第九章 「歌姫の記録」
雨音に支配されていた屋上に、気まずい沈黙が流れていた。
アキラの腕の中で、ノアの震えがゆっくりと収まっていく。先に体を離したのはどちらからともなく、二人は互いの視線を合わせられないまま、濡れたコンクリートの上に立ち尽くしていた。
あの抱擁は、何も解決してはいない。だが、二人の間にあった分厚い壁を、確かに溶かしていた。
「……これ」
沈黙を破ったのはノアだった。彼女は自分の腰を指差す。そこには、あの古い音楽プレイヤーが、雨に濡れて鈍い光を放っていた。
「壊れてないかなって……」
彼女はプレイヤーを手に取ると、動作を確かめるようにスイッチを入れた。その時だった。ディスプレイに、これまで見たことのないファイル名が、淡い光と共に浮かび上がったのだ。
『Project_S.wav』
ノアが再生ボタンに触れると、スピーカーから、信じられないほどクリアな歌声が流れ出した。ノイズも、歪みもない。まるで、すぐ側で歌っているかのような、生々しい音。
アキラは、その声に息を呑んだ。忘れられるはずがない。二十年前、自分の全てを懸けた、セナの歌声だった。
だが、驚きはそれだけではなかった。
歌声そのものじゃない。声が持つ、固有の周波数。音の響き方。倍音の構成。プロデューサーであるアキラの耳だけが聞き分けられる、声の“指紋”とも言うべきその響きが――今、目の前にいるノアと、酷似していた。
偶然では片付けられない、ありえないほどの相似。
パズルのピースが、恐ろしい音を立ててはまっていく。
異常な性能を持つプレイヤー。ノアの爆発的な歌の才能。二十年前のレポートにあった「音響生命体と人間の親和性」という言葉。そして、このセナと瓜二つの声。
「……音反応プロジェクト……」
アキラの唇から、乾いた声が漏れた。
「計画は、ただの研究じゃなかった。厄災で失われたはずの、極秘計画。音に特異な反応を示す遺伝子を組み込み、人工的に“歌姫”を創り出す……」
アキラは、愕然とした表情でノアを見た。
「まさか……お前、あのプロジェクトの……“被験体”……」
ノアの顔から、急速に血の気が引いていく。
作られた存在。歌うために、生まれてきた。瓦礫の中で生き抜いてきた誇りも、歌に出会った時の感動も、すべてが偽物だったと突きつけられたような衝撃。自分の意志だと思っていたものは、全てあらかじめプログラムされたものだったのか。
「……うそだ」
ノアは後ずさり、プレイヤーを落とした。自分の喉に手を当て、何か汚らわしいものに触れるかのように、その手を振り払う。
「私は……私だ! ガラクタ拾って、リクやサラと生きてきた! 歌いたいって思ったのも、私……!」
叫び声は、悲鳴に変わっていく。アイデンティティが足元から崩れ落ちていく恐怖に、彼女はその場にうずくまり、まるで自分自身の存在を拒絶するように、両手で耳を塞いだ。
その痛ましい姿に、アキラは自分を取り戻した。過去の罪でも、世界の謎でもない。今、目の前で、一人の少女が壊れかけている。守るべきものは、たった一つだ。
彼は、蹲るノアの前に膝をつくと、その肩を強く掴んだ。
「――それでも、君はノアだ」
「……!」
「どうやって生まれたかなんて関係ない! この瓦礫の街で生き延びたのも、あのプレイヤーを見つけたのも、鋼鉄のステージで泣いたのも、雨の中で俺に食ってかかったのも、全部君自身だろ!」
アキラは、彼女の経験した一つ一つを、その存在を肯定するように叫んだ。
「君がこれまで生きてきた時間は、誰にも偽物にさせない。君は、ノアだ」
その言葉は、崩壊しかけたノアの世界を、強く繋ぎとめた。彼女は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、アキラに問いかけた。それは、自分の存在そのものへの問いだった。
「私、歌っていいの?」
アキラは、その涙を拭うことすらせず、まっすぐに彼女の瞳を見つめ返した。そして、確信を込めて告げる。これまで言えなかった、本当の答えを。
「ああ。それが、君の“命”なんだ」
雨は、いつの間にか上がっていた。雲の切れ間から、静かな月光が差し込む。
自然と、二人の手は固く結ばれていた。見つめ合うでもなく、ただ同じ方角へ。二人は、夜空に浮かぶ月を、共に見上げていた。




