第1章:新たな夜想曲
1. 朝霧と赤い瞳の少女
大陸最大の港町ルナリア。朝霧が果実の甘酸っぱい香りと潮の塩気を絡ませ、銀色のヴェールとなって港湾を覆う。波止場の木箱には、遠国から運ばれたオレンジが一杯に詰め込まれ、船乗りの掛け声が響く。だが、その喧騒の中心で、マルチェロ・フルクトゥスは静かに佇んでいる。
金髪が朝日に輝き、穏やかな青い瞳は鋼の意志を感じさせる。白いシャツの襟元から、母イザベラの形見のルビーの指輪が覗く。首に下げられたそれは、16年前の母の最期の言葉を封じ込めていた。
「マルチェロ…貴方だけでも…生きて…」
母の言葉が頭に木霊する度、マルチェロを激しい頭痛が襲う。頭を振り、顔を上げ、呟く。
「今日も…一人救うか」
マルチェロは呟き、果物貿易船「ルナ・ビアンカ」の甲板に立つ。船体は雪のように白く、帆にはフルクトゥス家の紋章―黄金のりんごが刻まれている。16歳で名家崩壊から這い上がり、22歳でこの船を手に入れた男。莫大な果物貿易の富は、しかし彼にとって「道楽」の道具に過ぎない。廃棄寸前の奴隷を買い上げ、メイドにしたり、農家や酒屋に紹介する―それが、母の優しさに応える唯一の道と、マルチェロは信じる。
船倉の鉄扉が軋み、メイドのパルマが告げる。
「ご主人様、今回の奴隷です…廃棄期限、明日です」
マルチェロは頷き、階段を降りる。薄暗い船底に、鎖で繋がれた女性が座っている―エリス・アルテリア。銀髪は泥と血で乱れ、肌には鞭痕が無数に刻まれている。だが、何より目を奪うのは―ルビーのような赤い瞳。それは、船底の闇の中で、血のように妖しく輝いていた。
(この瞳…母の指輪と同じ色…)
マルチェロの心臓が、久しぶりに強く鼓動する。エリスは鎖を鳴らし、震える声で呟く。
「…目を…開けるのですか?」
パルマが頭の覆いを外す。眩しさに細められた赤い瞳が、ゆっくりとマルチェロを捉える。少女の唇が動く。
「貴方が…新しい…ご主人様ですか?」
マルチェロは静かに頷く。
「そうだ。俺はマルチェロ。マルチェロ・フルクトゥスだ」
エリスは、調教された従順さで頭を下げる。銀髪が肩に落ち、鎖がカチャリと鳴る。
「ご主人様…エリスは貴方の所有物です…何でも、ご主人様の望むまま…させて頂きます…」
その言葉に、マルチェロの胸が疼く…何度、痛めつけられ、この台詞を言わされたか…12歳で村を追われ、9年間の奴隷地獄… 彼は、エリスの過去を知っていた。赤い瞳が「呪いの眼」とされ、村で疫病が広がると真っ先に追放された少女。買った主人は次々と不幸に遭い、いつしか誰にも買われず廃棄寸前―
「エリス。お前は明日、廃棄処分になる所を俺が買い上げ、救ってやった。当然、感謝しているな?」
マルチェロの声は穏やかだが、青い瞳は少女の反応を見逃さない。エリスの身体は汚れ、髪は乱れ、人間扱いされなかった証が一目で分かる。彼女は赤い瞳を伏せ、かすれた声で返す。
「…感謝?私は貴方の所有物です…そんな資格があるのですか?」
人ではない。物だ。エリスの言葉の端々に、人格破壊の傷跡が滲む。マルチェロは眉を寄せ、言葉を続ける。
「…施しを受けたら、礼を返す。それは、人としての常識だ」
エリスが顔を上げ、赤い瞳は混乱で揺れる。
「人?私に…そんな資格が…あるのですか?」
マルチェロは深く息を吐き、彼女の鎖を外す。重々しい金属音が船底に響く。
「…エリス。お前に、人としての常識と感情を教えてやる。それが、俺がお前を買った理由だ」
「…感情?私に?そんな贅沢な物を…」
エリスの声は震え、赤い瞳に涙の膜が張る…感情すら、奪われていたのか…マルチェロは優しく手を差し伸べる。
「贅沢かどうかはさておき、まずは礼からだ。『ご主人様、私を買って頂きありがとうございます』…言ってみろ」
エリスは唇を噛み、鞭の鋭い音と痛みとの記憶が蘇る…間違えたら…でも、この人は…彼女はか細い声で、ゆっくりと口を開く。
「ご…ご主人様…私を…買って頂き…ありがとう…ございます…」
マルチェロの青い瞳が柔らかく輝く。
「そうだ。施しを受けたら感謝を伝え、礼を尽くす。それが人としての常識だ」
エリスの胸の奥で、何かが微かに震えた…鼓動…?私の? …赤い瞳に、微かに光が宿る。
「は、はい…覚えました、ご主人様…」
マルチェロは、エリスを支えて甲板へ上がる。港の朝霧が、二人を出迎える。
エリスは、物心が付いてから、恐らく初めて、自由な足取りで波止場に降り立つ。潮風が銀髪を撫で、朝霧の中、赤い瞳が仄かに光る…人として…生きる?この鼓動は…何? …
マルチェロは微笑み、彼女の手を取る。
「さあ、エリス。俺と一緒に、新たな人生を歩もう」
出港を告げる鐘が、新たな『夜想曲』のプレリュードのように響いていく―




