未来までの二歩
「ただいまぁ、エルミナ」
「あ、おかえりー! 大丈夫だった?」
「……流石に消滅の危機を感じたわよ……」
うわぁ、お疲れさま、と笑ったエルミナ。笑顔が引き攣ったのは言うまでもない。
手早く人数分のお茶を用意してくれたガディにお礼を述べて、私は一つため息を吐いた。
「……その様子だと……輪廻の輪に行っちゃった?」
「知ってたら事前に教えてくれてもいーと思いまーす」
イースが咎めたのを、柊が即座に睨み付ける。その辺りは容赦ない。
エルミナは額に手を当てため息を一つ。
「ココルちゃん早いよぉ。……ウィンディちゃんの件が終わってからにしようって言ったのに」
「時間もないとは言ってたけどね。まぁ確かにあそこまで進んじゃってると、引き戻すのも一苦労だったもんねー」
「良かったな、もう一階層進んでなくて」
「ホント。最悪なメンツと顔合わせるところだった」
柊の言葉に、イースは肩をすくめる。
その口ぶりだと、イースはあの先を知ってるってこと?
じっと真意を窺うために睨むようにイースを見つめていると、イースは私の視線に気づいた。
「うわ、ウィンが私を犯罪者の目で見る!」
「そんな目してないわよ!」
「してるしてるー!」
けらけら笑うイース。だけどそれは案外煙に巻こうとしてるのかもしれないけど。
ふと、イースは笑みを収めて、頬杖を突く。
「そうだよ。元々私はあそこにいたんだよね。でも面白くないっていうのと約束したからね」
「……約束?」
「そう。りぃくんとの約束」
誰だろう。分からないけど、イースは凄く懐かしそうにしていた。随分前の事なのかもしれない。
「だからウィンには目一杯暴れてもらって、私が居なきゃもっと大変なことになってたんだ! って思わせないといけないんだよ、うん」
神妙な顔をして頷くイースは、またとんでもない事言ってるし。
まったく、しょうがないわね。苦笑が零れてしまう。
「……何かまた一つ、目標が見つかったんだね、君は」
不意に話しかけてきた旦那さんに、私は視線を向ける。
老眼鏡だって言ってた眼鏡の位置を直しながら、穏やかな笑みを浮かべていた。
何でもお見通しって感じかな。
「うん。……助けてあげなきゃって、思うんだ。……だから私は、もっと強くならなきゃ、体も、心も」
そうして、私は四方平坂も助けてあげたい。
出来れば、シャドウも。私の目の前で悲しむ人がいるのは、何だか悔しいもの。
「きっと、君なら出来るよ。……そんな気がするんだ」
「ありがとう。……そう言ってもらえると、私も頑張れる気がする。あっ、そうだ!」
カップを置いて、私は旦那さんに向き直る。
小首を傾げた旦那さんに、私はお願いを口にする。
◇◇◇
「あー……まだ駄目っぽいんだね」
透明な繭の中では、相変わらず溶けたり形成されたりを繰り返す赤ちゃんがいる。
でも懸命に生きてることに対して、疑う余地もない。
「抱っこしてみたかったんだけどなぁ」
「いつでも会いに来ていいんだよ……って言ってあげたいところだけど……ウィンディちゃんは、そうもいかないんだよね」
「ウィンディにはゲートパスの付与があるわけじゃないですからね」
柊の発した言葉に、エルミナたちは納得してたけど、私にはさっぱりだ。
まぁいいか。残念だけど、この子とはこれっきりなんだろう。
……でも、一つ聞きたかった。
「この子、生まれてからどれくらいになるの?」
「そうだね……三十年は、こんな状態かな」
旦那さんの口振りは凄く短いって感じだけど、私からすれば私の倍は生きてることになる。
そしてきっと、この子がここから出るには私の何倍もの時間がかかるんだろう。
でも、分かった。それだけでも十分だ。
「……ありがとう」
そっと、私は感謝の言葉を届ける。誰にも聞こえないように、小さな声で。
ほんのちょっとだけ、顔が緩んだ気がする。笑ったのかな。
「そういえば名前、聞いてなかった」
「キエラだよ」
「そっか……良い名前だね。……いつか話せる日が来るといいな」
優しく、透明な繭を撫でる。
私と、四方平坂と、キエラは何か似てるね。
存在したいのに、上手くできないんだ。でもね、だからこそ私は頑張ろうって思う。
二人のために、私は手本となれるような生き方をしなきゃって思う。
振り返ると、イースと柊がそれぞれの表情で私を待っていた。
――帰る時間は、別れの時間だ。
「ばいばい、キエラ。……見ててね」
貴方の時間を、私は借りてたはずだもの。その恩に、私は報いなきゃ。恥じない背中だったことを、いつかエルミナや旦那さんから伝えてもらいたいから。
「ご苦労様、ウィンディちゃん」
「ありがとう、エルミナ。……さよなら」
握手を交わす。契約終了の合図だ。
手が離れると、私の意識は急激に霞む。笑って手を振るエルミナと、それに穏やかに寄り添う旦那さんが、最後まで見える。
私も、そんな人に巡り合えたらいいな。
――そして瞳を開けば、ノートが広がっている。
帰ってきたんだ、私の運命に。
机の上でカチカチと時を刻む音に目を向ける。
十時……外は暗いし、夜だっけ。広げていたテキストとノートに、欠伸を一つ。
仕事前に、つまり意識を切り離す前に書いたであろうメッセージがノートに一行。
『明日までの課題! 残り二十五ページ! 急げ!』
絶望的な気持ちになった。
「あははっ、帰ってきたと思ったら過酷な現実だねウィン」
「笑ってないで手伝いなさいよ?!」
「それはお前がなすべき課題だ。学校に通っているのは俺じゃない」
こういう時はさも当然とばかりに突き放すのよねこいつらっ!
鬼悪魔! ああもう!
ノートとテキスト、筆記用具を胸に抱え、私は部屋を飛び出す。
「パパぁッ! 勉強教えてぇぇっ」
こういう時くらい甘えさせてもらうからね、パパ!