃も相まってか、厳かな雰囲気を醸し出している。


「……綺麗ですね」

「……ホントにね」


 だが互いに交わすのは、そんな短い言葉。

 ふと彼女がふふっと微笑ましそうな声を漏らしたので、その方向に目をやると、そこには狼や兎、はたまた猫や鳥など、様々な動物達が一時の休息を取るためか、そこらじゅうに寛いでいた。


 だがその光景を見たファイスはと言うと、その動物達を見た途端にピシッと固まってしまったので、どうしたのかと思って彼女の表情を覗き込んだ所、その表情は一転して恐怖心と思えるそれで満たされていた。


 そんな彼女にどうしたのかと尋ねた所、少し震えながら「……あれ、魔獣です……」と、衝撃の事実を口にした。

 当然ながら今まで魔獣というものを見てこなかったせいもあってかあんまり実感が湧かないのだが、兎の額をよく見るとなだらかながらも小さな角が生えていたり、嘴が異様に鋭い小鳥であったりと、普通ではないなと思う様な動物がそこらかしこに寛いでいる。


 あくまで地球でのイメージだと獰猛でよく討伐されているイメージがあるのだが、ここはどうなのかと思ったのだが、どうも隣の彼女の反応からしてその認識にズレはないようなのだ。

 だが目の前で寛いでいる魔獣達を見ても、どうもそういう風な感じには見えない。


そんな彼女の様子を察したのかどうかは分からないが、狼型の……いや、魔獣か? それとも普通の狼か? どちらかは分からないが、どちらにせよ、通常であっても危険とされる狼に気付かれたのはヤバい。

 すると狼はこちらに気付いたのか、顔をこちらへと向けてピクリと耳を動かし、途端に起き上がってこちらへと向かって走り出してくる。


 当然その姿にファイスは驚きつつもその場から離れようと踵を返して走り出そうとした。だがそれに俺は反応できず、この場から離れようとしていた彼女に目を向けたのだが、そんな彼女の目線は俺の方へと向けられており、「コースケさん! 危ない!」という、悲痛な叫び声が聞こえる。

 その言葉に脊髄反射の如く眼前へと目を向けると、そこには大口を開け、こちらへと飛びついて来ている狼の姿が視界いっぱいに広がっていてもう時既に遅し。

 このままバクりと噛みつかれて激痛が走るのかと思って咄嗟に目を瞑るのだが、一刹那の間を挟んで受けたのは結構重めの衝撃のみで、間違っても痛みなどは感じない。


 そのまま体を保護する為に体を丸めたのだが、それでも引っ掻かれたり噛みつかれる事はなく。

 寧ろ耳元でスンスンと鼻息を感じつつ、その耳をベロンと舐められる感覚。

 思わずビクリと体を跳ね上げて狼を見た所、そこにあったのはハッハッハとだらしなく口を開きながら尻尾を振っている姿があった。

 その様子に思わず「は?」と唖然とした所、近くに立っていた彼女も同じく「は?」と、目の前にて繰り広げられた光景に唖然としていた。


 彼女の反応からしてこの狼は所謂魔獣というものなのだろうが、どうも俺のイメージとは大分乖離している。

 自分自身でも一体何をしているのかはわからなかったのだが、頭を守ろうと覆っていた両腕を解きほぐして狼へと手を伸ばした所、狼は撫でてくれるのかと思ったのか、甘い鳴き声を発しながら俺の手に頭を擦り付けてくる。


 一体目の前で何が起きているのか理解できていないまま、狼の頭を唖然としつつもぎこちなく撫で回していると、何やら隣から驚いた声の後に笑い声が響き渡る。

 その声の主は言わずもがなファイスで、視線を向けた所、それはもう()んず(ほぐ)れつと言った言葉がぴったりな程に、一体何処に居たんだと言わんばかりな狼達が彼女の周りに群がっていた。

 一見遠目から見ると、どう見ても転んだ所を襲われて血肉を(ついば)まれているようにしか見えないのだが、響き渡るのは(うめ)き声や悲鳴ではなく、我慢ならないと今にも叫びそうな程の笑い声。


 その姿? いや、彼女の姿は群がる狼達の姿によって一切見えないのだが、その塊を見ながら唖然としていると、俺に撫でられていた狼が怒鳴っているかの様に思える声色で一つ吠える。


 するとその一喝を聞いた狼達は、正に蜘蛛の子を散らしたかの様にそろそろとその場から離れて行き、そこらへんで自由に寛ぎ始める。

 そしてその塊の中に埋もれていたファイスはと言うと、いつもの整った、まるで人形の様な可愛さは何処へやら。

 きっちりと整えられた筈の濡羽色の髪はまるで暴風に曝された翼の様に乱れ、衣服も少しばかり乱れていた。

 そんな彼女の傍……厳密に言うのであれば彼女の持っていたキャリーケースの上には、いつの間にか狼が一匹、まるでここが我が家だと言わんばかりに寝そべっており、緊迫感のきの字すらも感じない。


 ぱっと見ボロボロの様になってしまった彼女は現状を把握する為かぱっと辺りを見回した所で、その自身のキャリーバッグに横たわる狼を見つける。


 ほんの数秒前の彼女であれば怯えていたであろうその姿は、今しがた魔獣の狼達に寄って(たか)って滅茶苦茶にされたせいもあってか恐怖心は何処かへと飛んでしまった様で。

 まるで自身のペットに対して呼びかける様にポンポンと腹部辺りを叩きつつ、「ほら、よけて頂戴」と、少し疲れが滲んでいる口調で呼びかかけた。


 するとどうだろうか。

 その狼は彼女の言葉を理解しているのか、ふと頭を上げて彼女の顔をじっと見た後、短く一つ鳴きつつキャリーケースから降りてその傍にまた(うずくま)って寝始めた。

 安全なのはいい事なのだが、どうも魔獣というものに対しての認識というか、イメージと言うかがこの短時間で瓦解してゆく感覚に襲われる。


 だが彼女の最初の怯えからして、全ての魔獣がこんなにも人懐っこいという訳では無いのが、今の子の現状からして意外すぎる程だ。

 まぁ、紛う事無きファンタジー世界という事もあるのだろうが、そこでふと考えたのだが、地球上であっても狼や熊などの動物は獰猛で危険だと認識されているので、ぶっちゃけてしまうと魔獣云々はあんまり関係ないのかなと思ってしまう。


 とそんな事を考えながら唖然としていると、ふと上体を起こしていた眼の前を遮る様に一匹の狼が跨ぐ……と思ったのだが、半身を跨いだ所でそのまま俺の腰辺りで腰を落ち着けたので、一体どうしようかと、色々な意味で固まってしまう。その体毛に包まれた様相から、もこもことまでは行かないものの、柔らかいのだろうなと思っていたのだが、その期待はものの見事に裏切られる。


 簡単に言うのであれば鋼の様に硬い筋肉の塊という印象で、まるで闘犬の様だと思ってしまうものの、跨ぎつつこちらを見上げてクンクンと鼻を動かしている姿はどう見ても人懐っこい犬そのもので、感覚としてはちょっと筋肉質なレトリバーを相手にしているかの様。


 そんな甘えん坊な一匹を撫でながら、ふと、その奥に佇む女神像……だろうか? 当然ながらこの世界の出身という訳ではないので、ここに佇んでいる彼女が一体何をしたのかはわからない。

 だが、未だ綺麗なままを維持されている所を鑑みるに、相当良い行いをしたのだろうと、それだけでも伺えてしまう。


「……この方は一体、どんな事をしたんですかね……」


 その同じ様な事を、いつの間にやら隣に佇んでいたファイスがボソリと呟いた。……スンと澄ませた表情をしているのだが、どうも先程の襲撃の名残が節々に残っており、薄っすらと服に狼の足跡がついていたり、体毛がついていたり、一所懸命に手で()いて整えたのだろうが、少しばかり跳ねていたり流れに逆らっている所も少しばかり見受けられた。

 ……その様子が少しばかり漫画風と言うか、アニメ風と言うか、ちょっとギャグよりな様相に見えてしまったのは内緒だ。


 とまぁ、そんな事を考えつつ彼女から目線を逸して像を眺めると、そのポッカリと空いた青空の窓から燦々と輝く暖かな光が差し込み、何とも幻想的でいて神々しい雰囲気が漂っている。

 だがその神々しさには厳かな雰囲気は含まれておらず、まるで実家の様な、何処か懐かしい暖かさすらも感じている。


 そんなだからだろうか?

 今しがた俺を跨いでハッハッと少しばかり荒々しさを感じる鼻息はいつの間にか聞こえなくなり、代わりに体を横切る様に跨いでいた筈の狼は安らかな寝息を立てて俺の太腿を枕代わりにしている。


 これでは狼ではなく犬ではないかと思いつつ、その太腿に乗せられた頭を緩やかに撫でる。

 そんな緩やかな時間を暫し堪能していると他の観光客がこの場に訪れたので、それをいい機会と思いこの場を後にしようとする。

 だがどうだろうか。


 先程までやれ魔獣だとどうだと騒いでいた彼女はと言うと、今度は泉の近くにて寛いでいた、大型犬程の大きさのある兎を抱きかかえながら、芝生に寝転がって寝息を立てていた。

 その抱き抱えられている兎もまた満更ではないのか、目を細め……いや、閉じてるな。とにかく彼女に抱き抱えられたままとなっている。


 そのまるで実家に戻ってきた時の様な平和にずっと入り浸っていたいのだが、そういう訳にもゆかない。

 ……少なくとも、この俺の足に頭を乗っけて爆睡しようとしている狼が完全に旅立ってしまう前に抜け出さなければ。


 そう思って狼の背中を軽くポンポンと叩いて起きるのを催促するのだが、当の本人はと言うと小さく甘える様な一鳴きを零しただけ。

 ……こちらを見る所か微動だにもしないので、もうこのまま次に起きるまで梃子でも動かないつもりなのかと思ってしまう。

 ……いや、それは流石に困る。

 具体的に言うのであれば今夜の宿が取れなくなるので必然的に野宿、からの風邪を引くという悪い意味での役満を頂いてしまうのでそれはちょっと勘弁したい所。


「ほら、起きな。もうそろそろ帰らせてくれ」


 なので更に強めに狼を揺すった所、まるで懇願するかの様な甘え声を出したので、罪悪感が湧き上がって一瞬躊躇してしまうのだが、何とか押し殺して頭を退()けさせる。


 そこで一悶着過ぎ去ったと一安心するものの、その視界に再び入った、巨大な兎とそれに抱きついたまま夢の中へと旅立っているファイスの姿。


 ……いや、可愛いよ? 彼女自身も兎な上、その抱き着いているのも巨大な兎なので、ダブルで可愛いので尚更罪悪感が募る。


 まだ一仕事残っているんだなぁ……と思うと、少しばかり憂鬱に感じてしまう。



………………

……………

…………

………

……



 それから暫くした後の事。深い眠りについていた彼女と兎を罪悪感に苛まれながらも何とか叩き起こし、路線船へと再度乗り込む。

 向かうは勿論アルテとは真逆の内陸方面にあるフォリスの方角。


 船に乗り込んで"どんぶらこ"と暗闇の中を突き進む。

 ディープダークの街に進む時には気付かなかったのだが、その船頭にはまるで幽霊船よろしくランタンが飾られており、ぼんやり柔らかく辺りを照らしている。

 その明かりをただぼんやりと眺めていると、横より「……その、ごめんなさい」という、しおらしさを孕んだ声が聞こえる。


 ここで「いや気にしなくてもいいよ」だなんて言えたなら、「あら素敵な雰囲気イケメンだわ」だなんて言えると思うのだが、今回ばかりは少しばかり難しい。

 とは言ったものの、別に彼女に対して苛立っている訳ではない。……というのも、こんなに時間が遅れてしまったのも起こし方がちょっと甘かった所為もある。


 具体的に何をしたのかというと、嬉しそうに寝ている彼女の頬を突いたり、彼女と同じくその巨大な兎に抱き着いて頬擦りしたりと、他人の事言えねぇじゃねぇか! と言わんばかりな事をしているので、無言にて返答とする。


 そんな俺の気を知ってか知らぬか、その無言を怒りと感じたのか、見上げる視線に潤いを帯び始めていた。

 勿論、そんな怒る感情などは一切なく。けれどもそんな彼女に悪戯したい気持ちは湧き上がるのだが、また以前の様に機嫌を損ねてしまうのは避けたい所。


 そのままどうしようかと考えていると、突如船頭に掲げられているランタンの灯りがふわりと消え、辺りが完全な暗闇に包まれる。

 途端、眼の前にいるファイスが俺の体に抱き着きつつ小さな悲鳴を上げたと思うのだが、如何せん、暗闇に包まれている為、抱き着かれている感覚のみが伝わる。


 柔らかな甘い香りに、女性特有の柔らかさとでも言うのだろうか。まるで小動物を抱きしめている様な感覚に陥る。


 このまま時間が過ぎないで欲しいなと思ったのだが、そうは問屋が卸さない様で辺りにポツポツと光が灯り始める。

 その光はディープダークへと立ち入った際のそれよりも眩く、天井のみならず壁面にも自生している為か、その輝きは新月の夜一面に咲き誇る星々の如し。


 その光はまるで朝日が昇り始めるほんの僅かな、マジックアワーを彷彿とさせる程の明るさ。

 その薄暮れの様な光の中、ふと自分に抱き着いているファイスへと目線を下ろすと、その潤んだ瞳に映るのは天井の星々。

 まさかアニメでしか見られない様な反射に、思わず無言のまま見入ってしまう。


 そのまま彼女の唇へと自身の唇を重ねる――と、イケメンであり尚且つ人の心に潜り込む事が得意であるならば容易いのであろうが、どうも現実とはうまく行かないもので、その両方を持ち合わせていない俺は、その年不相応な大人びた表情の一部である彼女の両頬を、ムニっと左右から抑えた所、大人びた真顔な目元と、まるでアヒルの様な口元に、思わず笑いが込み上げる。


 最初は賢明に感情を押し殺していたのだが、その上下で異なる表情に、思わず牙城の如く固く維持していた真顔が、まるで攻城兵器による攻撃を受けたかの様に、ボロボロと崩れてしまう。


 彼女も最初は一体何をされたのか理解が追いついていなかったのか、俺に成されるがままだったのだが、表情を崩さぬまま急激に顔が赤く染まってゆく。……このマジックアワー時を維持したままだというのに分かる程にだ。

 ……いや、つい出来心とはいえ、本当に申し訳ない。

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