(1)鏡よ鏡・・・
目覚まし時計の力を借りずに早起きができたというのは、それだけで気分が良くなるものである。十分な睡眠が取れた為か、二度寝などという暴挙に出る気も起きない。
本当に清々しく、実に気持ちの良い朝の目覚めだった。
「だいぶ目が冴えてるな」
パッと瞼を開く。ハルの意識は早くも覚醒していた。
そのまますぐに身体を起こし、閉ざされたカーテンを開こうと窓辺に近寄る。不意に、少しだけ隙間が空いていたカーテンの向こう側に何か人影が見えた。
新聞配達の人だろうか。しかしそれにしては時間が遅すぎる。
ハルは不審に思うと、カーテンの隙間からこっそりと覗き込と――
「ひそひそ、きょろきょろ、じー……」
「――――」
一瞬、そこに見えたものが何であるのかが理解できなかった。
もう一度じっくり目を凝らす。何度も瞬きを繰り返したが、どうにも見えてくる現実に変化は無かった。
「な、なんだろう……あれで隠れているつもりなのかな?」
ハルの目にはしかと、家前の電柱から身を半分ほど乗り出して堂々と家の中を覗こうとする人影が……
「あれ、あの制服って……うちの制服……?」
あまりに動きが不審過ぎて相手の格好まで気が回らなかったが、ハルはすぐにその人影が涼月学園の女子制服を着ていたことに気がつく。
茶髪を太陽に照らされつつ、家の中を必死に覗こうと前のめりになるそのポーズィングは十五才でありながら大きく実った双丘を万有引力の法則に従って地球へ向かってゆらゆらと垂れ下がって――
そこでハルは気付く。その双丘――ではなく、あの茶髪をつい最近に見たはずだと。
不審な行動と取っていた人物は、昨日会ったあのアイドルに恐ろしいほど顔立ちが似ているのだ。
「まさか……仙堂愛乃?」
そんなバカな。仕事で忙しくて睡眠時間も限られているはずの人気アイドルが、こんな朝早くから同級生の自宅前で張り込みのような真似をしているわけが……
そう思おうとしたハルの頭に、ふとある考えが過る。
『日本一の美少女と言われるアイドル仙堂愛乃。そんな彼女に見間違えるほどのそっくり美少女なんて存在するのだろうか?』しかも、あの仙堂愛乃と思わしき人物は涼月学園の制服まで着ていた。
本当に目が冴えていたのか、我が事ながらハルは疑ってしまいそうだ。
ハルはじっくりと考えに考えた末――
「よ、よし、見なかったことにしよう」
寝ぼけて見間違いをしたのだと思い込むことにした。
アイドルが家の様子を前のめりになって覗き込んでいるようにも見えたが、それもきっと見間違いだろう。どうやらかなり寝ぼけているようだ。
シャワーでも浴びてゆっくり目を覚まそうと、ハルはそっと窓際から離れると着替えを持ってお風呂場に向かった。
一年前、ハルはある決断を迫られた。
女装を決めたあの日、ハルが何よりも取り乱したのはスカートを穿く時、ではない。
スカート自体、おしゃれとして男性であっても身に付けている者もいるのだ。初めの内こそ抵抗はあったものの、それも今ではズボンと同感覚に穿けている。
ではスカートよりも取り乱してしまう事とは一体何か?
それは、下着である。
学生の身分であるハルが一週間の内で最も身に付ける割合の高い着衣は、これまでならば男子用の制服だったが、これからは女子用の制服――つまりスカートを穿く割合が極端に高くなってくるのだ。
そうすると、スカートの下にまさか男性用の下着を身に付けるわけにはいかず。
ハルに残された選択肢は限られていた。
1.思い切って女性用のパンティーを穿くか
2.スパッツは正義!
3.むしろノーパンで行ってきます
もちろんスパッツを穿くことに決めたわけだが、ハルはどうしてもこれが慣れなかった。
何よりもピッチリと締め付けられる感覚が嫌だった。本来男とは解放したがる生き物で、特に股間周りは触れられることを大きく嫌がるのだが(あくまでハル個人の主観です)、スパッツはこれでもかと言うほどピッチリと食い込んできて非常に履き心地が悪かった。
「おのれスパッツめ……ここまで私を苦しめるとは……!」
などといくらスパッツに恨みを抱いたところで、スカートを穿く上ではスパッツ様の力を借りなければならないのが現実。いつかスパッツを乗り越えてみせると決意を胸に、お風呂から上がったハルは、涼月学園の女子用の制服に身を包み、お弁当作りの準備に取り掛かった。
作るのは自分と美冬の二人分の弁当。
これは頼まれたわけではなく、ハルが自主的に美冬の為に毎日やっていることだ。
ハルはこれまで美冬の世話になってきたせめてものお返しにと思い、毎日主婦の真似事をやっていた。
以前、ハルは美冬から「ハルちゃんって新妻みたいだよね」と言われたことがあった。ハルが妻であるなら夫は美冬ということだろうか。性別は逆だが。
一年前は料理なんてやったことのなかったハルが、今では主婦のレベルの腕まで到達するに至ったのは、美冬への恩返しがしたいという一心で猛特訓をした成果だ。
血は繋がっていなくともハルにとって美冬は大切な家族である。その大切な家族を今から起こしに行くために、ハルは作り終えた弁当を持って家を出た。
一色家は歩いてすぐのお隣さん。鍵はスペアキーを預かっており、美冬が仕事で不在の日もよく掃除をするために訪れる。最近の日本ではお隣同士の付き合いというものが無くなってきているが、佐倉家と一色家の両家は一緒に旅行をするほど仲が良く、まるで親戚のような間柄だった。
家の敷居を出た時、視線のようなものを感じた気がしたが……気のせいだろう。家の前にアイドルなんていません。
視線を軽くスルーしながら、ハルは一色家の敷居を跨ぎ、スペアキーを使って玄関を開けた。
「美冬さん、朝ですよー」
玄関に靴が散乱してあるので在宅中なのは違いない。
「なぉ~」
訪問者を待ち構えていたのは家主ではなく、最近住み着いた小さな住人だった。
「おっと、おはよう、美春」
足元にすり寄ってくる美春を抱き抱えて、ハルは勝手の知った家の中を迷わず進む。
美冬の部屋へと入室すると、美冬は文机の上で横になり、すやすやと寝息を立ててお休み中だった。
「またこんなところで寝て……美冬さん、そろそろ起きないといけませんよ」
まだまだ寝たりないだろうが、学園長が寝過ごすのは大変よろしくない。
ハルは美冬さんの肩を揺すり眠りを覚まさせる。
「むにゃ~ん……はるちゃ~ん……」
「はい、ハルちゃんですよ。起きてください」
「……む~……んっ……んんー」
やっと目の覚めた美冬。目を擦りながら大きく欠伸する。
「あれ~、もう朝なの……おはよー」
「おはようございます。遅くまで仕事をしていたんですね」
机の上には何やら大事そうな資料が広がっている。帰りが遅くなるとのことだったが、どうやら帰宅してからも仕事を続けていたらしい。
「お弁当作っておきましたから、忘れずに持って行ってくださいね」
お弁当と一緒に美春を机の上に置き、ハルは一色家の台所を借りる。
軽めの朝食と美春の缶詰を用意し、それから一色家を後にした。
美冬が帰っている時は毎朝起きしに行き、朝食を準備するのがハルの日課だった。
家に戻り身支度を済ませると、鞄を思って洗面所の鏡の前に立つ。
服装は涼月学園の女子制服。
客観的に鏡に映った人物を観察。
できるだけ造らない、元の素材を十分に生かしたナチュラルメイクだ。
何もしなくても十分に女顔であるが、最大限に美少女さ表に出すためと美冬に言われてメイク術も習った。
背筋を伸ばして、姿勢をよくする。それだけで見栄えは違うのだ。
自慢である祖母譲りの白髪をセットして。
「(うん、大丈夫)」
ちゃんと女に見える。まず男には見えない。
最後に鏡に向かって飛び切りのスマイル。
「(お前は誰よりも魅力的な女の子なんだ)」
鏡に映る自分の姿は、《ミス涼月》の名に相応しい美少女なのだと。
「大丈夫……」
何度も自分に言い聞かせる。
自分は女なのだと。
「よし!」
気合を注入し終えると、そのまま玄関へと向かう。
昨日まで使用していた男物の学生靴はもう履かない。
今日からはこっちの、美冬にプレゼントされた女性物のブーツを履いて。
「行ってきます」
ハルは佐倉家を後にした。




