(2)アイドルのちストーカー
スーツ姿の男性が、他所の学校の男子学生たちが。男達だけではない、全ての男女が振り返って、すれ違った白髪の美少女に注目する。
誰もがハルに目を奪われていた。
男は頬緩め、女は羨望の眼差しで食い入るように見知らぬ彼女の姿に見惚れてしまう。
誰もその姿を見て不審に思わない。誰からもハルの姿は女として映っているのだ。
そのことにハルは安堵の息を吐いていると、不意に前方に懐かしい後姿を見つけた。
ややオレンジ色のツインテールをして、同じ涼月学園の制服を着た女子生徒。
声を掛けていいものかと逡巡するも、一年間の彼女に対する無礼な態度を思い返せば、ここで無視をすることはハルにはできなかった。
「おはよう、メグ」
すぐにその背中を追いかけて、彼女の肩に手を伸ばす。
突然肩を叩かれ、驚いたように振り返った彼女は、
「…………え?」
まるで知らない人を見る目でハルの出現に呆然としていた。
「さぁて、私は誰でしょう?」
なぞなぞを出すかのように、ハルは肩に触れる自慢の白髪を掻き上げる。
「その髪…………え、うそ!?」
メグと呼ばれた少女は酷く取り乱したように悲鳴を上げて、
「まさか……佐倉くん、なの……?」
信じられないと言いたげな様子で、おずおずと尋ねてくる。
「久しぶり、メグ」
久々に声をかわした友人に向けて、ハルは心一杯の笑顔をかざした。
星野萌。メグという愛称で呼ばれる彼女は、ハルの家の近くに住んでいて同じ中学出身の同級生だった。
オレンジ色に見える髪をしているがこれは彼女本来の髪の色であり、決して染めてはいない。身長は同年代女子のほぼ平均で、顔は美形と言うよりは若干幼さの残る可愛い顔をした、笑顔が似合う印象がある。
メグとは中学二年からの付き合いで、よく友人たちと集まって一緒に遊んだりした。女友達の中では間違いなく一番仲の良かった人物だった。
「えええええええ~~~!?」
その数少ない女友達が、変わり果てたハルの姿を見てパニックに陥っていた。
「嘘、どうして佐倉君がこんな可愛く――スカートも穿いちゃって――でもその髪は確かに佐倉君の――でもこの間までは黒く染めていたはずじゃ――」
「お、落ち着いてメグ! 取り乱すのも分かるけど、一先ず冷静に、ね?」
暴走するメグの肩を押さえつけ、必死に呼びかける。その際に互いの鼻先が触れそうなほどに近づき、メグは顔を真っ赤にしながら大きく首肯し、声を抑えた。
「う、うんっ……ご、ごめんなさい……」
「いや、メグが取り乱すのも分かるよ、うん。取り敢えず話しながら歩こ? まだ予冷まで時間もあることだし……メグにはこれまでの事ちゃんと話さなきゃと思って」
許してもらえるかは分からない。けれどきちんと事情を説明して、それで嫌われるのであれば構わない。嫌われて当然のことをしたとハルは自覚している。
何故メグや周囲の者と距離を置き始めたのか、どうして女の格好をしているのか、ハルの身に一体何があったのか、ハルはその全て包み隠さず話した。軽蔑されるのを覚悟したつもりだったが、メグは最後まで話を聴いて、ハルが全てを話し終えた時には、納得したように息を吐いたのだった。
「そっか、全部、アキのためだったんだ」
「……お、私の事、嫌に思わないのか?」
思っていたものとは全く異なるメグの反応に戸惑うハルに、
「え、どうして?」メグはポカンと口を開けて尋ね返した。
「だ、だって、ずっとメグを避けてきたし、そ、それに…………今こんなだし……」
親しかった男友達が、ある日突然女装を始めたら、普通何らかの抵抗があるはずだとハルは思っていた。
けれどメグが思ったのは大衆が感じる侮蔑の想いとは違い、とても清いものだった。
「あ、そ、それは、確かに佐倉君が女の子の格好をしていることに驚きはしたけど、でもだからって私が佐倉君を嫌いになるなんて絶対にないよっ」
「ほ、本当に……?」
「うん、だって全部アキのためでしょ? だったら佐倉君を責めることなんてできないよ。私だってアキのずっとこと気にしてたし」
さも当然のように告げるメグ。
「なんて……なんていい子なんだ……ぐすんっ……」
「ええええ!? な、なんで佐倉君泣いちゃうの!?」
「メグがいい子すぎるからだよ」
「そんな、私たちの仲なんだから当然だよ」
心からそう思える彼女は、本当にいい人だった。
「メグが友達でホントよかったと心の底から思うよ」
「もう大袈裟なんだから」
「大袈裟じゃないよ。ホント、これからもずっと友達でいたいよ」
「ず、ずっと、友達……」
一瞬、メグの表情に陰りが見えた気がして、ハルはその理由が分からずストレートに尋ねてみる。
「どうかした?」
「ううんっ、何でもないよ!」
メグは慌てたように両手を振って見せる。
「そっか、気のせいか」
「そうだよ気のせいだよ、あはは……」
何とも力のない笑みだったが、本人が何でもないと言っているのでハルは深くは追求しなかった。
「それにしても佐倉君ホント別人みたいだよね。元々美形で声も高い方だし、体格も男の子にしては細い方だから女装もできなくないとは思ってたけど……まさかここまで似合うなんて」
「あれ、メグは昨日のミスコン見てなかったの? て言うか、確かメグってミスコンにエントリーしてなかったっけ?」
ハルは事前に橘から極秘に渡されたミスコン出場者リストの中に彼女の名前が紛れていたことを思い出す。
「え! なんでそれを佐倉君が知ってるの!?」
「事前登録リストの中に名前が入っていた気がしたんだけど……あれ、でも昨日の出場者の中にメグはいなかったよな?」
「確かにクラスの友達に勝手にエントリーされたけど……緊張しすぎて体調崩しちゃって、昨日は欠席しちゃったの……」
メグは恥ずかしそうにモジモジと指を絡めながら呟く。
「それは災難だったね。でも、勝手にエントリーされたって、メグは特権が欲しくて涼月に入学したんじゃないの?」
「そ、それは、その……(一緒の学校に行きたかったから……)」
自分の想いを伝えきれない少女、星野萌。
「ごめんメグ、声が小さくて上手く聞き取れなかった」
「え、えっと…………い、家から近かったから……です」
メグには出会った当初から想いを寄せている相手がいたが、肝心なところで轢いてしまうヘタレな少女なのであった。
「ん、確かに近いけど……涼月とは反対側にもっと近い高校があるじゃない。勉強も涼月ほど難しくないし、わざわざこっちを選ばなくてもよかったじゃない?」
「そ、そうだけど……あの、その……」
「ん?」
「こ、こっちにはアキや学園長もいるから!」
やはり彼女はヘタレであった。
「ああ、確かに幼馴染や知り合いがいる方がいいか」
「そ、そうだよね!」
メグは同意を求めるように大きく首肯する。
「そっか。一緒の学園に進むほどメグは気にしていてくれたのか……」
彼女の優しさに、ハルはまるで自分の事のように嬉しく感じる。
「ホント、メグはいいやつだよね」
「あ、ありがとう……。そ、それにしても話し方も変わったね。自分の事も『私』って言ってるし。もう君付けするのは止めた方がいいのかな?」
「そうだね、できれば違う呼び方がいいかな。それだとあんまり女っぽくないし」
「な、なら、下の名前で……ハルさん、とか?」
「別に構わないけど、同い年の子にさん付けはなんだか抵抗があるかな。ハルでいいよ。私もメグって呼び捨てしてるし」
「わ、わわわわかった。じ、じゃあ、は、は、ハル……」
「なぁに♪」
変わり果てた姿の自分を以前と同等に迎え入れてくれたメグに向けて、ハルは鏡の前で練習したスマイルを送る。
「ううぅ、さすがは《ミス涼月》だね。私なんかよりもずっと可愛いんだもん……」
メグは感心した、と言うよりは呆れた口調で呟く。
「ん? 私はメグも可愛いと思うよ?」
そんな彼女にハルは正直な想いを平然と口にする。
「か、かわ――!?」
ハルのキザな言葉に、メグは飛び跳ねてしまうほど驚かされる。
「も、もう! 冗談はやめてよ!」
「別に冗談を言ったつもりはないんだけど。メグがミスコンに出場していたら絶対にいい線行ってたと思うよ?」
「そのミスコンで一番を取った人が何言ってるの」
「いや、私の順位は関係ないでしょ」
「でも出場していたら男のハルに負けてたことになるんでしょ? なら出ないで正解だよ」
言われてみれば確かに。女の一番を決めるコンテストで異性である男に負けると言うことは、同性に負ける以上にショックなことだろう。負ける相手が女と男で、精神的に受けるダメージ量も比べものにならないほど違ってくる。
「んーでも、男に投じることを毛嫌いする人もいっぱいいると思うし、性別を隠さなければコンテスト全体の結果も大きく違ってたかも……」
「分かってないなー。事前に知らなかったから公平な審査になった訳で、そこに事前の認識とかは関係ないの」
「んん? どういう意味だ?」
「何も知らなかったからこそ、ハルがどう見えるのか判断してもらえたんだよ。事前に男だって知っていたら余計な先入観が入ってちゃんと審査ができないじゃない」
「んー……それって男だって知っていたらまず女には見えないってこと?」
それはハルにしてはかなり危ない状況だ。どれだけ見た目を偽っても、男として見られてしまってはダメなのだ。
自然に女だと思わせるほどでないと、ハルの願いは叶わないのだ。
「それは大丈夫だと思うよ? 私から見てもハルは十分女の子に見えるし――というか女の子にしか見えないし……。だから不安にならなくても大丈夫だよ」
「そ、そうか……、よかった……」
一瞬、地獄に落とされたように心が折れかけたハルだが、メグの言葉で気を持ち直すことができた。
安心してはぁ、と溜息を吐いた時、メグが「あれ?」と何かに気付き、足を止めた。
「ん、どうかした?」
「……あれって、何をしてるのかな?」
メグは周囲に気付かれないようにこっそりと話し掛ける。
ハルも合わせるように、周りに悟られないようにしてメグの視線の先を追うと、
「じー……」
後方約十五メートル。自動販売機の陰に隠れるようにしてこちらを覗き見する現役女子高生アイドルの姿がそこにはあった。
「(……ああ、そう言えば朝からあんなやつもいたな。完全に忘れてたけど)」
どうやら気のせいではなく、ハルは今朝からストーキングをされていたようだった。
「あ、あれってアイドルの仙堂愛乃ちゃんだよね? 同じ一年の」
「いいえ、あれはただのストーカーです」
「ええ! ハルって愛乃ちゃんにストーキングされてるの!?」
「あれがストーキングに部類されるのなら、そうなるだろうね」
『まさか!? あの人気アイドル仙堂愛乃にストーキングの趣味が!!』
そんな記事が出回れば世の男性諸君はどう思うのやら。
「ストーカーってことは、愛乃ちゃんは変質者さんなのかな?」
「変質者ならまだいいよ。あれがもし変態だったら私はいずれ彼女の餌食に……」
「は、ハルが変態さんの愛乃ちゃんに襲われちゃうの!?」
「ああ、きっと私が油断したところを後ろから」
「愛乃ちゃんって痴漢さんなのね!?」
「そう、私は彼女の肉奴隷にされる運命なのよ……」
「そんな……あの愛乃ちゃんがそこまでの鬼畜さんだったなんて……」
それにしても何故彼女は尾行のような真似をしているんだろうか?
ハルが愛乃と会ったのは昨日のミスコンが始めて。普通に考えればミスコンの結果に納得ができなくて嫌がらせで付きまとっている、という可能性も無きにしもではあるが、それはあまり賢い報復行為とは言えない。
ハルは「何かもっと別の事情があるのでは」と推理するも、
「隠れてないでこっちにおいでよ、仙堂さん」
「ええええ! 自分から呼んじゃうの、鬼畜さんを!?」
考えても分からないものは分からないので、直接本人に尋ねてみることにした。
「なっ!」
気付かれていたことに驚いた様子の愛乃だったが、すぐにハル達の前に出てきた。
「アタシの通学路の前にいるとはいい度胸じゃない、佐倉ハル」
何とも変わった挨拶をするアイドル様。きっとこれはストーカーなりの挨拶の仕方なのだろう。ならばこちらもストーキングされた側なりの挨拶を返さなくてはいけないな――
ハルは挑まれた挑戦は無視をするか、全力を持って叩き潰すタイプである。
そして、今回の相手には、
「そんなに私のお尻を追うのに夢中だったのかしら?」
「はい!?」
適当にあしらいながら遊んであげることにした。
「気を付けなさい、メグ。彼女は女性のお尻を見ると興奮して襲い掛かる癖があるから、こうやってちゃんと隠すのよ」
「わ、わかった!」
ハルが鞄でお尻を隠すのを見真似てメグも同様にお尻を隠す。
が、そこでメグが重大な事実に気が付く!
「は! これじゃあ手が塞がって前が無防備になっちゃうよ、ハル!」
「わ、私としたことが。そんな盲点があったなんて……」
「ちょっとアンタたち何を言って――」
「くっ、こうなったら私が囮になるわ! メグは学園へ逃げるのよ!」
「それじゃハルの貞操が!」
「ふっ、私を誰だと思っているの? そう簡単にはやられたりするもんですか」
「でも!」
「いいから行くのよ!」
「……また、絶対に会えるよね?」
「もちろんよ。ほら、さっさと行きなさい」
「くっ……ごめんなさいっ!」
メグは涙を浮かべながら学園へと走り出した。
小さくなっていくメグの後姿。それが、ハルが最後に見た彼女の姿だった……まる。
「何バカなことをやってるのよ」
愛乃は脱力した表情でハルを睨んでいた。脱力しながら睨みを利かせるとは何とも想像しにくい絵である。一体呆れているのか怒っているのか。おそらくその両方であろう。
「私たちなりのコミュニケーションの取り方だから気にしないで」
説明しながらハルは鞄でお尻を抑えるのを止める。
「おはよう、仙堂さん」
改めて真面目に挨拶をしてみたが、愛乃は何も言わずジッとハルを見つめてきた。
「……な、なにか? (そんなに見つめられるとさすがに照れてしまうんですが。仙堂さんすごく可愛いし……)」
「何度見てもムカつくわね」
ブスリ、とその言葉は心に突き刺さった。
「(あれ、俺って……仙堂さんに嫌われてね?)」
これは宣戦布告と取っていいのかだとすればこれから暴力的な行動に取っても構わないと――そういうことですよねぇ愛乃さん?
「男のくせにそんな格好をして」
「あはっ☆ ゴメンね可愛くて~♪」
できるだけ爽やかに、そして自慢げにハルは愛乃を嘲笑った。
「~~~~~~! か、可愛いからって男は男よ!」
「何言ってるの、可愛いは正義だよ。それくらいのことアイドルをやってる仙堂さんなら分かりきってることじゃないのかな、かな~?」
「それは女子供にだけ当てはまる定理よ。男がいくら可愛くてもキモいだけじゃないっ」
彼女は今、全国の女装趣味&男の娘萌紳士を敵に回したのだ!
さて、特に何も問題はなさそうだ。
「ま、受け入れられないならそれでいいよ。別に私は仙堂さんに好かれるためにこうしているわけじゃないから」
人として嫌われていることが分かった以上、無理に付き合う必要もない。そう判決を下すと、ハルは愛乃を無視して歩き出す。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
だが、愛乃は後を付いてきた。
「あ、あの……さすがに堂々とストーキングを再開されるのは、ちょっと……」
「まるでアタシをストーカーみたいに言わないで!」
「えっと、朝から人の家の前で覗き見していたのはどこのどなたでしたっけ?」
「き、気付いてたの!?」
「気付けない方がおかしい」
「だ、だったらなんでもっと早く声かけなかったのよ」
「いや、まあ……」
忘れてました、とは言い難い。言えばまた怒らせてしまうのは目に見えている。
ハルはなるべく相手を怒らせない言い訳を考え、
「す、ストーカーに立ち向かう勇気がなくて……」
「だからストーカーじゃないって言ってるでしょ!」
言葉を選んだつもりだったが、結局は愛乃を怒らせる結果となってしまった。
仙堂愛乃は難しいお年頃なんだなぁ、とハルは思った。
「って言うか仙堂さん、どうしてうちの住所を知ってるの?」
「昨日帰りを尾行したからよ」
堂々たるストーカー宣言!
「こんなストーキングレベル1のストーキングに気付けなかったなんて……ショックだ!」
「だからストーカーじゃないって何度も言ってるでしょ!」
「ならどうして私の後を追ったりするの?」
「そ、それは……」
向けられた追及の言葉に口籠る愛乃。
「あ、アンタが勝手にそう思っているだけでしょ? アタシは別にアンタの後を追っているつもりはないもの」
だがすぐに気勢を張って、さもそれが当然のように主張し出した。
「(いや、あなたさっき自分で尾行っていいましたよね?)」
「自信過剰って嫌ね。なんでも好意を向けられていると勘違いするんだから」
「(そっかー、俺って自信過剰だったのかー。へー、そうだったんだー……)」
――もういいよ。お前無視するから。
完全にスイッチが入ってしまったハルは、脳内から愛乃の存在を完全にシャットダウン。
気持ちを切り替え『一人』で登校を再開した。
「ちょ、ちょっと、だから待ちなさいって言ってるでしょ!」
誰かに呼び止められたような気がした。そう、あくまで気がしただけだ。
十分ほど気のせいは続いたが、学園の周辺まで着いた頃には随分と静かになっていた。
ハルが背後を確認すると、アイドルが涙目になりながら無言でついて来ているというシュールな光景が見えたような気がした。そう、あくまで気がしただけである。
周囲に登校中の生徒が増えると、ハルは正門ではなく裏門へと向かう。
「え、正門はそっちじゃないわよ?」
正門を使わないのは大勢の前に出ることを避けるためだ。ただでさえ《ミス涼月》になったことで注目されてしまうのに、後ろには余分な奴が付いている気がするのだ。人だかりができたら大変対処に困る。それに必要以上に人前に出るのは避けたかった。
裏門に到着すると、誰にも気付かれないように学園内に侵入。置いてあった雑巾でブーツの底に付いた土を落としてから、土足で校舎に上がり込む。
「あら、そのブーツ可愛いわね」
「……」
「へ、へー、案外オシャレにも気を使っているのね」
「……」
「た、高かったんじゃない、そのブーツ? アンタ一般の学生なのによくそんな物持ってじゃない……」
「……」
「ぅぅぅっ、な、何か返事してよ……」
「……」
「(……はぁ。これじゃ苛めてるみたいじゃないか……)」
屋上へと続く階段を上る途中でハルは足を止め、静かに後ろに振り返る。
「っ!」
突然振り返ったハルに、愛乃は驚き階段を踏み外してバランスを崩しかけるが、咄嗟に伸ばしたハルの手が愛乃の腕を掴んだことで無事バランスは保たれた。
「あ、ありが……」
「別にいいよ。立ち止まったのはこっちだし」
また怒鳴られるかと思うハルだが、予想とは反して愛乃は素直に礼を言えた。
気が強いのか弱いのか。ハルには愛乃という少女の人間性がよく分からなかった。
再び向き直って階段を上り始める。
屋上に到着したとほぼ同時に、予鈴のチャイムが鳴り響いた。
解放された空間。当然ながら屋上には二人以外の姿はない。ハルと愛乃の二人だけだ。
「遅刻だけど、教室に行かなくてもいいの?」
ハルは適当なところに鞄を置くと、フェンスに寄り掛かりながら愛乃に尋ねる。
ミスコンで優勝したことによってハルは全てが許される特権を手に入れていたからなんら問題はない。授業に出なくともちゃんと卒業できるのだから。
「はあ? 何言ってるの。アタシ達にはもう特権があるじゃない」
別にハルはおかしな質問をしたわけではなかったのだが、愛乃は呆れたように言った。
「あれ、準ミスの特権ってなんだっけ? 一番を取ることしか頭になかったから他の特権の内容って知らないんだよね」
「なにそれ、二番を取った私に対する嫌味?」
「嫌味を言う覚えもないし、言われる覚えもないよ。一番でないと意味がなかったから他の順位は眼中になかっただけ」
「アタシだってそうよ。《ミス涼月》を取らないとこの学園に来た意味がなかったんだから。それをアンタみたいな男に取られるなんて……!」
また昨日の話を掘り返されてしまった。
ハルとしてはこれ以上の駄々は勘弁してもらいたいのだ。不正を払ったわけでもないのにいつまでも突っ掛る愛乃に、ハルの気もだんだんと滅入っていた。
「昨日から男、男って言ってるけど、別に男がミスコンに参加しちゃいけないなんて決まりは涼月にはないんだよ」
おかしなことだが、涼月学園のミスコンでは男子生徒の参加も認められていた。実際に過去のミスコンでも男子が出場したという記録は何度も残っている。しかしどれも本気で入賞を狙っていたわけではなく、ただのお遊び、おふざけでミスコンを盛り上げるために出場したのであって、本気で優勝を狙って出場したのはハルが史上初であろう。
「そもそもその決まりがおかしいのよ! あんなもの、ただミスコンを盛り上げるための余興に留めておかなくちゃいけないのよ!」
「見苦しいよ、仙堂さん。ちゃんと男子の出場が認められている以上、君が何を言おうとも結果が覆ることはありえないんだから。ま、何を言っても君は認めないんだろうけど」
案の定、愛乃は敗北を認めることができないご様子だ。
「こ、抗議してくる!」
その言葉を置き言葉に、愛乃は屋上から立ち去って行った。
おそらく学園長室に言ってこの学園で最も偉い人物である美冬に『常識』や『理屈』と言う名の弾丸を込めて乱射するつもりなのだろうが……残念ながらそもそもハルをミスコンに参加するよう勧めたのは他でもない、その学園長本人である。結果は既に見えていた。
無駄と知りつつハルは止めなかった。あれだけしつこく言ってきた愛乃も、学園長の言葉であれば諦めも付くだろう。そうすればもう突っ掛ってくることもなくなるはずだ。
全てを学園長様に任せると、ハルは屋上からメグのいる教室を見つけ出して、彼女の授業を受ける姿をぼんやりと眺めだすのであった。




