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軍艦モノ

杉型駆逐艦1号艦“杉”

作者: 仲村千夏

 長崎の湾内は、まだ朝の靄に包まれていた。

 造船所の岸壁に繋がれた新造艦《杉》は、すでに艦尾に日の丸を翻し、初めての航海を待っていた。


 直線的な船体。

 工場で切り出した鉄板を貼り合わせたような無骨さが目につく。

 遠目には新造艦らしい威容を保っているが、近寄ってよく見れば、艦橋の横に走る溶接の筋が段差となって浮き出し、甲板の縁には鋼板の継ぎ目が斑に光っている。

 美しさを誇る花形駆逐艦《吹雪》型や、流線を描く《陽炎》型とは比べようもない。


 兵員たちは新しい勤務先を珍しげに見上げ、しかし表情には戸惑いも滲んでいた。

「これが……俺たちの船か」

「まるで継ぎ接ぎ細工だな」

 誰ともなく洩らす呟きが、冷たい海風に消えていく。


 武装もまた質素そのものだった。

 甲板に備え付けられたのは十二・七センチ高射砲が前後に一基ずつ、それと幾つもの二十五ミリ機銃。

 魚雷発射管の影はどこにもない。

 水雷屋たちの腕の見せ所など、初めから切り捨てられているのだ。

「魚雷のない駆逐艦なんて……水雷屋が泣くわけだ」

 甲板を歩きながら、誰かが吐き捨てた。


 そんな艦に、艦長として乗り込むことになった男――中佐・村瀬直哉は、無言のまま艦橋を見上げていた。

 同期の仲間は華やかな最新駆逐艦に配属されている。誇らしげに笑いながら酒を酌み交わす姿が頭をよぎる。

 対して自分の艦は、量産と効率ばかりを追った無骨な試作品。

 命令とあれば従うしかない。だが胸に湧き上がるのは嫌気ばかりであった。


 《杉》はまだ処女艦。

 これから試験航海を繰り返し、艦としての信頼を積み上げていかねばならない。

 村瀬の心は、朝靄のように晴れず、先行きはお先真っ暗に思えた。


 初めての試運転の日、長崎の港は灰色の雨雲に覆われていた。

 汽笛が低く響き、量産駆逐艦一号艦「杉」は、造船所の岸壁を離れてゆく。


「離岸完了、錨収容終わりました」

 操舵員の報告に、航海長が頷き、私の方へ視線を送る。

「艦長、いよいよ杉の初航海ですな」

 その声には、期待と不安がないまぜになった響きがあった。


 私は口をつぐんだまま、鈍重な船体を見回す。直線的で角ばった船影。優美さのかけらもない。

 よく見れば継ぎ接ぎを思わせる鋼板のつなぎ目が、艦首から艦尾まで走っている。まるで継ぎ足しの古着を無理やり形にしたかのようだ。


「魚雷なしの駆逐艦なんざ、聞いたこともない……」

 思わず漏らした私の呟きに、砲術長が苦笑まじりに答えた。

「ですが艦長、対空砲は充実していますよ。二十五ミリ三連装が四基に、単装も四基。敵機が来れば、この杉は蜂の巣みたいに火を噴きます」

「火を噴いたところで、突撃の誉れもなければ、敵艦を沈める力もない」

 吐き捨てるように言うと、艦橋に短い沈黙が落ちた。


 やがて航海長が小声でつぶやいた。

「……ですが、この艦にしか守れぬものもあります」

 私は聞き流そうとしたが、その言葉が心の奥に小さな棘のように残った。


「速力二十五ノット、全速前進!」

 命じると、機関の唸りが艦底から響いてきた。雨にけぶる湾口へ向け、鈍い鋼鉄の船体がじわりと動き出す。


 思ったよりも軽やかに波を切ってゆく。

「おや……悪くないですね」

 操舵員が驚き混じりに声を上げた。

 私もわずかに目を細める。――たしかに、想像していたよりは。


 港を離れるにつれ、灰色の海原が広がった。

 雨粒が艦橋の窓を叩き、白い飛沫が艦首を覆う。

 そのざわめきの中で、私はふと考えていた。

 ――見栄えは悪くとも、この艦にしか果たせぬ役割があるのかもしれん。


 それでも、心の奥底に燻る嫌気はまだ消えない。

「杉」の未来は暗く、そして不透明だった。


 湾口を抜け、外海に出た「杉」は、雨雲の合間に銀色の波を蹴立てながら進む。

 まだ試運転の段階ではあるが、艦橋には緊張した空気が漂っていた。


「艦長、右前方に浮標を想定した標的を配置しました。これより対空・対水上の射撃試験を開始します」

 砲術長の声に、艦長である私は軽く頷いた。


「三連装、準備! 射撃姿勢!」

 艦の各所で機銃手が手際よく装填ベルトを整える。

「単装も忘れるな、雨で滑るぞ!」

 航海長が甲板員に注意を飛ばす。


 波を割りながら艦が進むたび、鈍重だと思っていた船体が意外にも安定していることに気づく。

「おや、悪くないな……」

 私の呟きを聞いた操舵員が笑った。

「艦長、この揺れなら射撃も安定します」


 艦橋で眺める景色は、整列した標的の黒い影。

 三連装機銃が一斉に発射されると、雨に煙る海面に火花が散った。

 砲術長が声を張る。

「艦長、命中! 見事に標的を打ち抜きました!」

 甲板員たちの顔にも、初めての達成感が見える。


 艦長として私は胸中で驚きを隠せなかった。

 この艦は、見た目の鈍重さとは裏腹に、対空火力を存分に発揮できる――。

 魚雷もなければ速力も抑えめだが、護衛艦としての使命には十分応えられる性能を秘めていたのだ。


 その瞬間、艦橋で航海長が小さくつぶやく。

「……艦長、杉は意外と頼もしいかもしれません」

 私も思わず微かに笑った。

「そうかもしれんな……。いや、頼もしいとは言わん。だが、無駄ではない」


 雨が一瞬やみ、灰色の海原に濡れた艦体が鈍く光る。

「杉」は直線的で美しいとは言えない。ツギハギだらけの船体も、雨の光の中では妙に落ち着きがあった。

 初めて、自分の艦に少しだけ希望を見いだせた瞬間だった。


 しかしその目には、まだ試練の航海が続くことも映っている。

 嵐や敵機の襲来、長距離護衛――量産艦の一号艦には、試験が尽きることはない。


 だが確かに、「杉」はその鈍重な姿のまま、海の上で存在感を示し始めていた。


 試験航海を終え、長崎湾に戻る「杉」の艦首は、静かに波を切った。

 雨は上がり、灰色だった海面には、柔らかな光が差し込む。艦体のツギハギも、どこか落ち着いた表情に見えた。


 艦橋で、航海長が士気高く報告する。

「艦長、射撃試験はすべて成功しました。速度も安定しています」

 砲術長も続けた。

「対空火力も予想以上です。魚雷はなくとも、この艦の役目は十分果たせます」


 私は小さく息をつき、目を前方に向けた。

 かつて嫌気しか抱かなかった艦も、今は少しだけ頼もしさを感じさせる。

 直線的で無骨、ツギハギの船体。魚雷もない、華やかさもない。

 だが、この艦には護衛艦としての誇りと使命が宿っていた。


「杉」はまだ量産一号艦にすぎない。

 今後何隻も、同じ艦が海に生まれ、輸送船や戦艦、空母を守るだろう。

 そして自分も、この艦と共に学び、戦い、守ることになる。


 初めて、私は素直に心の中で思った。

 ――お前となら、やっていけるかもしれない。


 艦橋の窓越しに、朝日の光が艦体を淡く照らす。

 その光に映る「杉」の姿は、見栄えこそ悪いが、確かな存在感を放っていた。


 試験の日々はまだ始まったばかりだ。

 だが、今の私には恐れよりも、少しだけ希望があった。


 灰色の海に、新しい駆逐艦の航跡が長く伸びていく。

 量産艦一号艦《杉》――その名は、やがて護衛の象徴として、海の上に刻まれていくのだ。

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