突然の異変
耳を劈く様な甲高い音が鳴り響き、眠りの海底から急激に引き上げられる。
その何度も聞いている所為か、聞く回数を増す毎に不快に思えてくるアラーム音に辟易しつつ、憎たらしい物を引っ叩く要領でけたたましく騒ぐそれを停止させた。
引っ叩く勢いで停止させたはいいものの、この凍てつく寒さの中ではどうにかして出ようと思うも、体が必死な拒否反応を起こす。
営業の年度が変わるとの事で今日から一週間は会社が休みであり、ナマケモノの如く自堕落に過ごそうかと考えていたのだが、どうも現段階でこなさなければならない予定がギッチギチに詰まっており、どれもこれもすっぽかしたら後々面倒な事になる物ばかり。
運転免許の更新に日用品の買い出し。はたまたネットショッピングのコンビニ清算等々……。まぁ、緊急の用事でもないし、期限もまだ少し先のものだからどうにでもなると言えばなるのだが……。
……あぁ、いや。アマゾンの精算は今日中にやんないとキャンセル扱いになるのか……。とにかくこのまま子供のイヤイヤ期よろしくお布団との熱烈なハグを堪能していても何も始まらないし終わらないので、意を決して布団から飛び起きて用意を始めようとする。
だがどうだろう。あまりの寒さに身体がびっくりして身体が一瞬固まってしまい、その場でブルっと体全体が跳ね上がる様に震え上がる。
季節は冬が明けて陽気に包まれる第一歩となるであろう3月に入った筈で、四季的に言うなれば春になるのだが、当然ながら春の陽気とやらは何処へやら。朝晩だけは真冬に逆戻りした様に冷え込み、暖房のスイッチを入れない限りは冷蔵庫なんて必要ないんじゃないかと思ってしまう程だ。
……いや、流石にやらないよ? それで腐らせてしまったとなったら金がもったいないだけでなく、腐ったものを処理しなければいけないという、精神的にもキツい目に遭ってしまうので、やりたくない。
まるで産まれたての子羊の如くブルッブルに震えながら、洗剤の甘い香りと古びた香水の様な煙草の臭いが染み付いた、部屋干しのバスタオルを半ば奪い取るかのように手に取る。
そして氷の如く冷えきったフローリングに意味もなく殺意を覚えながらもバスルームへと向かい、壁に備え付けられたディスプレイでさっさと温度を40℃まで上げて体を流してゆくと、冷え切り始めた体を少し熱いくらいのお湯が駆け巡ってこびりついた汗と寒気をスラスラと洗い流してゆく。
こびりついたそれを手早く洗い流し、ホクホクに温まった体を適度に冷ましながら、服を着て壁にかけられたテレビの電源を入れる。
画面の向こうでは、最近流行りとなっている"行方不明"や"神隠し"のニュースが引っ切り無しとまではいかないものの結構な頻度で流れていた、物騒な世の中になったもんだな―、なんて思って見たはいいものの、所詮は他人事で、別段興味なども沸かないのが実際の所。
……かと言って汚職事件やら不正発覚による内部告発などのニュースが見たいと言う訳でもないのだが。
そんなテレビの前に置かれたガラス張りのローテーブルにぽつんと佇んでいる煙草とジッポーを手に取り、小気味良い音と共にその短い命を灯してソファーに腰を落ち着ける。
一口目を大きく吸い込むと、新築の家の様な、はたまt檜に似た優しく甘い香りが肺から鼻へと抜けてゆく。
直後、少し重めの酩酊感が感覚を揺さぶり、まるで夢見心地の様な感覚に襲われる。
これだからJPSは辞められない。……かと言って他の銘柄を一切吸わないのかと聞かれるとそうではなく、結構色んな銘柄に手を出しているので、もしかしたら俺は浮気症なのかもしれない。
言わなくてもわかると思うが、未成年の飲酒や喫煙は法律で禁止されています。良い子でも悪い子であろうとも吸っちゃだめだぞ。
20歳を迎えた理性ある大人だけの特権だからな。……まぁ大人のおしゃぶりだなんて言われる位だからね。あとはまぁ、昨今の事情を考えると吸わない方が良いのかもしれない。
その事情も歩き煙草などのマナー違反をするクソッタレな阿呆が居るのが主な原因だと思うので、自業自得だと言われればそれまでで、ヤニカスだと言われれば口を噤むしか無い。
煙草を咥えつつ、今日上に羽織るアウターを選ぶ為、部屋に備え付けられたクローゼットを開け――――いや待って何これめっちゃ眩しいんだけど……。
突然の事態に理解が追いつかず、咄嗟にそっ閉じだなんて比じゃない速さで扉を閉めた。結構ド派手な音を立てつつ勢い良く閉じられた扉を前に、まるで現実逃避するかのように深く紫煙を吸い込む。
取り敢えず、朝6時から大きな音を立ててごめんなさい。名前も顔すらも知らない隣人様。
目の前の現状に頭が全く追いつかず、もしかして勘違いかな? と思ってもう一度開けてみるがやはり眩しい。とにかく爆光にライトアップされているライトブラウンのトレンチコートを素早く取り出してすぐに閉じた。
……疲れてるんだな、うん。そうだ、きっとそうだ、そうに違いない。……と無理矢理にでも自身を納得させようとするも、目の前の異変に嫌でも目を背けたくなる。
……拙者もオタクの端くれ故この様な展開は大好物でござるよデュフフフフフフフ……。……自分でもやっていてわかるこのキモさ……。
情緒不安定かな? 精神科行こうかな? そもそも有給取れるかな? ……っとそんな事考えてる暇ねぇな。とっとと部屋を出て、用事を済ませよう。
部屋を出る前にふと眩い木漏れ日がガンガンと漏れ出ているクローゼットに目が行くのだが、それも一瞬の事で、すぐさま部屋を出て冬の気配残る外へと足を踏み出した。
突如目の前に現れた、日常の中の非日常。
当然、クローゼットの中に己の網膜を焼き切りそうな程の爆光のHIDライトを仕込むような性癖はない。それにあの光は、HIDのような、機械染みた感覚は受けなかった。どちらかと言うと、太陽の様に自然でいて、温かみのあるような……。
……そして陽が落ちて帳が空を覆い隠した後、帰宅して1人寂しく「たでーまー……」と第一声。言葉を溢した所で当然誰かが答える訳でもなく、誰かが待っている訳でもない。変化があると強いて言うのであれば、先程までの酒の所為か気分が高揚しているというだけ。
因みに用事についてはトントン拍子に進んだ為、予定より大分早く用事が終わって昼間から居酒屋で一杯ひっかけていた次第だ。
今し方呟いた言葉が虚く部屋の中に響くのを感じつつ、明日の予定について考える。
幸いな事に、本日月曜日から次の日曜日までは会社自体が連休となっており、今週一杯は自堕落なプータロー生活なのだ。
羽織っていたトレンチコートを脱いでクローゼットの取っ手にふと手をかけると、今朝の出来事がフッと思い出される。思わず唾を飲み下して恐る恐る開けてみた先には、今朝と変わらず燦々とした爆光が目の前に現れた。
……うん、きっと酔っ払ってるんだな。そう、そうだ。そう言う事にしよう。……それかあれだ、まだアーリーアクセス段階でバグだらけなんだな、この現実。
ねぇ神様、修正パッチはいつですか?
……とりあえず眩しいから閉めよう。
ひとまずポケットから煙草とジッポーを取り出して、寒さの支配するベランダへ出る。この状況どうすっかなーなどと思いながら、煙草に火をつけて思いっきり肺へと煙を落とし込んだ。
5階のベランダから見える景色は、程よくライトアップされた市街地。
とても函館山や川崎の工場夜景のように鮮やかで心躍らされる様な景色ではないが、それでも、少し混乱しているこの頭を冷やすには十分であった。
……けれどもやはり気になる。
冷たい夜風に晒されつつも、急速に冷めてゆく頭でふとクローゼットのことを考えた。
社会人一年目を終える頃となると、会社のことが大体……とは言っても自分の権限の中だが、ある程度は分かってくる。たった一年足らずで昇進だなんて出来る訳でもないし……。
つまる所、今の現状に飽きてきているのだ。
自分自身が結構な飽き性なのは自分でもわかっているし、煙草の銘柄をコロコロ変えてる時点でそういう自覚症状があるのも自覚している。……まぁ、最終的には今吸っているJPSに戻ってしまうのだが。
……浮気性かな? 愛人を複数キープしつつも本妻に戻ってくるというこの感じ。……こりゃ結婚できませんわ。元から結婚できない容姿と性格なんですけどね。……なんて自虐的な事を考えながらもシャワーを浴び、もう一度出かける準備を始めた。
何があるのかが未知数なので、取り敢えず煙草、ジッポー、財布、スマホ……は意味なさそうだなぁ。明らか違うところに繋がってそうだし。……あとは腕時計でいいかな?
持っていく物を考えつつ、先の短くなった煙草の火種を消して灰皿へイン。
先程まで着ていたトレンチコートを持ち、去年の初任給で買った、結構なお値段のするGショックの腕時計を腕につけ、意を決した。
……何だかワクワクしてきた。
具体的には、遠足や運動会、はたまた修学旅行の前日のような気持ち。ワクワクと不安が入り混じった、不安定でいて心地の良いこの感情。
早る気持ち抑えつつ、玄関から靴を持ってクローゼットに足を踏み入れた。あ、クローゼットの扉は閉めておこう。
流石に気分が高揚します。……なんて某これくしょんの空母のセリフが頭を過りつつも、目を閉じて足を光の中へ――――。
………………
……………
…………
………
……
…
強く閉じた目蓋越しに感じる光が弱くなった所で目を開く。すると一面が白で覆われた、まるでSF映画を彷彿とさせる様な、清潔感溢れる近未来の様な内装が広がっていた。
そして微かに香る柔らかな柑橘系の淡い匂いが幾分か気持ちを爽快にさせてくれ、何だか歓迎されている様な、嬉しい気持ちとなる。
ふと真上を見上げると、まるで蜘蛛の巣の様に張り巡らされた骨組みに、白い曇り硝子が嵌め込まれており、柔らかくなった光が差し込んでいるのが伺える。
差し込まれる光は曇り硝子という事もあってか室内を柔らかく照らしているのだが、如何せん少し埃っぽいのか、差し込まれた光はボンヤリと筋を作り出している。
その神々しいとまで感じる雰囲気と、何かが召喚されそうな光景を見て、本体名が数字2文字の某配管工のおっさんを思い出したのは内緒だ。
あの天空の帽子ステージ、初見だと意味分かんないよなー。落ちたら死ぬと思ったら死なないし。
ふと呆然と上を眺めていると、前から凛とした、「この世界は初めてですか?」という、柔らかさを含んだ声が聞こえた。その声に引っ張られて視線を下ろすと、そこにはありえない位の美人が黒いスーツに身を包んで立っていた。
妖艶で引き込まれてしまいそうなエメラルドグリーンの瞳に、透き通りそうな程に鮮やかな金髪。スラリと筋の通った目鼻立ちとスリムで色白の肌。そして何より――――。
「……エル、フ?」
そう、漫画やラノベでよくある、ピンとたった長い耳が頭の両側についていた。その自分の呟きが聞こえていたのか、彼女は少し眉を顰めつつ首を小さく傾げた。
「……何か問題でもありますか?」
どうやら何か変な感情を抱いていたと勘違いされたらしい。流石美人、黃訝しげな表情を浮かべても綺麗だ。
「あぁいや、まさか漫画やライトノベルで見ていたエルフに会えると思っていなくて……。綺麗過ぎて驚いてました」
あまりの美人さに口が滑ってしまった。誰だよ俺の口にラスペネ塗った奴。それともkure55-6か? 取り合えず靴履こっと。
「……あー、その反応は……。地球の日本から来た方ですね?」
「え? あぁはい」
靴を履きつつ彼女の問に答えると、苦笑いを浮かべて少し照れつつもそう尋ねて来た。的確なその問いに、ついポロッと答えてしまう。
「でしたら説明は短めでいいですね。そういう文化については他の世界の方々よりも一般に浸透しておりますので」
自分の回答を聞いた彼女はニコリと笑みを浮かべるのだが、現状がどうなっているのか到底理解しきれていない。とにかく、何が何だかわからないが、彼女の反応からして、やっぱ日本人ってそんな認識なんすね……。
とまぁ、彼女曰くどうやらここはラノベや漫画にありがちな異世界らしい。
時間軸としてはあちらの地球と同一になるようになっており、クローゼットに入った瞬間の時間に合わせてこちらに移動される様だ。
そして地球に戻る際もその時間がざっくりとだが合致するように魔法が組み込まれているらしく、異世界間の移動は魔法陣とあの光を通して行われているらしい。
そこまで説明を聞いた所で今まで立っていた位置に目を向けると、そこには、淡く青色に光った幾何学的な円形の魔法陣がゆっくりと回っていた。
エルフの彼女曰く、ここは協定島という島らしく、曰く、どの世界の文明を持った人間や生物でも共通の言語を喋れるように組み立てられた魔法で覆われているらしく、その人にとって一番馴染み深い言語を話している様に聞こえるらしい。
様々な文明を許容する特性上、その世界にしかない概念や言葉は相手の言葉で一番近いものを自動で選択される為、少しばかり齟齬が発生する事もあるのだとか。そして言語を統一する魔法は飽くまでこの島内にのみに適応されるもので、外へ出た瞬間にその効力は失われ、一切言語が通じない環境下に放り出されるらしい。
だが救済措置や対処策がない訳ではなく、ここ"渡航管理局"という、世界間の渡航や、この世界の他の国へ行く際に利用する場所で手続きを行うことで、地球で言うパスポートのようなものを発行される。
それに関しては他の国や領地でも共通らしく、何か困った事があったら取り敢えず行ってみると良いとの事。
この世界のパスポートはただの手帳というわけではなく、その人の様々な情報を魔法と科学の技術によって作られているらしく、パスポートの信頼性は地球のそれよりも絶対的な物になっている。
パスポートには島内に張り巡らされている魔法を付与されており、記載されている年数に応じた効力が島外でも得られるようになっている。
地球のパスポートと違う点は、更新や発行の際に期限を自由に変更出来るという点だろうか。
最短で1年、最長で30年という選択の幅の多さで、1年ごとの選択範囲がある。
例を上げるのであれば、12年13年14年15年と1~30の間であれば自由に選択できるそうだが、今この世界に来た身としては……。
「いやぁ、暫くはこの島を散策しますので、当分は必要ないかな……と」
「ですよねー。他の方々の中には手続きを済ませて取得した後、他の国へとすぐに行く猛者もいらっしゃいますので……」
「なにそれ凄い」
好奇心強すぎない? 気移り激しすぎてクイックシルバーなんてレベルじゃねぇ。
そんな返答に唖然としているの見た彼女は胸を撫で下ろす様に深く溜め息をついた。
「ここまでが最低限の説明となります。使用する通貨については、あちらの通貨管理局へ向かって説明を受けてください」
すると彼女は片手をスッと上げて俺の右後ろを指差したので、それに釣られてそちらに目を向けた。そこには大きく開かれたライトブラウンの木の扉があり、その上には通貨管理局と書かれたプレートが掲げられている。
扉越しに見えたその光景は、一言で言うのであればカオス。
様々な格好をした人や、亜人……とでも言うのだろうか。どんな言葉が差別発言になるのかわからないので、どう表現したものか。とにかく、中には服を来た動物が二足歩行で行ったり来たり等もしており、それこそファンタジー世界でよくある、他種族の入り乱れる市場をまさにこの目で見ている様な感覚になる。
何このカオスなアリス・イン・ワンダーランド。……いや、流石にトランプの兵隊とかはないからそれはないか。
「わかりました、ありがとうございます。……ではまた後でよろしくおねがいします」
先程の説明を聞く限りだと、地球に帰る際にまたこちらに寄る必要があるので、彼女に礼を述べて通貨管理局へ向かうことに。
すると彼女もニコりと笑みを浮かべ、首を少し傾けながら「はい、ではまた」と答えてくれた。……やっぱ無茶苦茶美人すぎない? さっきから心拍数爆上げ過ぎて若干辛いんだけど。
俺死ぬのかな? 取り敢えず帰ったら循環器内科に行こうかな?
説明を受けた後に隣の部屋にある通貨管理局へと足を踏み入れた。
眼前に広がるのは、まるで羽田空港の第2ターミナルの如く広く長いホールと、ひっきりなしに流れるアナウンスの嵐。
ここは先程の渡航管理局のイメージと違って白と緑を基調とされており、色のイメージとしては三井住友銀行を連想させる。
そして横にズラリと並ぶ受付カウンターの奥の壁にはびっしりと為替レートらしき表記があるのだが、そこには我らが日本円だけでなく、各種ドル、ポンド、フラン、クローナ、ジンバブエドル。……はたまたマルクやペセタ、エスクードまでもが通貨として適応されていた。……おっかしいなー、後ろ3つはもう存在しない筈なんだけどなー。
そして流石と言えるのがジンバブエドルだ。相変わらずとんでもない額のインフレを起こしてて笑える。……いや、まだ使えんの? その他にもまだ見た事もない通貨はあるのだが、マイナーすぎるのと、明らか地球上のものでは無いものもある。
と言うか、読めはするけど発音できない。
「んー……見た所大体米ドルと同じ値か……」
この世界の通貨単位は"ペイス"と言うらしく、日本円のところを見ると102.9と表示されていた。
他の地球上の通貨を見てみても、主流で使用されている通貨の為替レートはほぼ地球と大差ない値となっていた。
と言うか……。
「ここに遊びに来てるの、絶対日本人の俺だけじゃないだろ……」
なんとなく先程の彼女の説明を聞いていた時にも感じていたが、この掲示板を見て他国のレート表記がある以上、他国の人達もここを訪れて、観光なり労働なりしているのだろう。
はたまた、インターンシップの様に働きつつ技術を学んだり、学校に通ったりもしている可能性もある。何より地球とは違って煩わしいビザの関係も無くはないのだろうが、それこそ他種族を許容しているが故に結構緩そうではある。
何より島内を覆う様に掛かっている言語統一の魔法があり、言語の壁が無いという事を鑑みると寧ろ地球の外国よりも働きやすいのかもしれない。
そうなってくると気になるのが情報の持ち出しに関することだ。
これだけ大規模な異世界交流を行っている以上、何かしらの情報が出回っていなければおかしい。
ましてや地球という環境においては、インターネットという、一瞬で情報の出入力が行える物があるのだから。
それに、こんな面白いことを他の皆に知らせない理由はないだろう。逆に独り占めしたいと考える者もいるだろうが。
とまぁ、こんな事をボーっとしつつ考えていても何も始まらないので、取り敢えずは通貨の両替を行う事に。
どうやら渡航元の世界によって窓口が別れているらしく、1つだけ、妙に親近感の湧く容姿や背丈、ファッションを纏っている人達が並んでいるところが視界の右端に見えた。
……いや確かに親近感が湧くとは思ったけれどもさぁ……発音が生粋の日本人って違和感しか無い。しかも誰だよ、関西弁喋ってる奴。それに伴う容姿が間違いなく地球の外国人なんだけど……。
やっぱり外国語でも訛りがあるとそう云う風に聞こえるんかなー……なんて1人考えていると、あっという間に自分の番になった。……いや、違うからね? 緊張して話しかけられなかったとか、一切気づかれなかったとかじゃないからね?
ホントだからね? ……クソっ、悲しくなってきた。
「ようこそ。両替する金額は幾らですか?」
窓口の前に立つと同時に、まるで死んだ魚の様な濁った目で尋ねられた。目の前に座る彼は決してアンデッド系の種族でもなく、悪の道に落ちた的なサムシングではない。
余程激務なのだろう。目の下に濃い"クマ"を作り、目線もどこかを見ているように虚ろげだ。
眼鏡を掛けている分、多少なりとも目立たなくなっているはずなのだが、それでも隠しきれていない様だ。……と言うか顔立ちが同郷の人にも思えるのだが……。
「……あーっと、4万円分で……」
その何気ない筈の目線に気圧されながらも、財布から諭吉殿を4人召喚致し、彼へと少し震える手で差し出す。さらば我が財布の四天王よ。時に6人だったり1人だったり不在だったりする四天王なんだけど。
……あれ? 四天王ってなんだっけ?
彼は差し出された4枚の紙幣を少し考えるように見た後、ため息交じりに受け取った。
……確かもうそろそろデザインが一新されるんだっけか。
「……えっと、どうかしましたか?」
初めての異世界で初めての両替。と言うよりも、海外旅行を一度もしたことない自分にとっては初めての両替えである。
どこか駄目な所でもあったのだろうか……なんて思いながら彼の反応に少しばかり怯えていると、目の前の彼はきょとんとした面持ちを浮かべて小さく笑みを溢した。
その笑顔と目の隈も相まって、なんだか薄幸な人の儚げな表情にも見えたのは内緒。
「いやね、1万円札がやけに懐かしいと思いまして……。最近だとドルやユーロばかりな上、ここ五年間程、日本の実家へと帰れてないもので……。あぁ、ちゃんとした日本食が食べたい……」
彼はやはり日本人だった様で、どこか懐かしむ様な表情で呟く様に答えた。そしてふと慌てた様に手をワタワタさせ、「いえ、違うんですよ?」と何やら弁明を始めた。
「ご覧の通り最近はとても混雑しておりまして、中々休みが取れない状況なんですよ。いくら交代制のシフトと言っても、引継ぎや締め作業などもありますので、どうしても長引いて中々……。しかもここは隣の渡航管理局とは違い、結構遅い時間まで営業を行ってますので、実家に帰省する時間もなくて……」
そう心なしか苦笑いを浮かべる彼から、業務時間中だと言うのに様々な事を聞けた。
……まぁ、地球からの渡航者は自分が最後らしいから大丈夫だろう。それをわかっているのか、彼はポツポツと語りだしながら、手元の電卓で金銭の計算をし始めた。
まず、ここで両替した貨幣は元の世界へと持ち出す事が出来ず、その度に両替する必要があるということ。自分の様にこちらで働きたい、もしくは働いてみたいと思うのであれば、こちらで銀行口座を作り、そこにこちらで稼いだ貨幣を入れるのが一番楽な上に手数料なども掛からずに済むとの事。
しかも口座のセキュリティーに関してはこちらの世界の方が圧倒的に厳重らしく、魔法と科学の両方を用いた認証を行うため、本人以外は絶対に変更出来ない様になっているらしい。
そこまで説明した所で彼は右腕を掲げ、手首に掲げられた銀のブレスレットを俺に見せてくれる。
その形状はとてもシンプルで、言うなれば平たいラバーブレスレットに似ている。表面にはリングを一周する形でこの世界の文字と思われるものが黒色で刻まれているのだが、どうやら刻まれている言語は魔法の対象外の様で、俺にも全く読めない。
そのリングには破壊する事ができない仕組みが魔法と科学の両面から仕掛けられており、本当に余程の事をしない限り壊れたり錆びたりする事はないそうだ。
そして何の変哲もないそれには、この世界で生きる上での全てが詰まっていると言っても過言では……いや、過言だったらしい。
……そこまでの機能はないとの事。
確かに言い過ぎではあったが、それでも、この世界で生活をするのであればかなり重宝するもので、これ1つで身分証明証、キャッシュカード、クレジットカード、はたまた交通系電子マネーの様な媒体にまでなる。特に、この国を出て他国へと旅行へ行く際には必ず必要とされ、これがないと出入国をさせてもらえないらしい。
聞くところによると身分証明証としての役割が非常に強く、その他の機能については飽くまで特典やおまけ程度の扱いだそうだ。
しかもこのリング、なんと今なら手続きが2時間程で完了してしまうというお得期間中!! いや、……長くね?
更に更に! このリングは手続きを終えてから手元に来るまでの間に大体2週間程時間を要するとの事。……うん! ……まぁ彼曰く人間領と魔族領の両方に通達を出して、認証が下りるまでの手間があるので仕方ないとの事。
……とは言ったものの、これ1つで大体のことは済んでしまうと考えるととても魅力的である。
因みに銀行口座の開設はこの場で出来るとの事なので、ついでに頼もうとしたのだが、もう既に作り終えているとの事。
そして、今両替した金銭も勢い余って全て入れてしまったらしい。……いや、一体何してくれてんの。
先程とは打って変わって彼を睨みつけたのだが、彼はお手上げと言わんばかりに両手を掲げて溜め息をつく。
「この世界は地球とは違って、日が沈み始めるのが遅い分、沈み始めたらものすごく早いんですよ。……あとこれをどうぞ。日本で言う預金通帳の代わりになるものです。初めて装着した方の身体や魔力の情報を盗み取り、それを記録しセキュリティー情報としております。紛失しないよう、ご注意ください」
彼はそう言いつつ銀のドッグタグを手渡し、右手の人差指を天へと向けた。
その先に広がるのは、一面ガラス張りの天井に映し出される広大でいて深淵の様に黒い天空の海原。先程までは燦々と輝く太陽が上を陽気に闊歩していたが、今はその気配すら微塵に感じられず、入れ替わるように儚げに光る星達が沢山浮かんでいた。
「わかりました。……とりあえず、今日の所は地球に戻ります」
彼から受け取ったドッグタグを首にかけつつそう答えた。造りとしては結構シンプルで、裏表両方にびっしりと細かく文字が彫られており、首にかけた途端、まるで起動したかのように文字が淡い緑色に光りだした。
だがそれも少しの間だけで、すぐさま光は消えて元から刻まれていた黒い文字となった。
そしてこの後の行動となるが、流石に初っ端から夜の街をウロウロと歩くのは流石に拙い。先程こちらに来たばかりで、治安や街の状態などの情報が一切ない現状で動くのは大分危険だ。
詳しく説明してくれた彼に礼を言いつつ、その場を後にして渡航管理局の方へと戻ろうと踵を返すと、先程とは少し異なった様相が顕になって出迎えてくれる。というのも、陽が沈んだ事もあってか、周りを歩く人々の特徴が先程までと異なっているのだ。
「骸骨に狼男に、妖精、……あれはヴァンパイア? ……いや、インキュバス? しかも何あのエッロイ女の人……サキュバス?」
明らかに夜に活動していそうな、とは言ってもこの考え自体が偏見なのかもしれないが、ファンタジーでよく見る"夜"のイメージが多い種族な彼等が目の前を行き交っていた。
だがその物騒な考えからは程遠く、とても温和そうで種族の垣根を越えて楽しそうに談笑しており、中には仕事終わりであろう、少し汚れのついた作業着を纏っている人間の姿も見かけた。
彼の隣には同じ作業着を纏った骸骨や髭を沢山蓄えたドワーフがおり、3人はとても楽しそうに言葉を交えていた。
どうやら3人とも受付で呼ばれるのを待っているらしく、待機番号の書かれた紙を時折目配せしつつ今日の仕事についての愚痴やハプニングを面白おかしく語り合っている。
……先程から真新しい事ばかりが目に入るためか、目移りがいつまで経っても止まらない。……こんな事してたら埒が明かないし、日が暮れる。……いやもうとっくに暮れきって夜になっているのでどちらかというと"日が昇りそう"というのが正解に近いのだが。
そして移動した先の目の前に立ちはだかる、厳重に戸締りされたライトブラウンの扉の前で思わず「あっれぇ?」という素っ頓狂な声が漏れる。
さっきここから出てきたんだよな……と自分の間違いを考えたが、上に掲げられた"渡航管理局"の看板が無情にも現実を突きつけてきた。……きっと疲れてるんだなと思って目頭に指をあてて目を閉じてもう一度開けても、上に掲げられた"渡航管理局"の文字が変化することはなかった。
……いくらなんでも早すぎない? 恐ろしく速いクローズ、俺でなきゃ見逃しちゃうね。……見逃したからこうやって締め出し食らってるんだけどね! ガッテム!
えも言われぬ負の感情を纏いつつ先程までお世話になっていた窓口に顔を出した所、キョトンとした顔に「……あれ、どうしたんですか? 地球に戻ったんじゃないんですか?」という言葉でまた出迎えられる。なんつーかもう、負の感情が闇の瘴気的な何かに昇華しそう。
「……締め出し食らいました。開いてませんでした……」
その恨めしそうな俺の言葉を聞いた彼は何かに気付いた表情でこめかみを抑え、目を覆って溜息を一つ吐き出した。
「そうでした……。今の時期は冬季営業日程になっていて、陽が沈み切った段階で営業終了になるんでした」
そう言うと彼は続けて「申し訳ありません」と彼は謝りつつ、100と書かれた紙幣を2枚差し出してきた。……えっ、何? お詫びか何かですかね?
「……先ほど貴方が預けたお金の半分ほどです。預金残高は残りは190ペイスで、2ペイス分は両替手数料として引いてあります。因みに両替手数料は両替後の金額の下1桁分となっております」
彼から受け取った異世界の紙幣はとてもふかふかで肌触りがよく、毛羽立っているようにも思える感触だったが、表面の印刷を見る限りだと乱れている様子も解ほつれがあるようにも思えなかった。
元よりこのような材質なのだろう。
表と裏ではそのデザインが異なり、片面が中央に大きく100と書かれ、その左上には製造番号と思われる、文字数字入り乱れた刻印が記されている。
一方で右下には発行元だと思われる紙幣製造局という名前が、まるで筆を用いた様な達筆な字体で刻まれていた。自分から見て達筆な日本語に見えるのだから、言語統一の魔法がかかっていない状態であっても達筆なのだろう。
もう一方の裏面はと言うと、トランプの様にそれぞれの向きから見える様に上下反転させた文字が左上と右下に刻まれ、左側にはこの世界の羊と思われるそれが印刷され、右にはたわわに実った麦畑らしきものが印刷されていた。
しかも左右の絵もそれぞれ上下反転されており、隅に刻印された数字とマッチするように作られている。
「それで今後のご予定……。強いては明日までのご予定なのですが……」
じっと受け取った紙幣を眺めていると、窓口の彼から恐る恐る話を切り出された。
確かに、朝までこのまま歩き回っているっていうのも面白くない。むしろ拷問。かと言って地球のホームレスよろしくそこらの道端で眠りにつく訳にもいかない。
治安がどうなのかもわからない上、最悪警察的な方々にお世話になる可能性だってありえる。更に言うなれば、現在は用事を済ませて帰宅した状態のまま来たと言うこともあって、出来ればベッドでしっかりとした眠りにつきたい。
様々な事が頭を回り、思わず深く思案してしまう。
「宿泊場所ですが、このまま入国手続きをして建物を出たところにある、商業地区行きの魔方陣に乗る事で移動できますよ」
その考え事の内容を知ってか知らずか彼はそう言いつつ、横に長い通貨管理局の左側に手を向ける。そこには、まるで高速道路の料金所のようにゲートが幾つも並んでおり、そこへ行って入国手続きをしろという事らしい。
一方で反対側である右側には一般の人達が入るための出入り口があるのだが、如何せん、セキュリティーがあるようには思えない。
だが見えないだけで、魔法やら化学やらの技術力によって守られているのだろう。
とにかく、ここを抜けなければ話にならない。この世界の初めての街がどのような場所なのかも確認したい気持ちもある。寧ろそれしかない。
今しがた宿泊施設がある事を聞いたので、取り敢えずは一安心だろう。今日はもう地球に帰れないと分かった以上、最早自分を縛るものはない。
……なんてカッコつけて見たはものの、結論を言ってしまえば締め出されただけなので、格好もクソもあったものではない。