解決(Lösung)
室内を、闇と静寂が覆っていた。私は皿に乗ったパン屑を指先で弾きながら、物語の全体を反芻していた。くだらない話だ。それが、私の第一印象だった。
「面白い事件ね」
「……そうかな。私にはつまらなく思えるがね……」
「殺人事件をつまらないだなんて、あなたも酷い人ね!」
私は、幽霊へと視線を向けた。彼女は前屈みになったまま、入口のそばに立っていた。鼻が慣れ始めたのか、堪え難かった異臭も、今はほとんど感じられなかった。
「マリー、君はこの事件を、面白いと思うのだね……?」
「そうよ。恋する乙女が求愛されたその日に死ぬなんて、ロマンチックじゃない?」
「……殺人事件をロマンチックとは、君も酷い女だね」
「あら、これはしてやられたわ! でも、この事件の真相は明らかよ!」
女は、微かに身じろいだ。私はひとまず、マリーに喋らせようと思った。哀れな自称幽霊を、少々からかってみたくなったのである。瀆神的と蔑まれるかもしれないが、私は警察でもなければ、私立探偵でもない。ただの旅芸人だ。この事件を紐解く義務など、持ち合わせていなかった。
「ほお……では、君の推理を聞かせてもらおうか……」
「簡単よ! 犯人はフリードリヒだわ!」
マリーの声高な宣言に、女は言葉を返した。
「私を愛した人が、私を殺したと仰るのですか……?」
「私も、それは聞き捨てならないね。理由を教えてもらおうか……?」
「フリードリヒは言ったでしょう。『眠り姫』(Die schlafende Prinzessin)の衣装を持参するって。これが死体消失のトリックよ。あなたと別れたあと、フリードリヒは屋敷のどこかに潜んでいて、また舞い戻ったんだわ。そして、あなたがウィルヘルム叔父さんに事情を話したと勘違いした挙げ句、激情してあなたを殺しちゃったの。死体の隠し場所に困ったフリードリヒは、あなたの死体に眠り姫の衣装を着せて、そのまま村の外へ運び出したってわけ。出会う人には、眠り姫の演技だと思わせて、彼女が死んでいることを隠したんだわ」
私は深呼吸すると、続いて唇を動かした。
「その推理は成り立たないね……」
「どうして⁉ 理由を言いなさいよ!」
「……いいかい。眠り姫のアイデアは、屋敷から連れ出すためではなく、町中で目立たないようにするためのものだよ。仮装させたマルガレータの死体を持ち出すなんて、見咎められない方がおかしい。仮に死体を持ち出すことができたとしても、警察があちこち聞き込みに回れば、すぐに怪しまれてしまうだろう。被害者に似た女を担いだ青年が、村や列車の中をうろついているのだからね。トランクに入れて運んだ方が、よほど安全かもしれないな」
そこで私は、女を盗み見た。
女は、ぼんやりと耳を傾けているようだった。
「だったら、トランクで運べばいいじゃない!」
「……それも難しいだろう」
「……さっきは安全だって言ったじゃない!」
私は溜め息を吐き、先を続けた。
「建物の構造を思い出してごらん。寝室は二階にある。マルガレータが就寝中に殺されたとすれば、彼女はそこにいたはずだ。どうやって死体を運び出す? 召使いがうろついているし、庭の方では、大勢の人夫たちが、池の工事をしているのだよ。大きな荷物を運んだりしたら、途端に見つかってしまうだろうね」
「……そんなことないわ! 現にフリードリヒは、誰にも気付かれず、マルガレータさんの寝室へ忍び込めたじゃない!」
「……それは勘違いだよ」
私の言葉に、女の黒髪がなびいた。
「どこが勘違いなの! フリードリヒは、マルガレータの寝室へ忍び込んだんでしょ! 長持ちの後ろに死体を隠して、あとで取りに来たのかもしれないわね!」
「……それが勘違いなのだよ。密談の場へ現れた召使いは、ノックしたあとで何と言った?」
「……『そこにいらっしゃるのはどなた』だったかしら?」
「……そう、そして『このような時間にどうなさったのですか』ともね。マルガレータが自分の寝室にいたとしたら、これらの台詞は不自然じゃないかね? 彼女の寝室にいるのは、彼女自身と相場が決まっている。だから密会の場は、寝室ではなかったんだよ……そうですね、マルガレータの幽霊さん?」
私の問いに、女は肩を揺らした。
「はい……あなたの仰る通りです……」
「じゃあ、どこで会ったって言うのよ⁉」
女が答える前に、私は言葉を継いだ。
「マリー、それは簡単だよ。フリードリヒは、一階のどこかへ上がり込んだのさ。無論、館の正面ではなく、裏手だろう。だから、入るのも出るのも、簡単だったと言うわけだ」
「……それはおかしいわ!」
「……なぜだい?」
「……だって前庭には、人夫がたくさんいたのよ。いくら裏手に回っても、途中で見つかるに決まってるわ! 柵越えなんかしたら、物音で不審に思われるでしょう!」
私は、額の汗を拭った。肉体労働が芸人の務めとはいえ、これほどの長丁場は、さすがに堪えた。自分の老いに苦笑しつつ、私は先を続けた。
「トリックは簡単だよ。その日は、小雨が降っていた。だから人夫たちも皆、レインコートを着ていたはずだ。色違いの雨具がそばを横切ったところで、誰も不審には思わないだろうね。人夫からは召使いと、召使いからは人夫と受け取られるに違いない……」
「レインコート? ……分かったわ! それでフリードリヒは濡れていなかったのね! 傘と勘違いしてたわ! ……ちょっと待って! 確か召使いは、三十分ほど人夫にお茶を振る舞ったんでしょう? その間なら、死体を運び出せるわ!」
私はつばきを飲み込み、抗弁に取りかかった。
「それは無理だね……」
「どうして? 誰も見ていないでしょう!」
「……その三十分は、マルガレータが眠りにつくまでの時間なのだよ。フリードリヒが館内に戻れたとしても、今度は彼女が気付いてしまう……それに、どうやってフリードリヒは、マルガレータの指図を予知することができたんだい……?」
「それは……」
私は呼吸を整え、ハンカチで額を拭いながら、唇を動かした。
「では、そろそろ私の推理を……」
「待って!」
再びマリーの出番だ。私はうんざりしたように、しばらく間をおいた。
「何だい……?」
「今度こそ犯人が分かったわ! 犯人はウィルヘルムよ!」
幽霊は動じず、薄汚れた服を燭台の光に浮かび上がらせていた。
私は大きく息を吸い、ゆっくりと話を進めた。
「それは、単なる消去法だろう……?」
「違うわ! トリックも当ててあげる! ウィルヘルムは姪の財産を独り占めするため、口実を作って屋敷に上がり、彼女を殺したのよ! そして、旅行用の荷物に死体を詰め込んで、そのままマインツへ持ち出したんだわ!」
「……ないね」
「……どうして? 動機は十分なはずよ!」
私は指先のパン屑を払い、腰を据え直した。
「理由を説明しなさい!」
「……女主人が行方不明になって、はいそうですかと、そのまま旅行に出ることができると思うかい? 当然に警察が来て、家人から事情を聴くだろう。旅行は中止したと考えるのが妥当だよ」
「……でも、ウィルヘルムには急用があったんでしょう?」
「……その急用の中身を思い出してごらん。すべて、マルガレータに関わるものだ。彼女がいなくなったら、その捜索が優先される……そうではありませんか?」
私は幽霊へ向き直り、前髪の奥を覗き込もうとした。
女は位置を変え、私の視線を避けながら、こう答えた。
「その通りでございます……叔父様たちは、ヴィースバーデンへの旅を諦め、屋敷に残ったと聞いております……」
女の消え入るような声に、燭台の炎が揺れた。私は、どこからか風が吹き込んでいることに気付いた。そして、茶番の幕を引くことに決めた。
「さて、私も疲れてきました。もう終わりにしましょう。マルガレータさん……いや、本名は存じませんがね。あなたのお話は、大変よくできています。おそらく、当時の新聞やこの村の子供たちからネタを仕入れて、継ぎ接ぎをし、話の辻褄を合わせたのでしょう。けれども作り話は、やはり作り話なのです」
「……何を仰っているのかしら?」
私は女を無視して、燭台を手元に引き寄せた。目元が霞むのだ。とはいえ、その老いた瞳をもってすら、彼女が幽霊に見えることはなかった。
「あなたの話には、いくつもの矛盾があります……まず、この館の窓は、上げ下げ式で統一されています。開き窓ではありません。ところがあなたは、窓を手前に引いたと仰る。館の主人としては、ありえない勘違いです。次に、召使いの台詞。彼女は、あなたのお母さんの容姿を、『サファイア色に澄んだ目』と表現しました。目が見えないはずのあなたには、理解不能な比喩です。しかも、盲目の主人の前で……召使いの身として、不適切ではないでしょうか?」
女は黙っていた。肯定も否定もしなかった。
しかし、絶対の自信を持っていた私は、先を急いだ。
「三点目。お話によれば、あなたの寝室は南向きのはずです。ところで、この館の南側はちょうど、前庭に面した部分に他なりません。向かって左手にある池の方角へ、太陽が沈むのですからね。前庭に木が一本もないところを見ると、あなたの部屋は日中、かなり暑くなるはずです。それなのにあなたは、一日中快適だったと仰る」
私は息を継ぎ、勢いに任せて捲し立てた。
「フリードリヒとの回想シーンでも、ミスを犯しています。村へ行くのに、馬車を使われたそうですね。しかし、この屋敷から村へ続く道は、とても馬車が通れるような広さではないのですよ。これは私が、身を以て体験したことです」
女は逃げるように、入口へと歩み寄った。
私は燭台を手に持ち、彼女を照らし出した。
乱れた髪の奥で、幽霊に相応しからぬ、意志の強そうな瞳が光った。
「次に、時代錯誤な点をあげましょう。この館はロココ調、十八世紀の建築様式で建てられています。ところがあなたの話には、三十年戦争で難を逃れた人が登場する。三十年戦争は、十七世紀初頭の戦争です。時代が合わない。役場ですら、一七九二年に作られています。この村は、それほど長い歴史を持たないのですよ」
私は肺を空っぽにして、追及を終えた。長過ぎる遊びだったかもしれないが、暇つぶしにはなっただろう。そんなことを考えていると、女が口を開いた。
「では、私は誰なのでしょうか……幽霊でないとすれば、いったい……?」
「あなたは一度だけ、出自を漏らす発言をしましたね」
「出自……?」
「あなたは『気晴らし行列』(Gaudiwurm)という言葉をお使いになられた。これは、バイエルン方言なのです。このあたりでは普通、『謝肉祭行列』(Karnevalszug)と呼びます。最近、東から来た芸人一座が、この村で宿を拒否されたそうですな。あなたの身のこなし、小道具、流暢な喋り方、綻びはあるけれどもよくできた台本……つまり……」
女は両手を叩き、私をじっと見据えた。
拍手は次第に大きくなり、ふたりの見知らぬ男も加わって、私を祝福してくれた。
「素晴らしいですわ」
女は、くぐもった声を捨てて、明るい賛辞を述べた。
「フィリップに台本を任せたのが、失敗だあな」
衣装棚から現れた屈強そうな男が、ニヤつきながら口走った。手には、懐中電灯を握っていた。
「よく言うよ。二日で書き上げたにしては、よくできてるんだ。ちょいと相手が悪かっただけでさあ」
小柄な痩せこけた男が、女の後ろに立っていた。手には扇を持ち、それを指先でこねくりまわしていた。私は扇の文様に目を留めつつ、この喜劇役者たちを糾問した。
「どういう了見なのかね? 悪戯にしては、度が過ぎている」
私のなじるような視線に応えたのは、幽霊役の女だった。
「怒らないでくださいませ。私たちは、この村で五十年前に起こった殺人事件を知り、それを舞台化しようと思いついたのです。こうして取材に来たところ、宿屋が見つからず、せっかくなので館に泊まってしまおうという話になったのですよ」
「そしたら、あんたが来たってわけだ」
大柄な男が、意味もなく笑った。私は憮然として、燭台の炎を見つめていた。
「ところで、もうひとり女がいやせんでしたか? 彼女はどこに……?」
フィリップと呼ばれた小柄な男が、辺りをキョロキョロと見回した。あまりマリーの姿を見せたくないのだが……日頃から衆人に晒されている彼女のことだ。文句は言うまい。私は燭台を傾けながら、小柄な男に言葉を返した。
「この部屋には、私ひとりしかいないよ……ずっとひとり旅でね……」
三人の目が見開かれるのを、私ははっきりと感じた。背後にいる大男の動揺すら、手に取るように分かった。
「じゃあ、さっき喋っていたのは、誰なの?」
「紹介しよう……彼女が私のパートナーだ」
私は、マリーを照らし出した。
この世で最も愛おしい女性が、闇の中に浮かび上がった。
「……人形⁉」
女は悲鳴を上げた。無理もない。マリーの精巧さは、人を欺くのみならず、囁かな恐怖を植えつける。美しいブロンドに、小鳥を思わせる繊細な顎、眼孔には、サファイアの輝きを秘めた義眼が埋め込まれていた。
「いや……しかし……あんなに上手く……⁉」
大柄な男は、懐中電灯を落としかけた。
私の正体を察したらしい。
「あんた、腹話術師のレードナーさんですかい⁉」
私は、感慨もなく頷き返した。大男はベレー帽を脱いで、恐縮した。
「こいつは失礼致しやした……まさか、ヨーロッパで名の知れた芸人さんに、ちょっかいを出してるとは思ってやせんで……それにしても、どうしてこんな田舎に……?」
「ここは、私の故郷なんだよ」
私の言葉に、小男が飛び上がった。
「ちぇッ! やっぱりそういうことかい! 道理でこの館や村に詳しいわけでさ!」
「なるほどねえ。電灯のスイッチを難なく当てたり、台所や居間を簡単に見つけたり……そういうことだったんだ……」
「おい、コラ! レードナーさんに失礼だろうが!」
大男は拳を握りしめ、仲間をどやしつけた。
私は、ある疑問と格闘していた。
「ひとつ尋ねたいのだが……フリードリヒとマルガレータの会話は、君たちの創作かね? それとも、村人から……?」
「ええ、村人からですわ。廊下にいた召使いは、会話を盗み聞きしてましたの。最後の方は聞き取れなかったらしく、彼女もフリードリヒに好意を抱いていたので、それを周囲に漏らしたのは、死ぬ間際のことだったとか……」
「そうか……イザベラが……」
私は口を噤み、燭台をテーブルへと戻した。
三人の会話は、さきほどの劇に移ろっていた。どうやら女の体臭は、扇で馬糞の山を仰いだものらしい。本来なら侮辱に当たる行為も、今は無に等しかった。私は、過去を想った。遠い過去を……イザベラが聞き逃した、いくつかの言の葉を……。
ふと、大男が私に向き直った。
「ところでレードナー先生、お願いといっちゃ何なんですが、この哀れな芸人どもに、ぜひその技を見せていただけやせんかね。もうたっぷりとお聞かせいただいたんですが、人形と分かれば、また違う楽しみ方ができるかもしれやせんので」
三人は食い入るように、私とマリーを見つめた。
……いいだろう。半世紀を経て、すべては歴史に埋もれ去ったのだ。
私は口の端に笑みを浮かべ、声帯を震わせた。
「私の名前はマルガレータ。マリーって呼んでね」