スイートキャロッツ
城の門は開け放たれてから長い間動かしていないのだろう。鈍く黒く光る鉄の門は所々塗装が割れて錆が浮いており、深緑の蔦が付き添う様にスルスルと巻き付いている。
その重厚な門の下には寄り添うかの様に鮮やかな紫を浮かべるアイリスがぽつぽつと疎らに咲き誇っており、よく来たねと言わんばかりにちょこんと佇んでいた。
重厚な門の中に広がる庭園は宙に浮かぶ明かりによって淡く照らされており、まるで絨毯の様に咲き誇っている数多の紫色のアイリスが、海に浮かぶ小島の様にライトアップされていた。
「入り口はこっちだよー」
彼女は笑みを浮かべつつ前を歩き出した。
夜中の厳かに佇む城ヘと伸びる白い石畳は、暗闇を導く標の如く真っ直ぐと伸び、内と外を繋いでいた。
「いい時期に来れたな」なんて思わずぼそりと小さく呟いたのだが、どうも前を歩く彼女には聞こえていたらしく、肩越しにクスッと短く笑い声が聞こえた。
「このアイリスを見たくて来る人も多いんだよー? ところで、名前を教えてもらっていいかな? ……これだけペラペラ話しておいて今更って感じだけど」
彼女は楽しげに言いつつ、こっちを振り向いて後ろ向きに歩く。
「上山耕助。……君は?」
「コースケって名前ね、わかった。私はマリア=クラブル。こっちこそよろしくね」
後ろ向きに歩いていた彼女ことマリアは立ち止まってスッと右手を差し出す。例え今日1日きりの付き合いだとしても、この様に親しくなろうとしてくるのはまさに人懐っこい彼女ならではなのだろう。俺も彼女の手を掴むと思わず笑みが溢れた。
先程までは極めて残念な理由で修羅場みたいな雰囲気になったりしたと言うのに、今の今まで互いの名前を知らなかったという状況に、少し笑いが込み上げてしまう。
「立ち話も難だし、さっさと受付済ませちゃおうよ。夕飯は残り物で良ければ出せると思うけど、どうする?」
彼女から有り難いお誘いを受けたと同時に、小気味いい返事が俺の腹から聞こえた。……本当に高性能で頭の良い腹時計ですこと。かと言って、別に恥ずかしい気持ちもない。いつも通りの時間だと思えばそろそろかと納得できてしまう。
基本的に食事は夜のみという、体に対して全く優しくない生活リズムを刻んているお陰で、体がそれに慣れてしまい、夜にしか空腹にならない体質になってしまったのだ。
……いや、体に悪いのは分かっているんだけども、朝は少しでも長く寝ていたいし、実際眠くて起きられないんだよ……。
「……よく体は正直だって言うけど、本当にそうなんだね……」
「気遣いって言葉知ってる? それを気遣いって言わない事はわかる?」
貶めるって言うんだよ? わかっている?
そんな俺を尻目に彼女は口元を手で覆い、あからさまに目線を逸らして肩を震わせた。
「まぁまぁ、そんな日もあるよ」
マリアは笑いを抑えきれない様子で満面の笑みを浮かべつつ、俺の背後に回って背中を押し始めた。
「1名様ご来店でぇ~っす!」
ドアを開けての開口一番がそれである。誰の声だとかは最早聞くまでもなく、俺を背後から押しているマリアのもの。
ホテルの内装は質素で余計な装飾などは施されておらず、柱などに模様や細かな細工が施されているのみである。床は大理石……だろうか? 正方形に整形された白色多めのゼブラマーブルと黒色多めのゼブラマーブルが交互に埋め込まれ、市松模様を思い出させてくれる。
真正面には受付と思われる大きな半円状のカウンターがあり、黒色の中に僅かに薄い茶色が差している木材が使用されている。一見すると何処が繋ぎ目なのかよくわからない程に精密に作られており、技術力が高い事を物語っていた。
受付には背丈に差がある二人の女性が立っており、小柄な方の女性……いや、女の子? は黒髪のショートボブで前髪はぱっつりと切り揃えられ、その赤い目が黒に映えている。
そしてもう一人はアプリコットオレンジの髪をセミロング程に伸ばし、毛先をくるりと内側に巻いていり、その瞳は鮮やかなライトブラウン。
前髪は左の端から右の方へと髪を全て流しており、シミひとつ無い綺麗な額が顕になっている。
二人とも黒のスーツを纏い、胸には鮮やかな紫色のネクタイ。その頭上にはピンと立った髪色と同色の兎耳があり、一瞬バニーガールの付属品か何かと思ってしまった。
受付カウンターの左右には中央の受付を覆い囲む様にカーブを描いた階段があり、滑り止めの役割も担っているのか、濃い紫色のカーペットが上に敷かれている。
その左右に分かれる階段の更に奥には、古びた、けれども清潔に保たれている黒い扉があり、それぞれに金色の文字で01、02と番号が振られている。
……多分だが、2階には03と書かれた扉があるのだろうが、ここからは伺い知る事ができない。
「こんばんは、ようこそスイートキャロッツへ。……もぉマリア、ここは大衆居酒屋じゃないんだからそう言う事を言わないの」
するとアプリコットオレンジの髪の女性が頬を膨らませる仕草をしつつ、腰に手を当てる。するとマリアは俺の背後を離れ、その女性の前へと駆け寄ってはにかんだ笑みを浮かべた。
「へっへへー……。そうだ、料理の余りってある? この人、今日ここに来たばっかりで夕飯食べてないの」
マリアが振り返らずにこちらを指差し……こら、人を指差すんじゃありません。
「宿泊キャンセルは入っていないけど、賄い分も合わせた上で1名分は余剰に作ってあるらしいから、多分大丈夫」
すると小柄なショートボブの女の子がぽそりと呟いた。その表情は無表情だが、言葉に棘がみえない所を見ると、少なくとも嫌われている訳では無く、これが彼女の素なのだろう。
……いや、初見で嫌われるってどんな見た目してるんだよ。
「食事は部屋までお持ち致しますので、それでも宜しいでしょうか。食堂は人数分しかテーブルを用意しておりませんので、手配できない状態となっております」
続けてショートボブの彼女が申し訳なさそうに言葉を続けた。
まぁ、確かにもう準備は終わっていて、下手すると他の宿泊客も入り始めているだろう。そうなるとその中で新しく座席を用意するとなると埃が舞う上、雑音が立つので他の宿泊客からはいい顔をされないだろう。
……少なくとも俺はそんな事されたら嫌な気分になる。
「全く構いません。……何なら自分で取りに行きましょうか?」
予約を入れずに飛び込むように入ってきた手前、そこまでしてもらうのも悪いかと思ってそう提案するが、その子は「い、いえ!」と慌てて首を振って目の前で手をワタワタさせる。
「そこまでしていただく必要はありません! 今まで飛び入りで宿泊されたお客様がいらっしゃらなかったので、そこを考慮していなかったこちらの不手際です!」
……この子ホンっトええ子や……。どこぞの毒舌娘とは大違いだ……。なんて思いつつアプリコットオレンジの髪の女性と楽しげに話しているマリアに目線を向けると、その視線に気づいたのかむっとした顔つきでこちらを振り向いて「……何見てんのよ」と不満げに言葉を返してきた。
おいそういう所やぞお前!
「部屋の手続きが完了致しました。お部屋は1号棟の112号室をご用意させていただきました。代金は70ペイスですが、後払いと先払い、どちらに致しますか?」
すると先程までマリアとは親しげに話していた女性がにこりと笑みを浮かべながら子首を傾げた。
……んー、あんまり後に支払いとかはしたくないんだよなー。心地良いまま出ていきたい。
……となると答えは1つで、財布から100ペイス紙幣を取り出し、「先払いでお願いします」と言いつつ彼女に手渡す
した。すると彼女は手元をゴソゴソと動かし薄く青みがかった硬貨を3枚取り出してお釣りとして差し出してきた。
「ではお釣りの30ペイスです。……どうしました?」
彼女から受け取った硬貨をじっと見ていると、それを不審に思った彼女が訝しげに声をかけてきた。
「あぁいや、硬貨ってこうなっているんだなぁ……って」
「はい?」
素直に感想を述べると、"何言ってんだコイツ"と言わんばかりに表情を歪ませた。……確かに言葉だけ聞くと間違いなく電波入ってそうな奴だわ。……それに関してどう言い訳しようかと考えていると、マリアが「あー、そうだよね―」と一人納得した風に反応を示す。
「この人……コースケはね、"チキュウ"からのお客さんでね、訳あって今日中に帰れなくなったらしくて、それでたまたま会った私が呼んだんだー」
マリアがまた俺の背後に移動し、肩に両手を乗せつつ肩から頭を突き出すようにして説明した。
そぉーゆー安易なボディタッチが異性をドギマギさせるんですよ分かってますか!? 迂闊に触らないで下さい心拍数がヤバいです!
「あぁ、なるほど。そう言う事ですか」
マリアの説明で理解した彼女は、にこりと笑みを浮かべて手元に用意してあっただろう鍵を「はい、どうぞ」と言いつつ手渡してくれた。
受け取ったものは古いアンティークの鍵。よく海外の童話で出てくるような、古ぼけた南京錠に使われるようなそれだった。
だがまるで新品の様に金色に煌めいており、持ち手の部分はスペードをモチーフにした様なデザインとなっていた。
アクセントとして宝石の様にカットされた硝子が埋め込まれており、確かに綺麗ではあるものの、セキュリティーとしては如何なものかと野暮な感想を抱いてしまう。なまじ地球ではディンプルキーなどが主流となりつつあるので、そういう事を考えてしまうのは致し方ないだろうと思う。
まぁ、仮に盗みに入られたとしても、盗られて困る物は常時携帯しているので、ぶっちゃけ言うと構わないといえば構わないのだが。
そこでふと裏面を見ると、"112"と部屋番号が削り込まれている事に気付く。
「鍵そのものは古いものですが、本体は飽くまで飾りで、部屋の認証は魔法によって行います。防犯については問題ありませんよ」
考えている事が顔に出ていたのかショートボブの子が補足をしてくれる。そして続ける様に「では、こちらへどうぞ」と言い、カウンター右奥の天板をゆっくりと跳ね上げて中から出てくる。
カウンター越しでは見えなかったが、彼女は黒いスラックスと同色のローファーを履いており、その華奢な出で立ちと相まって一生懸命背伸びして大人ぶっている女の子に見える。
当然俺はその後ろをついて歩くのだが、歩く度に彼女の耳がピョコピョコ動いていて、思わず目を奪われてしまう。
「こちらへ」
彼女は"01"と書かれた黒い扉のドアレバーに手をかけて押し開け、廊下へと出る様に促した。
その先へと続く廊下もエントランスと同じ様なデザインをしており、白い壁と天井、そして床に敷き詰められた市松模様の大理石によるゼブラマーブルが奥まで続いている。そして客室である黒いドアが左右で向かい合わせになりつつ奥へと続いており、その光景がまるでお伽噺の中の建物の中にいるような感覚にさせてくれた。
だが一番はというと、自分の先を歩く彼女のピョコピョコ揺れる耳である。何処を見ていれば良いか分からず彼女の耳を見ているのだが、これまた存外に楽しいもので、先日まで仕事によって荒んでいた精神が癒やされてゆくのがわかる。
「……あの、どうしかしましたか?」
その視線を感じたのか、彼女は一旦立ち止まりこちらを振り向いた。表情には少しばかり不安気な色が浮かび、自分が何かミスをしたのかと怯えている様にも思えた。
「あぁいや、ピョコピョコ揺れる耳が可愛いなーって思いまして。自分の住む地球には人間以外の人が居ないから珍しいんですよ」
「はぁ、そ、そうですか……ありがとうございます……」
彼女はそう素っ気ない態度で返事をしつつも、その顔は仄かに赤らんでいた。……何この子可愛すぎない? ……何だろう、普段素っ気ない態度の子が時々見せる初心な反応というのだろうか。とにかくそれに近い。
そして心拍数が早まった事で俺の死期も近い。
彼女は俯いて少ししなったように傾く耳を撫でる様に触った。そして幾らか歩みを進めた後にハッとした様に体をビクンと震わせた。
部屋を通り過ぎる所だったのか、「おっ、お部屋はこちらです」と焦った様に言いつつプイっと振り返って案内を続けた。
「と、到着致しました。ここがお客様のお部屋です」
彼女が立ち止まって振り返ったのだが、平然を装っていつつもその顔色は未だに赤いままで、視線だけを忙しなく逸らしている。それでも尚落ち着かないのか、後ろで手をもじもじさせている。
……なんだろうこの罪悪感。いや背徳感かな? こんな幼気な子を恥ずかしそうにさせているとか、地球だったら間違いなくお縄な事態が連発である。
その案内された部屋の扉には、受け取った鍵と同じ"112"の表記が金色で施されており、ドアレバーハンドルもまた金色に統一されている。
「JPSカラーじゃん」
そう。俺が愛用しているタバコであり、あのロータス78のカラーリングにそっくりなのだ。
当然だが隣に佇んでいる彼女にそれが分かる訳はなく、小首を傾げて若干怪訝な表情を浮かべて「じぇーぴーえす?」と拙い言葉で呟いていた。やだ何この子可愛い。
だが彼女はすぐにその場の空気を変えるように、コホンと1つ咳払いをする。
「……では、宿泊に関する諸注意です。この鍵は鍵穴に差し込むだけでロックの解除がされます。回す必要はありませんのでご注意ください。ロック解除は音と鍵の装飾の変化によってお知らせいたしますので、10秒以内にドアレバーの操作をお願いいたします」
彼女はそう言いつつ、ドアレバーハンドルの上に開いている鍵穴を指差した。
……ほうほう、そこに差し込むだけで良いのね。
「そしてこのドアは自動でロックが掛かるようになっておりますので、外出される際は必ず鍵を携帯、若しくはフロントにお預け下さい。また、キーを紛失されますとキー再発行の料金が発生致しますので、紛失しない様にご注意ください。」
彼女はそこまで言うと、一区切りをつけて俺の胸元を見る。えっ、やだ私の胸が見られてる? いやん見ないでー。
「見たところお客様は既に銀行口座のドッグタグをお持ちですので、登録されている生体情報を利用してお客様の照合を行います。……ここまでで何かご不明な点はございますか?」
……まぁ、だろうなと思ったよ。いや、仮に胸を見られたとしてもどうしたんだろう、何か汚れているのかな? って思うだけだけどね。
……こんなふざけた事ばっか考えたり発言したりするせいで、「何か胡散臭い」とか「プライベートは一切信用できない」、「まるで同性の友達みたいだね」だとか言われるんだよ。……こんちくしょう!
「いえ、ありません。……とは言っても、この後夕飯食べて寝るだけなんで、失くしたりしないと思います。本来なら晩酌と行きたい所ですけど、コンビニが近くにある訳でもないですし……」
「……こん……びに?」
コンビニという言葉に彼女が首を傾げる。まぁ、ですよねーって感じだ。確かに日本よりも長閑で自然に溢れていると感じたが、一方で利便性などは日本、強いては地球よりも劣っているようにも思えた。
……劣っていると言うのは語弊があるかな? 優劣と言うより、何に重きを置き、その代わりに何を軽くするのかの違いだろう。言うなれば地球、更には日本の都会と田舎の違いだろうか。
確かに都会では色々な物が流れて手に入らない"モノ"はないが、真に心休まる場所はないように思える。逆に田舎などはその逆で、手に入るものは少し遠出をしなければならないが、心休まる自然や、自然ならではの体験が得られる。
早い話が一長一短なので、よく都会がとか、田舎がとか言うのは間違いで、それぞれに適した事柄があるのだと思う。
「……よくわかりませんが、バーで良いならこのホテルの、道を挟んだ斜向かいにありますよ?」
ほう、バーとな。最近は居酒屋に行く事自体があんまりなく、自宅でレシピもクソもあったもんじゃないモノばかり飲んでいたから、たまにはしっかりとしたものも飲みたい。
1人で宅飲みって段々感覚が狂ってくるんだよね。ベロンベロンに酔っ払ってきて1:1のジンフィズやカルーアミルクを作ったりして、大体3杯くらいで泥酔ギリギリまで行ってしまう。
そこで財布を取り出して中をチラと伺う。……バーに行くには少し寂しい気もするが、いざとなったら一時的にツケにして預金からすぐに引っ張り出しても良いだろうと思える、可もなく不可もなくな金額が入っていた。
……考えてからふと思ったけど、ツケって出来るのかな? と言うか、ツケって言う考え方があるのかすら怪しい。
「ここに宿泊されるお客様もよくご利用されるのでその感想を聞くことがあるのですが、悪い評判はありません。当館としてもパーティーなどの際にはお店をお弟子さんに任せて出張をして下さるお得意様でもありますし……。当館の料理長もバーのマスターととても仲が良く、当館の新メニューのお披露目などは試作としてこのバーで行っているそうです」
「んー、じゃあ夕飯食べて落ち着いたら出かけてみます」
彼女の言葉に興味が沸き、今から何だかわくわくとしてきた。
とりあえず鍵を鍵穴に差し込むと、少しのラグを挟んでカウベルのような音が鳴り、鍵についている透明なガラスが緑色に光る。
それを確認して扉を開けるが、中を支配するのは暗闇のみ。あれ? と一瞬思ったが、ほんの少しの間を置いた後に室内にボンヤリと明かりが灯り始める。
だが完全に明るくなる訳ではなく、少し仄暗く、まるで間接照明で部屋の中を照らしているかのような明るさに留まった。
「……なんか暗くないですか? 大丈夫ですか?」
俺は少し不安になって後ろで待機している彼女に問いかけるが、彼女は「はい」と返事をして後を続けた。
「夜間につきましてはこの程度の暗さになるように設定されております。とは言っても室内にある操作盤での調整が可能なので、そちらでの調整を行ってください」
彼女はそう言いつつ中へと足を踏み入れた。
部屋の構造としては、入ったすぐ左の壁に扉が2つ並び、短い短い廊下を抜けた先に広めの部屋がある、まるでアパートの1Kに似た配置。
部屋の右奥には少し大きめなベッドが壁に沿って配置され、その枕元の付近には小物を置く為と思われるサイドテーブルがあり、読書用だろうと思われるライトスタンドがちょこんと佇んでいる。
対する反対側の隅には、L字型に作られたカウンターの様なテーブルがあり、合成皮革で作られているだろうリクライニングチェアーが下に差し込まれる形で収まっていた。
そしてその壁には、なんとも珍しい壁掛け型の大きなテレビが激しく文明を主張していた。……いや、壁掛け型のテレビが珍しいのではなく、テレビ"そのものの構造が"珍しい。と言うのも、よく見ると壁に釘や何かで引っかかっているのではなく、少し壁から離れて浮いているのだ。何このファンタジー世界現象。
しかもテレビのメーカーもこの国のもので、見た事も聞いたこともない名前が刻まれている。なんて書いているかは魔法のお陰で分かるのだが、どうも発音ができない。……無理やり発音しようと思えば出来るけれども、やったら文字化けみたいな感じになりそうだ。
内装は暖色系をベースとしており、天井は外から見えた通りのオレンジ色。床にはダークブラウンのマットが敷かれ、壁紙はまるで床と天井を繋ぐように少し濃いめのベージュ色をしている。
リクライニングチェアーやベッドの枠組みも床の色に合わせて同色にしてある一方、枕や掛布団は壁と同じく濃いベージュ色で揃えられており、シンプルで目の疲れにくい配色にしているかの様に思える。
部屋の中央に佇んでいる彼女とは違ってまだ部屋の入り口付近にいる。入口付近でざっと内装を確認した後、すぐ左に並んでいる扉の中を確認する事にした。
1つ目の扉の中には洋式のトイレが備わっており、床は廊下やエントランスと同じくマーブルゼブラの大理石。一方で壁と天井には染み1つない白い壁紙が使われている上、照明も部屋とは違って明るい物を使用しているためか、"清潔感"という印象が強く感じ取れた。
……やはり紫というのはこのホテルのイメージカラーなのだろう。トイレットペーパーが紫色で少し驚く。
トイレの扉を閉じて隣にあるもう1つの扉を開けると、こちらはシャワールームと洗面台となっており、同じくマーブルゼブラの大理石が交互に敷き詰められている。
シャワールームは一面ガラス張りとなっているのだが、見えない様にと曇りガラスが使われている。なか広さは両手を横に精一杯伸ばしても余裕で当たらない位に広く設計されていて、多分、多種族の体格に対応できる様に設計されているのだろうと思う。
その開け放たれた扉から見えるシャワーヘッドも海外だとよくある壁から生えている形式のもので、水量や水温を調整する形式も、現代の地球のホテルとほぼ同じく、操作パネルにて温度調節する形になっていた。
その操作パネルの横、つまり壁の隅には円形を4等分した様な形のシルバーラックが壁に備え付けられており、それぞれ同色の紫色のボトルが3つ配置されている。
その本体には細めの金字でシャンプー、リンス、ボディーソープとそれぞれ書かれていて、見るだけでも結構なお値段のするものだとわかってしまう。
そのシャワールームのガラスを隔てて隣にある洗面台は白い陶器の様な材質で出来ており、その上にはアメニティーと思われる淡い紫色の紙コップが数個と、使い捨てと思われる同色の歯ブラシが数本置かれていた。
また洗面台の上には備え付けられている白いラックがあり、そこには純白のバスタオルとフェイスタオルがそれぞれ置かれている。……余程の高級品が使用されているのだろう。遠くから見ただけでもふわふわなのが見て取れた。
「各設備やアメニティーは大丈夫でしたか?」
確認を終えて彼女の元へ向かうと、彼女は無表情のままそう尋ねてきた。……問題ないどころか凄く綺麗で安心したところだ。
「はい、全く問題あ――」
「おっまたせぇー! 今日の夕飯だよー!」
すると開けっ放しだった部屋の入り口から、けたたましい程の大声が部屋に響き渡る。え? 誰の声だって? 言わずもがな毒舌マリアちゃんだよー! くっそうっせぇ!
そうと思ったのは目の前にいる彼女も同じな様で、ぼそりと「ねぇさんうるさい……」と呟い――えっ、姉妹なの!?
思わず彼女の方をバッと向き、その姿を今一度見る。
失礼なのはわかっているが、頭の黒い耳のてっぺんから足のつま先までじっくりと見下ろしてゆく。当然彼女も「なっ、何ですかジロジロ見て……」と恥ずかしそうに抗議の声を上げるが、そんなのはお構いなしだ。
続いて大爆音で部屋にステップインしてきたマリアに視線を向け、たらんと垂れ下がる耳からつま先まで見降ろしてみても、どうも似ている様には思えない。
当然マリアは不貞腐れた表情を浮かべるが、別に怖くもなんともないし、何ならそれでも可愛く思えるのがズルい。
「何見てんのよコースケ。……もしかして私の"びぼー"に見とれたの?」
何を勘違いしたのか、マリアは手にトレーを乗せたまま嬉しそうに流し目でこっちを見てくるが、対する俺は「はんっ」と鼻で笑うだけ。……ほんと、それさえなければはっきりと可愛いと断言できるんだがなぁ……。
いや、可愛いのは間違いないんだけどね。
なんだかこうして話していると近所の悪ガキを相手している様で楽しいのだが、如何せん鬱陶しいと思う反面、こうして会話をしていると楽しくも感じてしまう、結構不思議な感覚だ。
当然彼女は悔しそうに頬を膨らませて「もうっ、何それ!」抗議してきたのだが、それでも姿勢を崩すこともなくプリプリと怒りながら部屋へと入ってきてローテーブルに料理を置いた。
そういう所はしっかりしてるんだなと、彼女の後ろ姿を見ながら思っていると、マリアはすぐ近くに佇むファイスに対し、「ファイスも何か言ってよー! コースケったら酷くない!?」と意見を求めるのだが、彼女も答えだと言わんばかりに苦笑いを浮かべた。
「……いや、コースケさんの言う通り、だね。幾ら金箔で外見を覆ったとしても、中身が変化する訳じゃないんだよ?」
するとマリア顔負けな毒を吐き出して彼女を責め立てた。かんわいい顔して結構えげつないね、ファイス……ちゃんでいいのかな?
期待していた答えとは違うものが返ってきたのか、マリアのその表情は一瞬にして凍り付き、「そんな……どうして……!」と女優顔負けの小芝居を始め、ファイスによろよろと縋りついた。
……何この茶番……。いや、俺もさっきマリアと修羅場さながらな事をやった手前、何も言えないわ。
……近くを通った通行人の方々って、こんな気持ちだったんだなぁ……。と、しみじみ感じた。
するとファイスに泣きついていたマリアがけろっとした表情で「とまぁ、茶番は置いといて」と言いつつ立ち上がる。……わかったぞ、こいつ芸人気質だ。それか演劇とか大好きなタイプだ。
「この後"カルム"に行くんだよね? それだったらご飯食べ終わったらそこに置きっぱなしにしておいてね。後で回収しておくから」
マリアは続けてそう言ってテーブルを指差した。まぁ、鍵はフロントに預けるつもりでいたし、盗まれるものも置いてはいないから特に問題はないだろう。
「食器はそこに置きっぱなしにしておけば良いんだな、わかった。……ところでカルムって、今から行こうとしているバー……で合ってる?」
話に食い違いがあるといけないので念のため確認をと思って確認すると、2人共ほぼ同時に頷き、場所を再確認する様にその場所を教えてくれる。
「では私達はこれで失礼致しますので、後はごゆっくりお休みくださいませ。フロントについては深夜の時間帯は違う者が担当いたしますので、もし何かありましたらその者に言伝をお願い致します」
ファイスはそう言いつつ浅く一礼をし、部屋から出て行こうとする。その際、何故かしれっと部屋に居座る気でいたマリアの首根っこを掴んでずるずると引き摺る様に部屋から出て行く。
彼女らが出て行ったのを確認した途端、思わず溜息が溢れた。そして徐々に、無意識に張っていたであろう緊張感が体から抜け落ちて行く。
まるで顔につけていた微笑みの仮面がガラスの様に割れて崩れ落ちて行くかの様に、どこか温かみを感じていた心が急激に冷め切ってゆき、感情の起伏が平坦になってゆく。仕事を終えた後の、1人歩く夜道のように。この世に自分しかいないと感じてしまうかのように。
それ程までに彼女達の存在は暖かった。
「……とっとと夕飯食べようか……」
先程まで彼女達といた時の後遺症だろうか。思わず独り言が口から零れ落ちてしまう。
実の所、夜はあまり好きではない。別に幽霊が怖いだとか、不気味だとかというものではなく、ずっといると何だか感情が潰えそうで、独りぼっちになった気がして、押し潰されそうで。
だからこそ、いつもは馬鹿みたいに飯を掻っ込んで、馬鹿みたいに酒を飲んで気持ち良く眠る。
いつも通り味気ない料理……。そう思っていたが、何だか目の前に置かれた食事はとても美味しそうに思えた。
それは、トレーの中にまるで隠されているように置かれた1枚の小さなメモが原因なのかもしれない。
そのメモには丸く小さな文字で"お疲れ様、いい夢見てね♪"と、彼女の直筆であろうメッセージが書かれていた。
……全く、本当に憎たらしい、けれども憎めない良い子である。
結構な頻度で毒を吐くけれども、それでも基本的に楽しい時間を過ごさせてくれた彼女を思い出し、冷めやらぬようにと持ってきてくれた料理へと手を付けた。
彼女が持ってきてくれたのはビーフシチューと付け合わせのバゲット。そしてサラダの3品。
ビーフシチューは赤ワインの豊潤な香りを漂わせつつ、それを支えるかの様に香る濃厚なトマトの少し酸味がかった風味、そして離れていてもわかる程の強い旨味が鼻を擽り、更に食欲を増大させた。
その香りに思わずスプーンを手に取って一口運んだ瞬間、バターの濃厚な香り、赤ワインの風味、トマトの旨味が前面に押し出され、ビーフシチューというよりも、じっくりコトコトと煮込んで旨味を引き出した、まるでトマト煮を食べている様な感覚に陥る。
その長時間煮込まれたであろう少し大きめの肉も口に運ぶだけで角煮の様にホロホロに崩れてゆき、まるで舌すらも要らないのではないかと思う程。
濃厚な風味に引き摺られたまま、付け合わせである薄めにカットされてカリカリに焼かれたバゲットを口に運んだ。
バゲットにはガーリックバターとカットトマトが塗りたくられており、まるでピザでも食べているような気分になる。……確か、ブルスケッタって言うんだっけか?
その少し硬めのバゲットも、噛めば噛む程小麦の柔らかな香りと旨味、そして力強い風味が口一杯に広がって鼻から抜けてゆく。
美味い。久々に染み渡るこの感覚を思い出して思わず口角が上がるのが分かった。みるみるうちにビーフシチューとバゲットが無くなってゆき、自分でも驚く間に完食してしまった。
残るサラダもお手製のドレッシングを使っているのか、丁度いい塩加減にオリーブの香り、微かに残る柑橘系の香りが口直しにとてもぴったりで、食べ終えたと同時にスッキリとした後味となった。
料理をぺろりと平らげ、久々に感じる満ち足りた感情に浸りつつ、チェアーの背もたれにどかりと寄りかかった所、思わず溜息が溢れた。
思わず煙草を吸いたくなるのだが、室内を見渡す限り灰皿の類は見られない。……煙草特有の残り香も感じられないので、喫煙所が違う場所にあるのだろう。
もう一息ため息が溢れ、心の中で喫煙所を探す事を決意する。
となれば行動するが吉ということで財布に煙草に部屋の鍵を持ち、部屋を出た。
部屋を出た所で左右を見渡してエントランスへと歩き出すと、正面から黒いタキシードを羽織った恰幅の良いオークの男性と、鮮やかな白いマーメイドドレスに身を包んだ人間の女性が歩いてきた。
男性のオークは奥さんであろう彼女に肘を差し出し、朗らかな笑みを浮かべてつつ彼女をエスコートをしていた。その隣を歩く女性も、何とも穏やかな笑みを浮かべて自分よりも高い位置にある彼の顔を覗き込んで何やら会話を交えている。
すれ違い様に二人に会釈をすると、二人もまた軽く会釈を返してくれた。……なんやあれ、無茶苦茶仲ええ夫婦やん……。そんなことを思ってエントランスへのドアレバーに手をかけつつ振り返ると、すれ違った時と変わらずに仲良く腕を組んで歩いている姿が目に入った。
その姿に思わず笑みが溢れ、閉じられたエントランスの扉を開くと、食事を食べ終えたであろう他の宿泊客でワイワイとごった返していた。
種族や年齢などは皆バラバラなものの、それでも全ての人が笑顔で笑いあっていたり会話していたりと、とても和やかな雰囲気に包まれていた。




