6‐1 サイコロ辞書の魂
一灯塾には、教室におやつ缶が常備されている。
「勉強に糖分は不可欠だ! 」
ある時、村夫子先生がそう言いだして、教室内に設置されたしろものだ。
駄菓子に洋菓子、もちろん源氏パイ。村夫子先生の好みで缶の中は構成されていた。
最初は乗り気ではなかったが、あるときお菓子作りにはまってからは、いつの間にか私の方がおやつ缶の内容に熱心になっていた。
最近は家で作ったマドレーヌやクッキーなどもラインナップに加えつつ、最適なおやつ缶のラインナップを模索している。
そんな私の様子を見て、見かねた村夫子先生が口をはさんだ。
「一号、最近たるんでるんじゃないのか。そんなことでは、斎藤秀三郎先生のようにはなれないぞ」
なんだか知らない人の名前が出てきた。
「誰ですか、その人」
「なに、斎藤秀三郎先生を知らないのか⁉ 」
村夫子先生は、目を大きく見開いて、ずいぶん大げさに驚いて見せた。
「有名な人なんですか? 」
先生が、ショックを受けている。
「一灯塾生として、これは由々しき事態だ……! 」
そう言うが早いが、村夫子先生はホワイトボードに知らないおじいさんの似顔絵を描き始めた。そうしてその下に大きく、「斎藤秀三郎大先生」と板書した。
「先生は、その語学力と英語に対する徹底的な態度で、ドイツ語の関口存男先生と並び称された、明治日本における語学の伝説的な存在なのだ」
更に知らない人の名前も出てきたが、とにかく偉い人のようだ。
「どんなところが凄いんですか? 」
「そうだな……」
村夫子先生は考え込んだ。
「ある時、イギリスからシェイクスピアの作品を扱う劇団が来て、公演をしたことがある。もちろん演者はイギリス人で、セリフは全て英語だ。そんな一流の集団に、秀三郎先生は流暢な英語でこう言い放った! 」
「『お前らの英語はなっちゃいねえ! 』」
「迷惑な人じゃないですか……」
「いやいや、それだけのことを言えるくらい、真剣に英語に向き合った人だったってことだよ」
「そう考えればいいんですかね……」
「ちなみに、斎藤先生は一度も日本を出られたことが無かったそうだ。すべて、国内での鍛錬だけで、それだけの領域に到達することが出来たんだ。私の憧れだ」
「頑張って勉強した人だったんですね」
「ああ。そして何より……」
村夫子先生が本棚の方を見る。
「あそこにあるあの辞書、あれを作った人なんだよ」
視線の先を追って、それだけ斎藤先生を尊敬するのも納得がいった。一灯塾の本棚でも、ひときわ存在感のある本がある。それが、サイコロ辞書だ。高さは20センチほどで、他の本とそう変わらない大きさなのだが、その横幅が高さと同じくらいある。つまり、背表紙が正方形の形をしているサイコロみたいな辞書なのだ。表紙はボロボロで、その古めかしい見た目と相まって、他の本とは少し違う空気を放っている。隙間なく本が並んでいる一灯塾の本棚の中で、この辞書だけは特別に、一冊だけで一つの段を占めていた。
「ここには、斎藤秀三郎先生の血と汗と涙、そして一生を英語に捧げた魂が込められているんだ。特別な辞書さ」
「この本って、どこで手に入れたんですか」
「大学の時に、運良く手に入った。私の家宝だ」
村夫子先生は、サイコロ辞書を懐かしそうに眺めながら、昔のことを思い出したのか、一瞬遠い目をした。
「さあ、そんなわけで斎藤先生がこの塾を見守ってくれているんだ。君たちも、勉学にはげみなさい」
「はーい」
「風波先生、ちょっといいですか」
一人の高校生が、通りかかった風波に話しかけてきた。
「どうしましたか」
呼び止められた風波は、立ち止まった。
「ここの英文の、良い訳が思いつかないんです、少し教えてくれませんか」
高校生に手渡されて、参考書を眺める。
「ああ、文構造が少し複雑ですね。それと、この単語はジーニアスだけじゃなくて、別な辞書も見てみるといいですよ」
そう言いながら、風波は近くにあった紙とペンで、英文の解説をした。
「ありがとうございました! 」
お礼を言って、解説を受けた高校生は笑顔で去っていった。
ひと呼吸おいて、事務所に戻る。
ふと、机の上にある函入りの赤い辞書にも目が留まった。熟語本位英和中辞典新版。函にそう書いてあるこの辞書は、何年も使い込まれたようで、ところどころ擦り切れていた。 風波はこの辞書を函から取り出し、ページをめくりながら、じっと物思いにふけった。