さようなら、私の自由研究
先日、実家の掃除をしていたところ、小学生時代の私の自由研究ノートを見つけたので、遺書としてここに記す。
小学生のころ、私の家の近所には、一人の奇妙なおじさんがいた。彼はホームレスだったようで、私の家の窓から見える、近所の公園の隅に段ボールを並べて、昼間はずっとそこに座っていた。雨の日も、雪の日も、台風が来た日でも、彼はそこに座っていた。それだけでも奇妙なのだが、彼が奇妙なおじさんと呼ばれていた所以は別のところにあった。夜に彼を見た者がいなかったのだ。
そんな馬鹿な、と思うかもしれない。少なくとも、当時の私には信じられず、夏休みの数日間、夕方から夜にかけて、家の窓からおじさんを眺めてみた。ホームレスを毛嫌いしていた両親を味方につけるため、おじさんを追い出すための自由研究と称してカメラも設置した。今になって思えば犯罪でしかないのだが、当時の私にそんな自覚はなかった。
結果はさんざんだった。何度やっても、目を離したすきに、急に全てのカメラの映像が乱れて、おじさんが消えてしまった。目を離さないでいようとしたときはもっとひどかった。目玉がつぶれそうなくらいの痛みが襲ってきて、結果右目の視力を失ってしまった。すぐに病院に運ばれたが、診察の末、太陽を虫眼鏡で見るなとこっぴどく叱られただけで、視力は返ってこなかった。
右目の視力を失った後、普通なら怖がって観察をやめそうなものだが、当時の私は違った。視力を失ったことでかえって火が付き、あのおじさんの正体をなんとしてでもつかんでやる、と意気込んだのだ。実の子供に被害が出たせいだろう、両親からは猛反対され、カメラも没収されたが……それでも、私の探求心は止まらなかった。公園のおじさんには近づいてはいけないという、両親の言いつけを破って、接触してしまった。
その時の会話は、自由研究ノートを見直さなくても思い出せるほど、私の記憶の中で、今なお光を放ち続けている。
「ねえねえ、おじさん。こんにちは」
緊張で震えながら、私はあの時、初めておじさんに話しかけた。
「……」
返事はなかった。うつろな目で、じっと私を伺うおじさんに恐怖を覚えたが、退くことはできなかった。何を聞くかはノートにメモしてあったので、ノートで顔を隠しながら、私は言葉をつづけた。
「どうして、よるになったら、きえちゃうの?」
「……」
「ええっと……、どうして?」
「……坊や、君は、いい子かい?」
どきりとした。言いつけを破ったことに、確かな罪悪感があったのだ。
「う、ううん」
「……そうか、そうか。よし、坊や、こうしよう。一週間、いい子にしていたら。その度に、ひとつ、質問に答えてあげよう」
「う、うん」
それから私は何度も、奇妙なおじさんの元へ通った。親の静止を聞かずに、何度も、何度も。そして私は、夜になったらおじさんが消えてしまう理由や、おじさんの正体などを、どんどん知っていった。知るたびに好奇心が満たされていき、それと同時に、恐怖も増していった。純粋だった過去の自分を愛おしく思ったあの日、小学校を卒業したあの日、私は、最後の質問をすることにした。
「ねえ、おじさん。今日で、最後の質問でもいい?」
「……坊や、いいだろう。最後の質問は、なんだい?」
「ねえ、おじさん。どうすれば、全部を、忘れられる?」
「……全部、というのは? ここが死後の世界と呼ばれる場所であることかい? 君の正体が、悪魔だとか鬼だとか呼ばれる存在であることかい? 罪悪感も無くなって立派に……ああ、罪悪感の無くし方もかな? 両親や、環境を壊してしまったことかい? 私の正体のことかい?」
「全部、全部だよ、おじさん」
「……私は確かに、神と呼ばれる存在に近しい。近しいが、残念ながら全知全能じゃないんだ。坊やを、一番最初に戻すことはできない。でも、記憶だけを消すことならできる。これで、いいかい?」
「おじさん、それでいいよ、おじさん」
「……坊や、それはとても苦しいよ。失明するよりも、知ってしまうよりも」
「おじさん、それでいいんだよ、おじさん」
「……そうかい、わかったよ。坊や、さようなら」
奇妙なおじさんの言った通り、全て忘れてしまうことは、確かにとてもつらい事だった。しかし、彼の言った通り、彼は全知全能じゃなかったらしい。忘れたままでいられなかったから。自由研究のノートを見ただけで、火が付いたあの時を思い出して、連鎖的にすべてを思い出してしまった。
遺書として、ここに記す。長い年月をこの場所で過ごし、私は私の天寿を全うしたといえるだろう。これからは、生者として、もう一度、歩んでみようと思う。
遺書として、ここに記す。少なくない、私の知り合いたちへ。そして、あの時の奇妙なおじさんへ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
それでは、生まれ変わってまた会う日まで。




