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災厄(Heimsuchung)

 干涸びた夏のことだった。芸人として欧州を旅していた私は、八月をドイツの南部ヘッセンで過ごそうと考えた。様々な事情から、ある寒村を選んだ。大雑把な地図ならば、緑色に塗りたくられているような場所だ。望むと望まないとにかかわらず、顔の売れてしまった私に、都市は安息をもたらさない。村の名前は伏せておこう。今回の事件とは、何も関係がないのだから。

 七月の終わりに、全ての荷物をまとめた。私は助手のマリーを連れて、ECでフランクフルトにはいり、地方鉄道を乗り継ぎながら、休養地まで足を運んだ。夕刻の最終列車で駅についたとき、私を出迎える者は、ひとりもいなかった。日頃から歓待に慣れていた私は、ふと寂しさを感じた。

 私は荷物を率いて、無人の改札をくぐった。ここで降りた客は、私とマリーだけだ。砂の道と灌木の垣根が、線路沿いに続いていた。マリーは平気かもしれないが、酷暑は老身にこたえた。雲ひとつない蒼天は、時として残酷な顔を見せる。私はポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭った。

「あんた、どこから来なさった?」

 私はハンカチを手にしたまま、声の方へと首を曲げた。そこには、こざっぱりとした半袖姿の老人が、欠けた歯を剥き出しに、私を眼差していた。右目の開き具合が、不自然なほど細かった。視力を失っているのかもしれない。

「よそもんかい?」

 老人は、悪童を見つけたときのような調子で、そう尋ねた。

 怪しまれないために、私は穏やかに言葉を返した。

「私はレードナーと言います。この村へ、休暇にやって来ました」

 私の自己紹介にも、相手は警戒心を緩めなかった。ただひとつ、老人が私の名前に関心を示さなかったことだけは、吉報と言ってよかった。有名税というものは、周りが思っているよりも煩わしく、禍々しい。

「休暇っちゅうと、実家へ出戻りかね? 孫にでも会いに来たんか?」

「いえ……確かこの村には、宿屋が一件あったかと……」

 私の返答を、老人は鼻で嘲笑った。老人の動作に合わせて、大量の蠅が飛び回り、馬のものとも牛のものとも分からぬ排泄物の上で、ダンスを踊っていた。

「イザベラ婆さんなら、一昨年くたばっちまったよ」

「宿も潰れたのですか?」

 老人は、私の問いに答えなかった。それが肯定を意味することは、長旅で疲れきった私にも分かっていた。

「他に泊まれるところはありますか? できれば、ふたり部屋で……」

 老人は、顔の皺を深めた。

「この日照りで、よそもんを泊める奴はおらんよ……先週も東から芸人一座が来て、追い返したばかりだからな……まあ、おまえさんは浮浪者には見えんが……」

 老人は、私の大きなトランクに視線を這わせた。そしてそれっきり、口を噤んでしまった。蠅の羽音が、真夏の静寂の中で、私の神経を蝕んでいた。旅芸人という存在は、いつの時代も卑しめられるものだ。だからこそ私は、衣装にそこそこ金をかけることにしていた。その出費も、今は甲斐なしだった。

 この老人に助けを求めることはできない。そう悟った私は、村への道を選び、とぼとぼと歩き始めた。トランクの車輪が、乾いた大地に砂埃を舞い上がらせた。

「何よ、あのじじい、ムカつくわね!」

 老人の姿が見えなくなったところで、マリーの声が響いた。

「仕方がないよ、マリー。外から来る人間には、違和感があるのだろう……」

「この村は辛気くさくてイヤだわ。フランスの南海岸に行けば良かった」

「……ここで言い争うのはよそう。とにかく、宿を見つけないとな」

 私はマリーを黙らせて、道なりに村の中心部へと向かった。古びた役場を囲んで、お情けに商店街が並んでいるだけの、辺鄙な空間だった。

「本当に閉まっているな……」

 唯一の宿屋だった建物を前に、私は呆然と立ち尽くした。入口と窓は打ち付けられ、欄干には「売り家」(zum Verkauf)の看板が掲げられていた。

 私は溜め息を吐き、ハンカチで再び汗を拭った。このままでは、マリーに申しわけがない。そう考えた私は、手当り次第、商店街の人々に声をかけて回った。

 私がレードナーであることは、伏せておいた。面倒なトラブルに巻き込まれたくなかったからだ。しかし、それが徒になったのか、私の話を聞く者はなかった。小一時間ほど過ぎたところで、私は路傍の石に腰を下ろすはめになっていた。

 日が傾き始め、人影はほとんど消えてしまった。役場の壁に刻まれた一七九二という文字が、二百年以上の歳月を私に感じさせた。

「ほら、これじゃ野宿よ。フランクフルトへ戻りましょう。下りの電車はないけど、上りの電車なら、まだ一本あるわ。ちゃんと覚えているのよ」

「……しかし、せっかく来たんだから」

「……せっかくも何もないわ。私はこの村が嫌い」

 そのとき私は、背中に視線を感じた。振り返ると、煤けたワンピースを着た少女が、こちらをじっと見つめていた。

 私は少女の瞳に戸惑いながら、優しく声をかけた。

「どうしたんだい? 迷子かな?」

「おじいちゃん、さっきから何をしてるの?」

「私はね、今夜泊まるところを探しているんだよ」

 私の返事に、少女は首を捻った。栗毛の三つ編みをぶらさげた彼女は、ずいぶんと大人びて見えた。それとも、都会の少女たちが、子供っぽ過ぎるのだろうか。そんなことを考えながら、私は少女を観察していた。

「この村の外れに、大きなお屋敷があるんだよ。そこには誰も住んでないし、おじいちゃんが泊まっても大丈夫だと思うわ」

 少女は、嬉しそうに喋った。人助けができたと思い、喜んでいるのだろう。

 しかし私のほうは、あまり良い心地に浸れなかった。どうやら浮浪者扱いされたらしいと、薄々勘付いていたからだ。それにその屋敷というのが、ひどく私の気にかかった。

「それは、どういうお屋敷だい?」

「むかしね、目の見えない女の人が殺されちゃったとこなの。この村の人なら、誰だって知ってるよ」

 少女のあっけらかんとした説明に、私は膝を軽く震わせた。

「そこは、今でも入れるのかい?」

「うん、ときどき肝試しに使ってるわ。パパとママは、入っちゃダメだって言うけど」

「危ないからね。床が腐っていたりして……」

「幽霊だって出るんだよ!」

 私は少女の言葉に口を噤み、その瞳を見つめ返した。

「ほお……お嬢ちゃんは、見たことがあるのかい?」

 少女は首を左右に振り、少し意固地になって唇を動かした。

「でもね、弟のハンスは見たの」

「ずいぶんと目立ちたがり屋なんだね、その幽霊は」

「違うわ。人を捜してるのよ!」

 突然声を荒げた少女に、私はどきりとした。

「人を捜している……? どういうことだい?」

「その女の人はね、誰かに殺されちゃったの。でも、死体が見つかってないの」

「死体が見つからないのに、どうして殺されたと分かるんだい?」

「ベッドが血塗れだったから!」

「それじゃあ、怪我をしただけかもしれないだろう?」

 少女は、返答に窮したようだ。ムスッと唇を尖らせ、私を睨み返してきた。

 私がそれを正面から受け止めると、彼女は視線を逸らし、さよならも言わずに日差しの中へと消えて行った。

 私は再び、マリーとふたりきりになった。

「怖がらせちゃった……」

「怖がらせてなどいないさ。あの子が私を怖がらせようとしたんだよ」

「……あら、幽霊が恐いの?」

 私はかぶりを振り、ゆっくりと腰を上げた。

「馬鹿馬鹿しい。ただの『噂』(Gerücht)じゃないか……」

「でも、面白そうだわ。ねえ、そこへ行ってみない?」

 私はマリーの提案を無視して、トランクに手を掛けた。

「どうしたの? 怖いの……?」

「マリー、私たちは、宿を探さないといけないんだよ……」

「だから、そこに泊まればいいじゃない。この様子だと、誰も私たちにベッドなんか貸してくれないわよ。ここは風も当たらないし、暗くて湿っぽくて最悪。それに、もう六時を過ぎてるわ。夜になっちゃう」

「……このあたりは緯度が高いから、まだ陽は落ちないさ。多分、九時くらいまでは明るいはずだよ」

 そうは言ってみたものの、私は不安になっていた。人通りは減るばかりで、薄い青空が、どこからともなく静寂を運んできた。遠くで犬が吠え、回転窓を閉じる音がした。

 夕餉の時間が近付いていた。広場を眺めている間、諦めに似た感情を覚えた。

「……分かった。その屋敷へ行ってみようか」

 私はトランクを引き、億劫な足取りで歩み始めた。民家を離れて、古木に囲まれた小道を、北へ北へと進んだ。あまりにも狭隘で、農夫とすれ違うたびに、脇へ避けねばならないほどだった。屋敷に向かっていることを伝えると、皆一様に私を思いとどまらせようとした。彼らは「幽霊屋敷」(Geisterhaus)と呼び、女の霊が出ると恐れていた。

 ところが、いざ農夫たちに一晩の宿を求めると、彼らは口を噤んでしまうのだった。忠告は与えられたが、救済は与えられなかった。仕方がなく、私とマリーは旅を続けた。そして、舗装された大通りへと出た。隣町まで続く、主要な街道だった。目当ての屋敷は、その大通りのすぐ向かいがわ、森を背後にした鉄柵の中に、ひっそりと佇んでいた。

 私が館を一望したとき、まだ世界は明るかった。夕日は左手の山に降り立ち、涼し気な風が吹き始めていた。どれほど昼間が暑くとも、この地に熱帯夜というものはない。太陽がもたらした熱気は、太陽とともに彼方へと去るのだ。

 門は錆び付いており、惚けた老人のように、半開きだった。私は門を抜け、前庭へと足を踏み入れた。朽ち果てた垣根の跡が見えるだけで、樹木ひとつない、殺風景な場所だった。門から向かって左手には、大きな窪みがあった。幅は、十メートルを超えていた。覗き込んでみると、薄汚れた泥水が底に溜まっていた。池だ。長引く日照りで枯れてしまったのだろう。太陽の舌が伸び、わずかな水面を舐めとっていた。

 屋敷は三階建てで、上げ下ろし式の窓が、均等に並んでいた。それぞれの階層のつなぎ目には、貝を象った優美な曲線が見られた。ロココ調の様式を備えていることが、半可通の私にも分かった。

 私は哀愁に満ちた風景に酔い痴れつつ、玄関の戸を押した。

「本当に開いているのね……」

 マリーは、呆れ返ったような声で呟いた。

「大方、村の子供が鍵を壊したんだろう」

 私はトランクを運び込み、電灯のスイッチを押した。残念なことに、電気は通っていないようだ。私は台所から燭台を運び出し、蝋燭も何とか見つけ出すと、火を灯した。

「あら、ますます幽霊屋敷ってムードじゃない?」

「……暗いと困るだろう。それだけのことだ」

 私はトランクを開け、しばらく荷解きと格闘していた。その間、マリーはそばの椅子に腰を下ろし、私の作業を見守っていた。彼女は、こういうとき、手伝ってはくれない。けれども、彼女がいるということで十分満足していたし、そもそもマリーがいなければ、私は芸人としてやっていけないのだ。「俳優」(Schauspieler)になれなかった私は、かつて、ある芸人一座の仲間と各地を転々としていた。

 今でも放浪生活に変わりはないが、残ったのはマリーだけだった。

「ねえ、今夜は、どこで寝る気なの?」

「……君は寝室で寝るといい。私はソファーで寝るよ……」

「嫌よ。ダニが出るわ」

「……そうかもしれんな」

 それだけ言うと、私は汗に濡れたシャツを着替え、再び台所へと向かった。食事の用意をするのだ。イザベラ婆さんの宿屋が潰れていたのは、予想外だった。インターネットの情報が、常に最新だとは限らない。あの宿にはホームページがなかったのだから、確認のしようがなかった。

 宿で食事をとる予定だったので、食糧はほとんど持参していなかった。フランクフルトのハウプトバッヒェで買い入れたパンとハム。それが全てだ。異国人は、これが全くドイツ的な料理であると口を揃えて言うし、現に私もそう思っている。サラダも何もない、いわば肉のパン挟みとも呼べるものをふたつ用意し、私は居間へと戻った。

 居間の調度品は競売にかけられてしまったのか、中央に壊れかけのテーブルがひとつ、奥に衣装棚がひとつ、永遠の留守番を決め込んでいた。何もないよりはマシだ。私はテーブルの上に燭台を置き、玄関へマリーを迎えに行った。

「こんなところで食事をするの?」

「……ここしか適当な部屋がないんだよ。二階は朽ちていて危ない」

「……ネズミが出そうな部屋ね。私、ネズミは嫌いよ」

 私はマリーに椅子を引いてやり、その向かいに腰を下ろした。晩餐の祈りを終えて、おもむろに食事を始めた。パンをむしる音だけが聞こえる、静かで侘し気な夕食であった。

「……何か臭わない?」

 なるほど、入口の方から、妙な空気が流れてきた。悪臭だった。下水管が破れたのかもしれない。排泄物を思わせるそれは、私の食欲を完全に失わせた。

「ちょっと見て来よう。野犬が迷い込んで、死んでいるのかもしれない……」

「ああ、耐えられないわ! タンスにでも閉じ込められた方がマシよ!」

 私は何も言わず、居間を出ようと燭台に手を掛けた。

 その瞬間、目の前の扉がゆっくりと開いた。私は反射的に身をひるがえし、パンを切るときに使ったナイフへ手を伸ばしていた。

「私の館にいるのは誰……?」

 女の声がした。暗くて何も見えない。私は燭台をかざした。

 扉のそばに照らし出された人影が、私の心臓を凍りつかせた。それと同時に、先ほどの悪臭が不快さを増して、今や部屋を満たさんばかりになっていた。

 私は吐き気を覚えながら、その人影に話しかけた。

「君は誰だね?」

「私は、この館の主です……」

「館の主……?」

 私は女の容姿を、つぶさに観察した。ぼろぼろの衣服。手入れのされていない黒髪が、腰まで垂れていた。前髪も無造作に伸びきり、顔の全体を覆い隠していた。

 村人のいたずらだろうか。ユーモアにしては、度が過ぎていた。私は燭台を前に押し出しながら、女の動きを追った。女は敷居を跨ぐと、部屋の中に入ってきた。

「名乗りたまえ」

 無駄だと承知しつつも、私は女に自己紹介を求めた。女は入口の周りを徘徊したあと、私が見えないかのように、壁に向かって言葉を放った。

「私は、この館の主です……五十年前に殺された……」

 その言葉に、恐怖ではなく滑稽なものを感じ取った。二十一世紀に幽霊が出るなど、私は微塵も信じていないのだ。いたずらと確信した私は、女に歩み寄ろうとした。

 しかし、彼女の方向から漂ってくる悪臭が、私の接近を思いとどまらせた。仕方なく、私は遠方から女に声をかけた。

「悪ふざけは、やめたまえ。私はここで、一晩を過ごそうとしているだけなのだよ」

「では、宿代をお払いください……」

 ここは君の家ではない。そう言いかけたが、私もこの館の所有者ではなかった。私が別の言葉を探していると、女は先を継いだ。

「お金はいりません……ただ、ひとつ、お頼みしたいことがあるのです……」

「食事かね? それならパンが……」

「私の死体を捜していただきたいのです……」

 私は息を呑んだ。この女は、自分の遺体を捜せと言っているのだろうか。依然として恐怖は感じなかったが、私の中でだんだんと好奇心が頭をもたげ始めていた。

「面白そうね」

 突然響いたマリーの声に、女はふと体の向きを変えた。

「……どなたか他にいらっしゃるのですか?」

「ああ、私の友人がいる」

 私が燭台を持ち出したせいで、マリーの姿は女から見えなくなっていた。もっとも、幽霊に眼があるとしての話だが。

 そう思った矢先、女は予期せぬことを返してきた。

「私は、目が見えませぬもので……」

「……どういうことだね?」

「私は生まれつき『盲人』(Die Blinde)だったのです……」

 私の背中を、つーッと冷たい汗が流れた。この館の主は、盲目の若い娘だった。もしや本物だろうか。私は震える足で座り直すと、燭台をそばに置き、女を凝視した。

「君は、館の主だと言うのだね? 五十年前に殺された娘だと?」

「はい……」

「私は君を信じないが……マリーは興味を持ったようだ。話を聞こう」

「Danke sehr……」

 女は立ったまま、しばらく沈黙を続けた。椅子を勧めるにも、私とマリーによって、既に占拠されていた。それに、この女から漂う悪臭を、間近で嗅ぎたいとは思わなかった。

 女は燭台の炎に合わせてゆらつきながら、か細い声で昔話を始めた。

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