入国手続き
そして今さらっと伝えられた魔法陣の存在に、改めてここは異世界なのだと感じさせられたが、とりあえずは今夜の寝床を確保しなければ野宿確定となる。
彼に2度目となる別れを告げて入国手続きのレーンへと向かう。渡航管理局が閉鎖されている以上、利用する者がいないのか、どれもテーマパークのファストレーンの様にガラガラに空いていた。
それとなく選んだレーンへと足を踏み入れると、これまた美形と断言できる……ヴァンパイアだろうか? 口の両端から少しはみ出た鋭い牙が特徴的な彼に出くわす。
その彼の肌はまるで陶器のように白く、顔立ちは不気味さを感じさせる程に整い過ぎていて、瞳はまるでアルビノの如く鮮やかな真紅に染まっている。
……えっ、何、ヴァンパイアって皆男女問わずこんな美形なの? ずるくない? 同性な筈なのにまた心拍数が上がってきてるんだけど、マジで病気じゃないよな? 循環器系の診察に行ってこようかな?
彼に対してそんな下らないことを考えつつ唖然としていると、彼は小さく笑いながら「ようこそ」と短く呟く様に話しかけてきた。
「こんばんは。本国への入国は初めてでしょうか」
「はい。渡航管理局が閉まってしまって戻れなくなってしまいました。予定としては朝まで宿泊し、時間があれば少し観光などをしてから帰宅しようと考えてます」
どうせ来たんだったら少し見て回ってから帰ったとしても特に問題はないだろう。逆に言えば夕方辺りまでは渡航管理局は開いてるので、それまでに地球へと戻ればいい。
俺の答えを聞いた彼はふむと頷いて俯き気味に少し思案するが、すぐに顔を上げて「でしたら」と言葉を切り出す。
「今回の滞在期間は今日と明日の2日間という形で処理致します。そして今後も来訪されると思いますので、この場で身分証明証の手続きもしてしまいましょう。……身分証明証は受け取りまでに2週間程度かかると思いますが、ご了承ください」
彼はそう言いつつ自分へ向けて左手を差し出してきたので、何も考えず握手をする様に左手を差し出した所、その手を掴まれて「少しこちらへ寄って下さい」と頼まれる。
少し疑問に思いつつも言われた通り近付くと、もう片方の手で俺の前腕をさする様に一度だけなぞった。
その手は思ったよりも暖かく、自身の手よりも少し暖かい程で、思わず彼に対して人間味を感じてしまう。……ヴァンパイアなんだけどね。
その間にも彼の指輪の石が赤く光り、なにやら発動している事がわかっていたのだが、何をしたのかはわからないまま。
「滞在期間につきましては貴方の腕に記載しておきます。今日明日の入国許可証代わりとなります。今日明日の2日間は明記されたままですので、明日中に出国手続きを行ってください」
手が翳された腕を捲ると、赤い文字で今日の日付であろう2123/冬/86の文字と、2日間滞在する旨の文字、そして何と書いてあるかわからない文字が記入されていた。
「それぞれ、入国日、滞在期間、担当官のサインが記入されております。期日を超過しますとその刻印は消えますのでご安心ください。あと、身分証明証となるブレスレットの手続きを行いますので、銀行口座開設時に受け取ったドッグタグを貸していただけますか?」
刻印の刻まれた前腕をほえーっと眺めていた所、そう頼まれたので腕まくりを戻し、自身の首の後ろに手を回して金具を外した後に彼へと手渡した。
こちらからは見えないが何やら手元でスキャンを行っているらしく、桃色とも赤色ともつかない光を放ち始めた。
……もしかしてこれから2時間かかるっていうのか……? とにわかに不安な気持ちになり始めたが、それもつかの間の事ですぐさま光は消え、「これで登録の手続きは終わりです」と言う言葉と共にドッグタグを返された。
「……あれ? さっき手続きに2時間くらいかかるって、両替の時に聞いたんですけど……」
彼からドッグタグを受け取りつつそう疑問をぶつけた所、彼は「あぁ」と笑みをこぼした。
「強ち間違いではありません。飽くまで2時間かかるというのは単純に待機時間も含めての時間となりますが、事前にドッグタグによる生体の認証を行っていない場合というのと、長期間こちらに滞在する場合の滞在期間、そしてその理由によります。……勿論、滞在理由が変更になる場合、新たに手続きが必要になりますのでご了承下さい」
あー、なるほど。なんとなく理解できた。
受け取ったドッグタグをまた首にかけつつ頭の整理を行ってゆく間にも、彼は引き続きを身振り手振り交えつつ説明を続けた。
「ドッグタグを使用していない分、質疑や検査が多くなります。また長期間滞在する場合、どこへ行き、どのような事、物を買うのか、はたまたサービス利用をするのかと言った事も細かく聞く必要性が出てきますので……。あとは違法なものをこちらの世界へ持ち込んでいないか、はたまた持ち出しそうとしていないか等があります。持ち出しについては出国時にまた検査があるので、その時に詳しい説明を受けて下さい」
つまりは今日明日の2日間だけの短期滞在という点と、予め生体情報をデータ化させていたドッグタグを持っていた事が今回早かった理由らしい。
「まぁ、飽くまで彼らはこの協定島の中枢銀行の一員としての役割を任されてここに来ているわけですから、当然、入国審査の量も質も貴方とは異なります」
それはそうか。……と言う事は、この世界で働くためには2時間もの手続きをしなければいけないのか……。そんなことを考えていると、「寧ろ……」と目の前の彼が呟く。
「就業による入国審査で大体2時間って早い方ですよ? 地球ではない他の世界から来たという同僚曰く、3時間半かかった、なんて聞きますからね」
嘘だろおい……。思わず小さく笑いがこぼれてしまう。
「とにかくこれにて今回の入国審査は終了です。明日の夕方までにはこちらで出国手続きを行ってください」
彼はパンッと軽く手を叩いて切り上げたが、その表情にはまるで子供の様に無邪気な笑みが浮かび、まるで友達が増えたとも言わんばかりに歓迎している様に思えた。その言葉に「わかりました」と思わず笑みを溢しつつ頷くと、彼は右手を差し出して握手を求めてきた。
「ようこそ垣根の存在しない国、協定島へ」
俺は彼の手を握り、「ありがとう」と礼を述べて入国審査のゲートを後にした。
ゲートを潜り、そのまま出口へと向かう。出口は渡航管理局とメインフロアとの出入り口と同じ木製の扉となっているが、その大きさのスケールがまるで違っていた。外と内を隔てるべく取り付けられたそれは、欧州にある有名な教会の出入り口と同じ位の大きさを誇っており、幾つもの年月を重ねてきた事が伺える。
その開け締めするために手が触れていたであろう部分は数多の人々の手によって削られ、優しくも温かいライトブラウンは黒く色付いていた。そしてその大きく開け放たれた扉からは冬の気配が残る凍てついた風が流れ込み、暖房によって温んでいた体を冷やすと共に、明かり1つ見えない暗闇との橋渡しとなっていた。そんな帳が満ちる夜空には数多の星空が浮かんでおり、淡い光で夜空を彩っている。
「……すっげぇ」
出入り口から出て少し離れた、胸程の高さの塀に腕を付いてふと目線を下へと向けると、目の前に広がる光景に思わず感嘆が零れ落ちた。
広大な黒い余白に浮かび上がった絵画の如く、白い街灯に照らされた純白の町並みがまるで雪景色の様に見え、その奥に暗く覗く大きな水面も、空に浮かぶ鮮やかな緋色の満月に照らされてその表情を妖艶に彩っている。
一見するとその不気味な筈の色はまるでこれからの時間を祝福しているかの様に思え、その黄に混じり込んだ赤色が仄かに街の白色へと移り、真冬の夕暮れ時の様な表情を見せていた。
もうとっくに1日は終わりを告げようとしているのに、その光景はまるで時間の流れに抗っているかの様。その光景に見惚れて思わず煙草を取り出して火を灯すと、背後より「おにぃさん、ここ禁煙だよー」と、まるでアニメ声をまんま再現したかのような甘ったるい声が聞こえる。
そのアニメでしか聞いた事の無い様な珍しい声に条件反射で振り向くと、ドアップにされた女性の顔が視界一面に映し出された。
「うぇおぁい!」
「ひゃぁあいっ!」
驚いて素っ頓狂な声を上げると、その反応に彼女も驚いたのか目を見開いて同じく素っ頓狂な声を上げてぺたんと尻餅をついた。その緋色の月明かりに照らされた彼女の顔はまるで仄かに赤面しているかの様に艶やかで、本来であれば薄い金色であろう髪色も月明かりに照らされて仄かな赤みを帯びている。
その顏の両サイドにはてろんと垂れ下がった兎の耳があり、驚きからかその耳は少しばかりふるふると震えていた。そして地球では珍しいだろうその灰色に輝く目には涙が浮かんでおり、何だか半端ない罪悪感が沸き起こる。
彼女は濃い青色のスキニージーンズを穿いており、アウターには腰程の長さのある白いダッフルコート。そして中に黒いクシュネックタートルネックを着ている。
コートの前面は開け放たれており、胸元には宝石だろうか、ブリオレットカットの施された石が、まるで1つの大粒の涙の様に垂れ下がっていた。
髪型はエアリーボブで、ふわりと空気を差し入れたかの様な髪型は、てろんと垂れ下がるロップイヤーのような耳にマッチしていた。
「……あー、大丈夫? いきなりごめんね?」
咄嗟に煙草を靴底で揉み消しながら謝りつつ、行き場を失った火種の潰えた吸い殻をまた口に咥えた。……何でまた咥えたのかって? ……いやいや、携帯灰皿持ってきてないし、禁煙だと言われた手前、捨てるわけにはいかんでしょ。それ以前にポイ捨てなんてしたくはないし。
とにかく尻餅をついてこちらを涙目で睨んでいる彼女に手を差し伸べると、彼女は驚いた様な表情を浮かべるものの、すぐに小さく笑みを浮かべて俺の手を握り返した。
そのまま力を込めて引っ張り上げると、ふわりと、何ら造作ないと言った面持ちのまま立ち上がった。その彼女の表情は先程までの不機嫌なそれではなく、どことなく嬉しそうにも見えた。
「おにーさんって、もしかして"チキュウ"から来た人?」
その笑顔から放たれた言葉に心臓が高鳴った。
理由としては2つ。……片言ながらも地球から来たと言う事を言い当てた事。そして、自分よりも少し背の低い彼女が、まるで顔を下から覗き込むように腰を折り、上目遣いで尋ねて来たという事だ。
いや、要因としてはむしろ後者の方が大きいだろう。と言うか、何でこの世界の人達は俺の心臓に多大な負荷をかけてくるのか……。このままだと俺は地球に帰るまでの間に天に召されてしまうかもしれない。
因みに彼女の容姿については、先程のヴァンパイアのあんちゃんやエルフのねーちゃんに比べると、割と平凡的な可愛さだと断言できる。
……既に感覚がぶっ壊れてると言われれば間違いなくそうだともしっかり断言できる。
だが一番に厄介なのが、そのあざとさを詰めに詰め込んだその行動そのものである。
童貞を殺す服ガーとか、萌え袖ガ―とか言ってる場合じゃなく、自らに内包されている庇護欲とも父性とも言えるそれを否応なく引き摺り出される感覚。
……色々な意味で俺はもう手遅れなのかもしれない。いや、手遅れだ。断言しよう。神様イエス様仏様、とっとと諦めて匙を場外ホームランして下さい。
「……いきなり固まってどうしたんですか? もしかして頭腐ったんですか? それとも自分の頭に脳ミソが入ってるかもって錯覚したんですか?」
ちょっと愛くるしい動きに見惚れていたら何の前触れもなくぶっ放された言葉のダムダム弾。なんだこいつ。美しい花には棘があるだけかと思ったらトリカブトの毒を塗ってやがった。
「まぁ、冗談は良いとして……。んで、おにーさんはここで一体何をしているの? 目的があるようには見えないんだけど……」
彼女は満足そうな表情を浮かべつつ、話題を切り替えた。
お? 何だコイツ。ドSなのかな? 過剰なドS演出は冗談抜きで相手の心を圧し折るから気をつけようね!
「いやー、これからどうしようかと思いまして……。渡航管理局が早く閉まったお陰で地球に帰れなくなりまして……」
彼女が立ち上がったことで両手が空いたので、シケモクとなった煙草を握り潰し、適当にズボンのポケットへ捩じ込みつつ理由を話すと、彼女は「あー……」と苦笑いを浮かべる。
「この時期はまだ冬の営業時間だもんねぇ……。ご愁傷さま」
ほんとだよ。マジ勘弁。
今は仕事が休みだから良いものの、これがもし普通の日だとしたら絶望に向かって真っ逆さまである。出勤したと同時にジャンピングスライディング土下寝で謝るしかねぇわ。そして始末書処分すっ飛ばして一発解雇通告待ったなしですわこれ。
考えただけだってのにもうどうしようもねぇな。
「それよりも、何で自分が地球から来たって分かったんですか?」
何度も脱線したが聞きたいのはこれである。俺自身、地球から来た人だと言いふらしながら歩いていた訳ではなく。寧ろそんな事をしていたらすぐさま警察的な人々に連行されて終わる。いや、この国に警察のような存在が居るのかが分からないが。もしかしたら自警団なのかもしれない。
すると彼女は「んー」と上を向きつつ、顎に人差し指を当てて考え始めるが、何と言って良いのかわからないのか、今度は俯いて腕を組み始めた。
「……なんと、な……く? 雰囲気的な?」
暫し考えて捻り出てきた答えがそれであり、彼女自身もあまり納得していないのかその表情は少しばかり険しい。
「いや、疑問で返されても……」
そのふんわりとした答えに思わず苦笑いを浮かべてしまうと、そんな様子を知ってか知らずか彼女はニッコリと笑みを浮かべ、「まぁまぁ取り敢えず」と言って俺の手を握って引っ張り出した。
案外その力は強く、一瞬体勢を崩しそうになるが、寸でのところで回避する。
この子なんなの? 俺の事好きなの? それとも名も知れないアーティストが作った壺や絵画を高値で買わせる気なの?
「……おっきゃく~おっきゃく~お泊りさんっ」
……近しい理由としては後者であった。淡い願いに期待値全振りした俺が愚かだった……。まぁとは言ったものの、宿泊先を探す手間が省けた事には感謝せねば。
……何だかんだ言いつつも、これから始まる夜の異世界探索が楽しみで仕方がない自分がそこにはいた。
彼女は俺の手を引きつつ建物の周りを塀に沿う形で歩き出した。
曰く街への移動するための魔法陣は反対側……。つまり入国手続きを行ったゲートとは反対側の入り口にあるらしい。
女性に手を引かれて歩いていると言うのに、俺はなだらかな山の頂上から見下ろす景色に魅了されていた。……本当に失礼なのだが、現在進行形で手を繋がれている筈の彼女の事は一切意識していなかった。
それ程までに見下ろす景色は素晴らしく、本当に時間を忘れて魅入ってしまいそうになっていた。
「よし、着いたよ、おにーさん」
ぼうっと景色に見惚れていると、突然声を掛けられて手の温もりが名残惜しさを残して消えた。それによって今まで彼女に手を引かれていた事を思い出し、「あ、あぁ。ありがとう」と呟く様に彼女に向き直って咄嗟に礼を述べると、彼女はきょとんと目を少し見開いてすぐさま顔を綻ばせた。
「自分の住んでる街に見惚れてくれるのは凄く嬉しいんだけど、少しは私の事も意識してほしーなー。私も女の子なんだし、ここまで意識されないと、幾ら初対面といえど悔しいもんだよー?」
そう愚痴る彼女の顔はちょっぴり悔しそうではあるが、それでも自分の住む街が好きなのだろう。顔色には仕方ないという諦念が見て取れた。
「はははっ、申し訳ない。あまりに綺麗だったのでつい。……魔法陣ってこれの事ですかね?」
そんな彼女が幼く見えてしまったので、思わず笑いが溢れた。
目の前の地面に見えるのは、セダンタイプの普通自動車1台分程の大きさを誇る、何やら幾何学的な模様の刻まれた円形の魔法陣。それぞれ赤色、青色、黄色、緑色とそれぞれ四方を示すかの様に配置され、淡く柔らかい光を発していた。
4つのそれぞれの魔法陣の外枠には外周に沿う様に行き先が記載されており、赤い魔法陣には商業地区、青色には居住地区、黄色には工場地区、緑色には生産地区とそれぞれ書かれている。
全く意にも介していない俺を見て、彼女はまるで茶化す様に「まぁ、良いんだけどさー」と態とむくれて見せるが、すぐさま「まぁそれは良いとして」と話を切り替える。
「これで街へと移動するの。一応ここから市街地へ降りる道も整備されて舗装されてはいるけど、こっちの方が早いし、結構勾配がキツイからあまりオススメしないよ」
彼女はそう言った後、「適度に運動したいならオススメだけどね」と付け足して肩を竦めた。
まぁ、すぐに移動できる便利なものがある以上、それを使わない手はないよなー。なんて事を考えていると、彼女は俺の袖口を掴んでグイグイと引っ張って行く。
どうやら彼女の働いている宿は商業地区にあるらしく、赤色の魔法陣へと彼女と共に足を踏み入れた。
よくファンタジー物のラノベにある、"変な感覚に襲われる"事や、"地面に落下する"などというお決まりパターンが発生する事はなく、2秒程タイムラグを挟んだところで目の前の景色が一変した。
……まぁ、普通に考えればそうだよな……。日常生活で使うってのに、そんな使用する度に体調不良だったり怪我を負う可能性があったらたまったもんじゃないよな……。
先程から驚いてばかりだと思うが、やはり異国……もとい異世界というのは興味をそそられる物ばかりだった。
上から見下ろした景色とはまた違い、夕暮れの様な景色は間近で見ると尚鮮やかだ。街を照らす街灯も魔法によって出来ているのか、支柱の類も無くふわりと浮かんで道行く人々を照らしている。
電力なども魔法によって補っているのか、電柱の類は見受けられず、……いや、地下に埋設してある可能性もあるが、とにかく、日本とは違う景色に、ただただ心奪われていた。
街灯に照らされつつ道行く人もバラバラで、くっ殺シチュエーションなどで有名なエルフやオークを始め、妖精やヴァンパイア、ラミアやミノタウルス、もちろん人間も誰彼構わずに楽しそうであった。
魔法陣のあるここは中心に噴水を構えた広い円形の広場となっており、見た限り、材質は道や建物に使われているものと同一の物を使用しているようだ。
そして噴水の中央には何やら像が建っているのだが、如何せん、像の上部分までは照らす必要がないと判断されているのか、胸元辺りから上は伺う事が出来ない。
魔法陣は噴水を囲む様に四方に設置されており、足元には先程の商業地区の赤いそれではなく、打って変わって白色で渡航管理局と書かれたそれが設置されていた。
どうやら、渡航管理局から来た者は皆、白色の魔法陣に乗って現れるという仕組みになっている様だ。
その広場から伸びる大きな通りの道の端には、屋台や露店、看板などが立ち並び、道往く人々に自らの存在の主張を必死に行っているようにも思えた。
ざっと見ただけでも、ジャンクフードらしきものを売っている店や、今晩のおかずに使えそうな野菜、魚、肉などを取り揃えている八百屋の様な店であったり、はたまた、宿であったり居酒屋であったり。
視界から入る情報だけでも、様々な店が立ち並んでいるのがわかる。
「そう言えば、俺はここに来たばかりだから仕方ないと思うんですけど、君は何故あの場に?」
ふと先程から気になっていた事を聞いてみた。あそこにあるのはあの建物だけで、他にめぼしい物は無かった筈だ。しっかりと見ていないからはっきりと断言できないが、それでも、俺の様に景色を眺めている者は居なかった筈。
すると右前を軽やかに歩いていた彼女が苦笑いを浮かべつつくるりと振り向いた。途端、垂れ下がっていた耳がふるんと遠心力によって持ち上げられ、頭にぺたりと垂れ下がった。
なにそれ可愛い。一々あざとい。
今なら殺人未遂でこの子を訴えても良い気がする。さっきから結構な頻度で心拍数が爆アゲになってて困る。……こんな爆アゲいらねぇ。文字通り心臓に悪いわ。
「似合わないと思うけど、笑わない? って言うかその堅苦しい言葉遣いやめて欲しいなー。見た所年齢も近そうだし、ちょっと調子狂うんだよ」
彼女は後ろで手を組み、恥ずかしそうに目を伏せつつ俯き加減になる。全く、何を心配しているんだ。……馬鹿馬鹿しい。言葉遣いに関しては今から直すことにしよう。
というかそんなの――――。
「笑わない訳ないじゃないか。爆笑してやるよ。何ならここで腹抱えて笑って転げ回ってやるよ」
笑うっきゃねぇだろ! 今までの分の倍返しだ! どうだ、悔しかろう! これがさっきまで俺が感じていた感情……あっ、やめてそんな冷たい目で見ないで興奮しちゃ――――いやマジで待って置いて行かないでごめん謝るから!
俺の返事を聞いた途端、彼女の表情がまるで煙の様に消え、フッと背中を見せてスタスタと遠ざかって行こうとする。
調子に乗り過ぎた事に焦って半ば条件反射の様に彼女の手を握ってしまう。
第三者から見るとまるで色恋沙汰の縺れの様に見えるが、当人からすると全く違うというこの温度差。
多分そう見えてしまうのは、俺が彼女の手を離すまいと必死な形相で掴んでいる所為でもあるだろうが、当人である俺からすると、今日の宿の有無が関わってくる非常に大事な問題でもある。
「……何ですか?」
こちらを振り向いた彼女の目はとても冷たく、液体窒素か何かと思う程に冷え切っていた。しかも先程まで使っていなかった敬語を突然使い始め、明らかに俺との距離を取ろうとしていた。
「ごめんごめん、冗談だって!」
必死に言葉を紡ぎ上げようとして出てきた言葉は結局それだけであった。何故だか分からないが、彼女に対しては変に取り繕わない方が良い様に思えたのだ。
すると彼女は目を半開きにしつつ振り返り、ぷくっとまるで子供の様にむくれ始めた。
「じゃあ絶対に約束して。……絶対に笑わないでね」
彼女から仄かに警戒心を感じたため、敢えて何も言わずコクリと頷くと、彼女は一刹那を置いた後、意を決した様に表情を引き締めてゆっくりと口を開いた。
「……あそこから見下ろす居住区の夜景が好きで、時々見に行くの。……ここみたいに看板や屋台が存在しなくて、ゆったりと時間が流れている感じが堪らなく好きなんだ。それでたまたま見に行ったら君がいたんだよ」
「……あー、確かにあの眺め良いよなー。終わらない夕暮れ時みたいで」
何だそんな理由かと思いつつ、見下ろした時の景色を思い出していた。
夜の筈なのに街を覆う夕暮れ。幻想的でありながらもどこか懐かしさを感じる風景。俺が満月でいて雲が疎らに浮いているという今夜に来れたのも、丁度良かったのだろう。
そんな事を仰ぎ見つつ思い出していると、反応が返ってこない事に違和感を感じ、目線を彼女へと戻した。すると彼女は唖然としたまま固まっており、何やら信じられないものを見たかの様な表情をしていた。
「……一体どうしたんだ? 何か変な事でも言ったか?」
そんな彼女の態度が気になって恐る恐る話を切り出すと、彼女は「あ、ううん」と少し焦った様に笑みを浮かべ、手を目の前でわたわたと振り出した。
続いて「さっ、行こっ」と言ってまた先導するかの様に、心なしか嬉しそうに、今にもスキップしてしまいそうな程に軽やかな歩みを進めてゆく。
俺もまた彼女に倣う様にその横を並んで歩き出す。
「……こう言うと皆、"らしくない"だとか、"いつも見てる風景だからそんなの感じない"って言う言葉しか返ってこなかったから、意外で……」
彼女ははにかみとも苦笑いとも取れる面持ちで、今し方言い淀んだ理由を話してくれる。
まぁ、短い間とは言え彼女と接して感じた事だが、確かにらしくないと言えばらしくないのかもしれないし、そうでもないのかも知れない。はっきり衣を着せずに言うのであれば、"全くわからない"。
それに、同じ風景も毎日見ていれば慣れて何も感じなくなると言うのも理解できる。……ほら、あれだ。札幌の時計台や押上のスカイツリーとか。あれって現地に住んでいる人はほぼ行かないだろ。それこそ日常的に見ているし。
もっと簡単に言うと、都会に住んでる人が田舎に遊びに来て、海綺麗だすっげー、緑あふれる自然豊かな山すっげー、本州とは違って雪がサラサラだすっげーって言うのと同じだ。
当の現地の人間からしたら、はぁ? 何それ煽ってる? こっちからしたら遊ぶ所が無い上にクッソ不便で仕方ねぇんだけど。って思うのと同じだ。
「いや、ついさっき会ったばかりで君の事は知らないし、ここに来たのも今日が初めてだからそんな事思わないよ」
しかも海外でも国内でもなく、異世界と言う文字通り地球という枠組みを一段回をすっ飛ばした場所に来ているのだ。興奮しない訳がないだろう。
彼女に関しても、まだ出会って30分も掛かっていないだろうこのタイミングで、どんな性格をしているのかなんて考察出来るほど立派なオツムは持っていないし、何様だと言わんばかりに見極めようだなんて事も思っていない。
1つ彼女に思うとするならば、"何だこの可愛いを沢山詰め込んだパンドラの箱は"って事だけ。
ありとあらゆる可愛いが解き放たれ、最後に残ったのはたった1つの言葉の暴力。
何それ新しいデレツン? 仮にデレツンだとしても最後に残った言葉の暴力がキツすぎて心折れそうです助けて下さい。
彼女は満足気であると同時に気恥ずかしそうに顔を赤らめ、笑みをこぼした。
「やっぱり君に声をかけてよかった。……さぁ、着いたよ、ここが私の家にして仕事場。ホテル"スイートキャロッツ"」
彼女がふと立ち止まって俺の方を見る。彼女の右手は建物へ向けられており、その手につられてふと建物を見――――いやいや、城やん……まんま城やんホテルやないやん……、嘘やろ……。
そう、目の前に見えるのは、立派な白い城。もう、何て表現したら良いのかわからないが、取り敢えず凄いとしか考えられなかった。一番近いとするならば、フランスにあるシャンボール城が一番近いだろうか。
全てが純白に包まれ、下から見える硝子も透き通っており部屋の天井が見える。その天井は暖色を基調としているのか淡いオレンジ色をしていた。