証言(Zeugnis)
あれは、数えで十七を迎えた年のことでございます。四年前、父と母を失った私は、叔父の後見に服しておりました。曲がりなりにもこの館の主、気丈に振る舞っておりましたが、身の回りの世話は召使いたちに任せきり。心苦しい生活ではありましたものの、それなりに満足した日々を過ごしておりました。
当時、盲しいというものは、大変な障害でございまして、結婚など夢のまた夢という心境でした。叔父もそのことは承知していたようで、縁談を持ち込むこともなく、躾けについてあまり五月蝿くは仰りませんでした。召使いたちのなかには、私が跡継ぎなしで死ねば、遺産はすべて叔父のものになるのだと、陰口を叩く者までおりました。殺された今となっては、確認する術もございません。
村の娘たちとは、およそ付き合いませんでした。私が彼女らを避けたのでも、彼女らが私を避けたのでもなく、始めから異なる世界の住人でございました。私は自分の寝室を、館の二階、南に面した窓際へ設けさせ、召使いたちに本を読ませておりました。夏場も快適なその部屋で、一日一日を、恋の物語に費やしていたのです。外界の光を断たれようとも、魂の光までは遮れぬものでございます。年頃の娘らしく、恋に恋しておりました。
見たこともない男女の仲を想像するのは、なかなか難しゅうございました。鏡を覗くことも能わず、自分の器量が果たしてどれほどのものなのか、空想の中の私は、ころころと面立ちを変えている有様でした。あるとき召使いのひとりを掴まえて、次のように尋ねたことがございます。「ねえ、私の顔は、誰に似ているのかしら」「お嬢様は、亡くなられた母君と、よく似ておられます」「母は、どのような顔をしていたのかしら」「優美なブロンドのご夫人で、鼻は高く、顎は小鳥のように繊細で、サファイア色に澄んだ目をお持ちでした」「まあ、からかっているのではないでしょうね。ブロンドのドイツ人は珍しいと、本で聴かされましたよ」「滅相もございません」云々。
……失礼致しました。自画自賛は慎ませていただきます。ともかく、嘘か誠か存じませぬが、人目に耐える器量であると信じ、いつかは奇特な殿方が現れるのではないかと、私は淡い期待を抱くようになりました。そしてその年の二月、恋は突然、私の前に姿を現したのでございます。
小雨舞う、週末の夜でした。雨樋から滴る水に耳を澄ませていると、誰か窓を叩く者がありました。召使いが戸を叩いたのかと思いましたが、確かに窓の方から聞こえて参ります。私は手探りで窓辺に近付き、掛けがねを外して手前にそっと引きました。すると、外から人の手が伸びて、私の肩に触れたのでございます。私は悲鳴を上げかけました。
「お嬢さん、夜分に失礼」
若い男の声でした。聞き覚えがございました。
「フリードリヒ! どうしたのですか、こんな夜中に? なぜ窓から?」
「マルガレータ、実は君に用事があってね……中に入ってもいいかい?」
私が曖昧に頷くと、フリードリヒは絨毯に足を下ろしました。窓を閉め、冷たい風を追い出すと、部屋の鍵を内側から掛けたのです。昔馴染みでなければ、私はとうに大声を立てていたでしょう。フリードリヒの様子がおかしいことは、目の見えない私にも、はっきりと伝わって参りました。
「服がお濡れでしょう。暖炉にお当たりください」
「いや、大丈夫だ。濡れてなんかないさ。それより、君と話したいことがある」
フリードリヒの声が奇怪な真剣味を帯びていたので、私は少々身構えました。誤解を恐れずに白状致しますと、私はこの青年に、気があったのです。お互いの両親は生前親しくしており、私たちも子供の頃から屋敷で遊んだり、馬車に乗って村まで散策した仲。自然と情も湧いて参ります。
とはいえ、盲しいた身では、そのような想いを告げることもできません。十六の誕生祝いに、彼からもらった日傘をさして、野辺を歩いたのが最後。便りも届かぬ日々が続いておりました。召使いたちに消息を尋ねたところ、医学を修めるため、ウィーンへ旅立たれたとのこと。しばらく陰鬱とした日々を過ごしたのち、叶わぬ恋と諦め、私も幾分かは割り切っておりました。
そのフリードリヒが帰って来たことへの歓喜と戸惑い。殿方には、察しがつきかねるかと存じます。そして次の一言が、私の愛の蝋燭に、火を灯したのでございます。
「マルガレータ、僕と一緒に駆け落ちしよう」
「え? 何と仰って?」
「駆け落ちしよう。君がどう聞かされているかは知らないけど、僕はずっとフランクフルトにいたんだよ。親父の病院が忙しくて、そこで手伝いをしているんだ」
「でも、あなたはウィーンに発たれたと……」
困惑する私の頬に、彼の吐息があたりました。
「そうか……そういう風に伝えられているのか……マルガレータ、それは、叔父さんの嘘なんだよ」
「嘘……?」
「そうだよ。僕はずっと前から、君のことが好きだったんだ。だから、君が十六になったとき、思い切って叔父さんに相談したのさ。結婚させて欲しいってね……何を驚いているんだい? 僕の気持ちは、とっくに察してくれていたものと……まあ、恋なんて、お互いに盲目だからね……おっと、失礼」
「構いません。それより、叔父様の嘘というのは?」
叔父から隠し事をされているなど、夢にも思っておりませんでした。いかにフリードリヒの言葉といえども、すぐには信用しかねたのでございます。
「叔父さんは、君との結婚に反対なんだよ。理由は、君の目が見えないかららしいけど、僕は構わないと言っているんだ。どうして叔父さんが、気を遣わなきゃならないんだい? もちろん、そんなのは嘘なんだ。君と僕が結婚して子供ができれば、叔父さんは遺産を手放すことになる。だからウンと言わないのさ」
私は、目眩を覚えました。愛する人に告白された喜びと、肉親に欺かれた悲しみとが、霧雨のように入り乱れ、私を苛んだのです。熱に浮かされた私が、手を伸ばしてフリードリヒの居場所を探ると、彼は私を引き寄せ、その温かな胸で包み込んでくれました。
「これまで散々説得したけど、埒があかない。もう駆け落ちするしかないんだ。そして、君を僕のものにしようと思う。永遠にね。明日の夜、一緒にアムステルダムへ発とう。あそこには親父の仕事仲間がいて、職場と住む場所を紹介してくれるからね」
「明日の夜ですか? なぜそんな急に……?」
「どうやら叔父さんは、僕たちの計画に勘付いたらしい。この前、勤め先へ退職願いを出したんだけど……これがどうやってか、叔父さんの耳に入ってしまったんだよ。『年金』(Pension)で暮らす歳でもないし、少し早まってしまったな……いずれにせよ、すべては君の決断次第なんだ。ついて来てくれるね?」
私がまごついておりますと、ふいにノックが聞こえました。
私はフリードリヒから飛び退き、彼に耳打ちをしました。
「例の場所へ」
フリードリヒは私の指図に従って、古びた長持を動かすと、その裏の壁板を一枚剥ぎ取りました。そこは、お母様から教えていただいた抜け穴で、賊が押し込んだときに使う、小さな避難所なのです。私とフリードリヒは、この秘密を共有しており、子供の頃、かくれんぼに二、三度だけ使ったことがありました。
フリードリヒが内側から長持と格闘している最中、もう一度ノックが聞こえました。
「そこにいらっしゃるのは、どなたですか?」
扉越しに、若い女の声が致しました。召使いのひとりです。村の宿屋の娘で、屋敷へ奉公に来ているのでした。
「私よ。マルガレータよ」
私が返事をすると、扉の向こう側は一瞬、静まり返りました。
「お嬢様でございますか? このような時間に、どうなさったのですか?」
「眠れなくて、夜風に当たっていたのです。あなたこそ、何の用ですか?」
「ウィルヘルム様がいらっしゃいました。執事殿を探しておいでです」
Wenn man vom Teufel spricht!(噂をすれば影!)
平静になろうとすればするほど、人間、心の落ち着きを失うものでございます。私は口の中が乾くのを覚えつつ、震える舌をどうにか動かしました。
「叔父様が……何の御用で……?」
「それは伺っておりません。ただ、お嬢様をお起こしする必要はないと……」
私はそれから、ひとつふたつ適当なやり取りを済ませ、召使いをあしらいました。彼女の足音が消えたところで、思わず、膝を崩してしまいました。
「フリードリヒ、もう大丈夫ですわ」
私の呼びかけに応えて、長持が動きました。衣擦れの音とともに、フリードリヒは溜め息を漏らしました。
「ふぅ、相変わらずここは酷いね! 隠れ家なんて言うけど、ただの塞ぎ忘れじゃないのかい? クモの巣だらけだよ。屋敷の外へ通じてくれてりゃマシなんだが……まあ、君のお母さんによれば、三十年戦争で難を逃れたなんて伝説もあるみたいだけど……」
ズボンをはたく音が聞こえ、私の緊張もほぐされました。同時に、先ほど持ちかけられた恋の誘いが、再び頭をもたげて参りました。
「ねえ、フリードリヒ、お返事は、明日にしていただけないかしら……」
落胆の気配が漂ってきたことを、私は今でも覚えております。フリードリヒを悲しませるつもりはなかったのですが、結婚という一大事。それが駆け落ちという形となれば、即答しかねるものでございましょう。
「……そうだね。いきなりこんな話をして、すまなかった。でも僕は、君が受け入れてくれると信じているからね。明日の正午、隣町で『気晴らし行列』(Gaudiwurm)があるから、仮装客に紛れて、フランクフルトへ脱出しよう。衣装は、僕が用意するよ」
「私は盲しいです。人目につきやすいのでは……」
見えないという恐怖は、誰かに見られているという恐怖を伴うものです。
「大丈夫。そこは考えてあるんだ。『眠り姫』(Die schlafende Prinzessin)の仮装なんかどうだい? それなら、わざわざ話し掛けて来る人もいないだろうし、ずっと目を瞑っても怪しまれないはずさ」
彼は、いくつかの忠告を付け加えて、最後にこう締めくくりました。
「僕がここへ来たことを、叔父さんには絶対言っちゃいけないよ。おじさんの訪問も、おそらくは君を見張るためだろうからね。明日は何事もなかったかのように過ごして、またこの部屋で落ち合おう。それじゃ、マルガレータ」
フリードリヒは私の額に口づけを終え、窓を開けると、部屋を出て行きました。小雨の音が聞こえる中で、私はぼんやりと、唇の温もりに心を乱しておりました。
……どれほど時が流れたのでしょうか。眠れなくなった私は気を鎮めるため、館内をあてもなく彷徨っておりました。この無思慮な振る舞いが災いし、ふと階段の前で、ウィルヘルム叔父様と鉢合わせになったのでございます。
「マルガレータ!」
叔父様は、いつもの大声で、私を呼び止めました。
そうでもしなければ、私が気付かないとお思いのようでした。
「こんな時間に、どうしたのだね?」
言い訳を用意していなかった私は、しどろもどろに言葉を返しました。
「どうにも眠れませんで……」
「眠れない? 何かあったのかね?」
「いえ……午睡してしまい、眠気が訪れませんの……」
叔父様は、お黙りになられました。言い繕えたかと胸を撫で下ろしたのも束の間、思いも寄らぬ台詞が、叔父様の口をついて出ました。
「マルガレータ、おまえは明日、私と一緒にマインツへ行くのだよ」
「マインツへ……? なぜでございますか……?」
「明日は『謝肉祭の日曜日』(Fastnachtssonntag)だ。マインツでお祭りがある。おまえも家に閉じこもってばかりいないで、少しは社交に出なければならないよ。明日は陽が高くなる前に、馬車で隣町の駅へ向かおう。私は今晩、この屋敷に泊まるつもりだ」
突然の申し出に、私は二の句が継げませんでした。ひたすら戸惑っておりますと、叔父様も妙に感じられたのか、怪訝そうな声が返って参りました。
「どうしたのだ? 顔色が悪いではないか?」
「分かりません……熱があるのやも……」
そう言って、私は額に手を当てました。演技ではございません。本当に熱のあるような気がしてきたのです。
叔父様も、ここまでの旅路で疲れていたのか、それ以上は催促致しませんでした。
「そうか……ならば、今夜はもう休みなさい。おまえをマインツへ連れて行くかどうか、明日の朝、様子を見てから決めるとしよう。すまないが、おまえの後見に関する仕事もあるから、私は必ず発たねばならない。ヴィースバーデンの弁護士と、二、三相談したいことがある。執事と召使いを何人か拝借することになるだろう。おやすみ、マルガレータ」
「おやすみなさいませ、叔父様」
私は逃げるように立ち去り、寝室へと戻りました。召使いを呼び、睡眠薬とコップ一杯の水を持って来させ、あおるように飲み干しました。
錠剤が食道をつたい、一息吐いたところで、私は不審な物音に気付きました。
「庭に誰かいるのかしら?」
私の問いに、コップを受け取った召使いの女が答えました。
「はい、池の工事をしております」
「……こんな時間に?」
「申し訳ございません。ラジオによれば、週明けから大雪になるとのこと。池の周りに、柵を立てているのでございます。不案内な客人が、池に落ちるやもしれませんので……」
思い当たることがありました。一昨年の冬、新入りの召使いが誤って、薄氷の池に落ちたのです。積雪で池の位置が分からなかったと、その召使いは申しておりました。幸い凍傷なども負わず、無事助け出されたのですが、それ以来、雪の日には池へ近付かないことが、暗黙の了解となっていました。
「明日の昼頃までかかるかと……人夫には、静かに作業するよう申し付けますので、どうかご了承くださいませ」
「お願いだから、睡眠薬が効くまで……そうね、三十分ほど中断してもらえないかしら。皆さんに、お茶でも差し上げなさい」
「かしこまりました。裏口で、お茶を振る舞わせていただきます」
「叔父様にもよろしくお伝えして……おやすみなさい」
「おやすみなさいませ」
召使いは明かりを消して、静々と部屋を出て行きました。あとに残された私は、しばらくフリードリヒの告白に、思いを巡らせておりました。けれども薬の力には勝てず、そのまま眠りについたのです。
そして、二度と目覚めることはなかったのでございます。