雨粒のプレリュード
一歩踏み出せば、降りかかった悪い事全てを洗い流してくれそうだった。
それくらい、激しく雨粒が空から攻撃を仕掛けている。
レンガの表面はとっくに水分を吸いきれなくなって、隙間で小さな川を作り出していた。
その流れに乗れるのは、小さな虫くらいだ。
人間の私じゃ無理だなぁ。
「ウィンディ……いつまでよそ事を考えて、現実逃避してるんだ?」
冷徹な声が、背後から投げられた。
ぎろりと振り返ると、真顔で私を見据えている血の色をした瞳と視線がぶつかる。
銀色のツインテールは、雨で湿気ることなく、微風にさえ揺れている。
どこの美少女なのかしらね、こいつの存在って。
「私はね、柊と違って雨に濡れるの。風邪ひきたくないの」
黙ってれば可愛い系女子の柊からついっと視線をそらして、私はそう反論する。
柊は死神だから、この物理的な苦悩を分かってくれないのよね。困ったもんだわ。
すると、後ろから柊の盛大なため息が聞こえた。
「降水確率が八十パーセントを越えてるのに、傘を持ってこなかったのは誰だ?」
痛いところを突かれて、私は言葉を飲み込むしかなかった。
そう。今日は雨だってママも言ってたけど。
「もぉ絶対パパが悪い。風邪ひいて寝込んでるパパが悪いっ!」
ママがパパの面倒を見るので手一杯だから、私に傘を持っていくように最後に言ってくれなかったんだもん。
朝は忙しいから、いっつもバタバタして、すぐ忘れ物しそうになる。
その度ママが慌てて呼び止めてくれるから未遂で終わってるけど。
「……いい加減親離れしろ……。十七だろう……」
やれやれと頭を振りながら、柊が私の脇を掠めた。
降りしきる雨の中に踏み出しても、柊に雨が染みることはない。
ぱらぱらと弾かれて、地面に落ちる。
それはそれで不思議な光景だって、いつも思う。
あと、言わせてもらうと私が親離れ出来てない以上に、パパはママ離れ出来てないからね。
「イースを呼んでくる。少し待ってろ」
横顔を見せて、柊はそう私に命令した。
私は返事の代わりにひらひらと手を振る。
急ぐ様子もなく、柊の目立つシルエットが遠くなっていく。
何かと世話を焼いてくれる柊。
私の魂の狩り手、らしいけどよくわからない。
口うるさいし、女装趣味だし、でも、柊は死神なんだ。
何か深い未練を抱えたまま死んでしまったかつての生者。
柊は、どんな未練を抱えているんだろう。
その未練は、私と一緒に居て、解消される日はくるのかな。
「何か、私らしくないや」
ふう、とため息を吐けば、少し寒いせいか一瞬だけ白くなる。
雨って、何だか気分を重くする。
センチメンタルを呼ぶのは、きっと雨が空の涙だからだ。
◇◇◇
「ほーんと、ウィンはお子様だよねー。頭だけはいいのに」
「イースはホント口悪いわよね。天使のくせに」
「天使が良い子だなんて、そんなの下々の考える理想像だよ。押し付けて欲しくなーい」
ブルーのレインブーツで水たまりを進むイースは、煌めく笑顔で今日も毒を吐く。
春を纏ったみたいな長い桃色の髪を靡かせて、その笑顔だから傍から見ればイメージ通りの天使そのものに違いない。
実際は、流暢に悪口を紡ぐだけの素行の悪い天使だけどね。
下々とか言うあたり、いかにイースが上から見下してるかがよくわかる。
「そうだ、ウィン」
ぱしゃんっ、と軽くジャンプしたイースが飛び込んだ水たまりの水が激しく跳ねる。
先を歩いていたイースは振り返って、満面の笑顔で告げた。
「琴が、帰ったら代行の件で話がしたいって」
「……つまり仕事でしょ?」
眉をひそめる私に、イースはくすくすと肩を揺らして笑う。
代行は、私の存在を繋ぐ意味では不可欠な要因だ。
それを真面目くさって、いつも柊は確認するんだよね。ひと手間加わっただけで、それから逃げられるわけもない。
すっごく無駄な作業だと私は思ってるし。
「そうでもしないと、琴は代行させることに納得できないんだよ、きっとね」
「心配し過ぎよ、柊は。私は私がしたくてやってるの。しなきゃ、私は未来がないんだから」
「ウィンは少し自意識過剰だー」
けらけら笑うイース。
私以外、その件で厄介を抱えてる人なんていないのにその返しとはね。
何か、いつも通りだけどムカつくわ。
少しだけ弱まり始めた空を、イースが持ってきてくれた傘を傾けて見上げる。
鉛色。
こんな日に仕事を受けるのは、正直あんまり好きじゃない。
でも、それが私の存在するための条件なんだ。
まったく、運命代行が使命の魔法少女も、楽じゃない。
◇◇◇
小さなパンが半分と、ほとんど水に近い、僅かばかりの野菜が浮いたスープ。
お腹が満たされるなんて考えられない少量の食事。
それが、精一杯の生活。
「これもお食べ」
半分のパンを私に差し出した手は、武骨で、でも大きくて。
包み込むような優しさを感じさせる手だ。
そっと両手でパンを受け取り、私は笑顔を向ける。
「ありがとう、お父さん。でも大丈夫だから、お父さんが食べて。明日も仕事なんだから」
「いいんだ。お父さんはお前たちにたくさん食べて、その分早く大きくなって貰って楽をするんだから」
ウィンクをするその顔は、若干こけている。
明らかに栄養不足だ。お父さんだけじゃない。お兄ちゃんも、お母さんも。
……まるで罰ゲームね。
◇◇◇
自室に戻ると、イースと柊に目もくれず、私はベッドの下から鞄を引っ張り出す。
鞄の中には、非常食としてのお菓子。クッキーの袋を乱雑に開けると、間髪空けずに一枚口に放り込んだ。
ああ、染み渡る。少し口が渇くけど。
「ウィン、もう少し物語の主役になりきる気ないの? 折角の主人公なのに。ヒロインだよ! ウィンらしくないヒロインポジ!」
「るっさいわね。殺人ヒロインなんて嬉しくないわよ!」
もそもそとクッキーを頬張りつつ反論。
イースはにやにやと楽しそうな笑顔を浮かべ、柊は呆れた様子で頭を振った。
そう。
今回は代行初のヒロインだ。
一瞬でも喜んでしまった自分を呪いたくなるような存在だけど、ヒロイン。
地味なスカートに縫い付けられた大きなポケットから、私は文庫本を取り出す。
とある物語の先頭ページ。そこに貼られた付箋紙を目安に本を開いた。
『ヘンゼルとグレーテル』
晴れて主役の座を戴いた私ではあるけれど、この物語のヒロインは凄まじい。
かまどの魔女を焼き殺すという犯罪をやってのける最悪級の主役だ。
物語のヒロインがいつも清廉潔白、純粋無垢とは限らないわけだ……。
「継母の方がよっぽどましだわ。ああもう、ママのご飯が食べたいなぁ」
この空腹は、パパじゃなくても辛い。
さくさく口の中で砕けるクッキーの名残を感じながら、思わずぼやいてしまうくらいには。