第二章 「夢は錆びない」
アキラと別れた後も、ノアの胸の高鳴りは収まらなかった。心が、ぞわぞわする。あの奇妙で、抗いようのない感覚。彼女はそれを確かめるように、何度もプレイヤーを再生した。
ねぐらにしている廃ビルの地下。ノアの帰りを待っていたのは、二人の仲間だった。年の近いリクと、年下のサラだ。
「ノア、おかえり。そいつは何だ?」
機械いじりが得意なリクが、目ざとくプレイヤーを見つける。
「拾った。すごいんだ、これ」
ノアがスイッチを入れると、色褪せた地下空間に、再びあの歌声が響き渡った。リクは驚きに目を見張り、サラは怯えたようにノアの後ろに隠れる。だがやがて、二人ともその音色に引き込まれるように聴き入っていた。
「……きれい」
サラがぽつりと呟く。その言葉に背中を押されたように、ノアは宣言した。
「私、これをやる。歌ってやつを」
「正気か?」リクが眉をひそめる。「そんな得体の知れないもの、危険かもしれないだろ。それに、何の足しになるって言うんだ」
「足しになんてならなくていい。私は、やりたい」
ノアは衝動のままに、プレイヤーから流れるメロディを真似て、声を張り上げた。拙く、音程も定まらない、ただの叫び声に近い歌。だが、彼女が生まれて初めて自らの意志で発した音楽だった。
――その時だった。
ギィィィィアアアアッ!
地下に繋がるダクトの奥から、甲高い金属音のような咆哮が響いた。三人の顔から血の気が引く。音に反応する異形――“スクリーマー”だ。普段は廃墟の奥深くで眠っているはずの奴らが、明らかにこちらに向かってきている。
「ノア、お前の声に……!」
リクが叫ぶ。ノアは咄嗟にサラの手を引き、出口に向かって走り出した。背後から迫るスクリーマーのおぞましい爪の音。命からがら地上に逃げ出し、バリケードで入り口を塞ぐと、三人は荒い息を繰り返した。
「歌えば、死ぬ……」
ノアは震える声で呟いた。あの男、アキラの言葉が、現実の脅威となって彼女の喉元に突きつけられる。
だが、恐怖と同時に、ノアの心には別の感情が燃え上がっていた。なぜ、奴らは音に反応する? どうすれば、奴らを呼ばずに歌える? 知りたい。分かりたい。そして、それでも――歌いたい。
翌日、ノアは再びアキラを探した。彼は昨日と同じ高架道路の下で、無気力に鉄屑を仕分けていた。
「あんたの言った通りだった」
ノアが息を切らしながら言うと、アキラは顔も上げずに答えた。
「だろうな。利口なガキは、それで懲りて二度と歌わん」
「私は利口じゃない」
ノアはきっぱりと言い放った。「だから、教えて。どうして音に奴らは寄ってくる? どうすれば、静かに歌える?」
その必死な瞳に、アキラはついに手を止めた。彼はノアの手にあるプレイヤーを一瞥する。
「……そいつをよこせ」
アキラはプレイヤーを受け取ると、手慣れた様子で操作した。ディスプレイに表示される情報。周波数、音圧レベル、波形。厄災前の、それもプロ用の機材でなければ見られないデータが、その小さな画面に映し出されていた。
「……とんでもない代物だな、これ」
アキラの呟きに、皮肉とは違う、純粋な技術者としての興味が滲む。彼の心の奥底で、忘れ去ったはずのプロデューサーの魂が、わずかに疼いていた。
「奴らは特定の周波数に強く反応する。特に、素人が出す制御されていない高音は、奴らにとって最高の獲物の叫び声だ」
「じゃあ、制御すれば……」
「お前にできるか? 歌ってのはな、ただ声を出すことじゃねえ。呼吸、姿勢、筋肉の動き、その全てをコントロールして初めて一本の線になる。お前のはただのノイズだ。ミュータントを呼び寄せるだけのな」
アキラはプレイヤーをノアに突き返した。
「やめておけ。お前には無理だ」
「無理じゃない。あんたが教えればいい」
「……断る」
「じゃあ、私はまた叫ぶ。仲間が危険になっても、私が死んでも、叫んでやる」
それは、脅しだった。だが、その瞳は本気だった。アキラは舌打ちし、頭を掻きむしる。この少女は、かつて自分が育てた誰よりも頑固で、そして、どうしようもなく強い光を宿していた。
その夜。
街で一番高い、崩れかけたビルの屋上に二人の姿はあった。眼下には、死んだ街の骸が広がっている。
「いいか、まずは呼吸だ。腹から息を吸って――」
アキラの指導は、無愛想で、専門的で、一切の情熱を感じさせない。だが、その言葉は的確だった。ノアは言われた通りに、必死に音を理解しようと努めた。
何度も、何度も繰り返す。掠れた声が、錆びついた風に溶けていく。
そして、何十回目かの挑戦で。
ふ、と。ノアの唇から、ノイズの混じらない、澄んだ一つの音が生まれた。
(できた……!)
自分の喉から、あのプレイヤーと同じ“魔法”が生まれたことに、ノアは息を呑んだ。それは、ガラクタを価値あるものに変えることよりも、ずっとすごいことのように思えた。嬉しさと誇らしさで、彼女はアキラの方を振り返った。
その瞬間、アキラの口元が、ほんのわずかに綻んだのをノアは見逃さなかった。それは、すぐに消えた幻のような微笑みだった。
「ねえ、今、笑った?」
ノアが尋ねると、アキラはバツが悪そうにそっぽを向いた。
「気のせいだ」
吐き捨てるように言った彼の横顔は、月明かりの下、ほんの少しだけ、寂しそうに見えた。




