4‐2 弾丸札幌旅行
「清水茜さん」
「はい」
私の名前が呼ばれた。
「順番が来たらお呼びします。それまで、こちらでお待ちください」
「わかりました」
男の人が去っていく。
ああそうだ。私はこれから試験を受けるんだった。準備もしっかりしてきた。
廊下には、私以外に何人も生徒がいる。皆、今日の試験に向けて用意してきたみたいだ。
いよいよ本番なんだ。そう思うと、私の緊張はいやがおうにも高まった。
一人、また一人とどこかへ呼ばれていく、私はまだ呼ばれない。
静かな空気の中で、時間を過ごす。
向こうの方で職員の人達が何事かを話している。見ているうちに、その中の一人がこちらに近寄ってきた。
「清水さんですね」
「はい、そうです」
その職員は他の人と目を合わせてうなずくと、私にこう告げた。
「申し訳ありません。あなたは試験に参加できなくなりました」
この言葉に、私は少なからず驚いた。最初は言葉もなかったが、事の重大さがのしかかってくる。
「どうしてですか? 納得できません」
冗談じゃない。こんなの理不尽だ。私は抗議をした。
男の人は表情を崩さない。
「すみませんが、お答えできかねます」
建物の外に出された私は呆然とした。
これからどうしよう。何にもできない。
途方に暮れていたその時、
「おーい、一号ー」
向うで私を呼ぶ声がする。見ると、村夫子先生だった。亮太くんもいる。塾の外で焼き肉をしている。
「今日は天気が良いから、外で焼き肉だ! 一号の分もとってあるぞ。一緒に食べよう」
元気に声をかけてくる。ああ、そうか。私には一灯塾があったんだ。そう思って、私はくすりと笑った。晴れた日の空に、焼き肉のいいにおいが煙とともに広がる。
「先生、いま行きます」
「……一号、おい一号」
村夫子先生の呼ぶ声がする。私は目を覚ました。
「おお、ぐっすり眠ってたな。札幌に着いたぞ」
窓の外を見てみると、そこはもう街の中だった。
車を駐車場に置いてから、私たちは札幌の街を歩きだした。
渥美にはない、さまざまな店を眺めて歩いて行くうちに、目当ての古道具屋さんについた。
「武田骨董品店」
古めかしい看板が掲げてある。老舗のようだ。
村夫子先生が引き戸を開けて、中を覗いた。
「すいませーん」
返事がない。少ししてから、先生はもう一度店の奥に呼びかけた。
「すいませーん」
何の反応もない。しばらくして、奥の方からガタゴト音がしてきた。
ぬっと奥から出てきたのは、立派なヒゲをたくわえたおじいさんだった。
「何か用かね」
おじいさんが、じろりとこちらを見る。お世辞にも愛想がいいとは言えない。
「はい、この万年筆のことなんですが……」
鞄の中から例の万年筆を取り出して、村夫子先生はことのいきさつを話し始めた。
「……というわけで、そちらで購入した万年筆が故障していたんです。なんとか修理することはできないでしょうか」
おじいさんは万年筆を受け取り、いろいろな角度から見だした。しばらく仏頂面で眺めたあと、万年筆を置くと、机の上にあった煙管に火をつけ、ゆっくりと吸い出した。
ふー、と煙管の煙を吐きながら遠くを見ている。やがてこちらの方を向き直した。
「うちは文房具屋じゃないんでね。申し訳ないが、こういう事ならお引き取り願おうか」
そのつっけんどんな言い方に、
「そんな、もう少し考えてくれたっていいじゃないですか」
思わず私は口を出していた。おじいさんは私のことをうるさそうに見たあと、こう続けた。
「うちが文房具屋だったら話は別だ。文房具屋は書ける道具を売らなくちゃいけない。だが、うちは古道具屋だ。道具が書けようが書けまいが、そんなことは関係ないんだ。使えなくても、鑑賞用に買いたいってお客もいるしな。……まあ、ひび割れに気付かずに売ったのはこちらのミスだ。返品には応じられるが、修理ときたらなかなか難しいことになる」
村夫子先生は、諦めきれない様子で食い下がった。
「そこをどうにかなりませんか、初めて手に入れたモンブランの万年筆なんです」
そんな先生に、おじいさんはもう一度万年筆を見てから、こう言った。
「これを修理するとなると、おそらく本国送りになるだろう。しかも、高級ブランドのモンブランときた。この意味、あんたなら分かるんじゃないのか」
その言葉を聞いて、村夫子先生は何かを悟ったようにうなずいた。
「そうか、本国に……」
先生は名残惜しそうにしながらも、私たちのほうへ振り返った。
「……仕方ない。一号、二号、帰るぞ。あの人の言うことももっともだ」
「えー、もう帰るのかよ! 」
亮太くんが露骨にがっかりする。
「文句を言うな、あとでおいしいラーメン屋くらいには連れてってやるから」
「また六時間ドライブかあーー」
「亮太くん、ほとんど寝てたでしょ」
「いやだよ俺、せっかく渥美から来たのに、なんにも遊べてないじゃん! 」
亮太君のこの言葉を聞いた時、おじいさんの表情がぴくりと動いた。
「……いま、渥美といったか? 」
おじいさんは、渥美という言葉に反応をしたらしい。
「あんたら、それを言うためにわざわざ渥美から来たのか? 」
「ええ、はい、そうですが……」
村夫子先生は、おじいさんの勢いに押されながらも答えた。
「ふむ……」
おじいさんはしばらく考え込んでいるようだった。
「おい」
おじいさんが、先程帰ってきた店の人に声をかけた。
「倉庫に入って右側の棚の、一番上においてある箱を持って来てくれ」
少しして、店の人が、小さな箱を持ってきた。受け取ったおじいさんが、無言で村夫子先生に手渡す。
先生が箱を開くと、中には黒色の万年筆が入っていた。村夫子先生が持っている万年筆とよく似ている。
「これは……」
村夫子先生は、手に取ってそれを眺めた。
「遠くから来てくれて、手ぶらで返すわけにもいかんだろう。カスタム67の、オブリークだ。あの一本には劣るだろうが、使ってくれ。期待に沿えなくてすまなかったな」
おじいさんの言った万年筆の名前はピンとこなかったが、村夫子先生の顔を見ると、何かが伝わったようだ。
「ありがとうございます! 大切に使います! 」
村夫子先生が途中で気付いたように、あわてて財布を取り出した。
「あの、お代は」
それを聞いて、おじいさんは照れくさそうに手を振った。
「なに、お代は結構。渥美にはちょっと縁もあるもんでな。古い知り合いがいるんだ。」
「そうなんですか」
ああ、とおじいさんが応じる
「勉強のできる奴でな。ずっと勝てなかったが、いい友達だった。今は渥美にいるらしい。これも何かの縁だと思って、貰ってくれ」
おじいさんは、昔を懐かしむように、そう言った。
店を出た村夫子先生は、気持ち良さそうにひと伸びしてから、こちらを見た。
「さっ、ラーメン食べて帰るぞ! 」
「おれ、チャーシュー麵ね! 」
ラーメンと聞いて、嬉しそうに亮太くんが言う。
「せっかくの札幌ですし、味噌ラーメンを食べましょうか? 」
私の頭には、前にテレビで見たことがあるバターとコーンがたっぷり入った味噌ラーメンが思い浮かんだ。
「いや、私は醤油にしておく」
「え、どうしてですか? 」
「味噌は野菜がたくさん入ってるからいやだ」
「子供ですか……」
その後、私たちは地元のラーメン屋さんに到着し、思い思いのラーメンを注文した。
「そういえば、あのおじいさんが言ってた『本国送り』って、どういうことですか」
注文したラーメンを食べながら、私は村夫子先生に質問した。
「ああ、あの万年筆を作ってるモンブランは本社がドイツにあるんだが、その万年筆が壊れたってことは、本当はドイツまで万年筆を送らなくちゃならないんだ。もちろん日数も、費用も、けた違いにかかる。軽い故障なら日本で直せるはずなんだが……。あのヒビは、なかなかの不具合だったってことだな」
「なるほど」
私は納得した。
「ちなみに、その万年筆って、そんなに高いんですか? 」
「ああ」
村夫子先生はチャーシューを口にした。
「このまえ、みんなで寿司のポセイドンに行った事があっただろう」
「はい、ありましたね」
「あの万年筆は、中古でもポセイドンで寿司が20回は食べられる値段だ」
「あの一本でですか……⁉ 」
たった一本の万年筆にそんなにお金がかかるなんて、村夫子先生の趣味は理解しがたい。
その後は札幌の大きな書店を見て回った後、また車で帰った。
帰りの道で安全運転に徹した村夫子先生が、後から来る車に抜きに抜かされて、意気消沈した一連のエピソードは、また別の話だ。
「そういえば一号、ほれ」
塾に帰ってきて数日後、村夫子先生は私に何かが入った包みをくれた。
「なんですか、これ ? 」
私はいきなりのことで、とまどった。
「まあ、開けてみなさい」
言われるままに、包みを開ける。するとそこには、当根湯の道の駅で買うのを諦めたシマエナガのぬいぐるみが入っていた。
「どうしたんですか ? ! これ ? 」
私が驚いたのは、言うまでもない。
村夫子先生は何でもないような顔をして、こう言った。
「一号、それ欲しがってただろう。せっかくの旅の思い出なんだ。持っておきなさい」
村夫子先生は、見ていないようで、意外と私のことを見ているようだ。手のひらに乗ったぬいぐるみに、自然と頬がゆるむ。
「ありがとうございます。大切にします! 」
私はお礼を言った。
「えー。俺にはないのかよ」
亮太くんが不満そうに私のシマエナガを見てくる。
「何を言うんだ二号、あるにきまってるじゃないか! 」
そう言って、村夫子先生はどこからともなく謎の包みを持ってきて、亮太くんに渡した。亮太くんの顔がパッとかがやく。
「せんせー、開けていい ? 」
「もちろんだ」
村夫子先生は、自信満々だ。
亮太くんが、わくわくしながら包みを開ける。すると中には、ダッフルコートの前をとめる飾りのような、とがった何かが入っていた。
「……なにこれ ? 」
亮太くんがたずねる。
「鹿のツノでできたキーホルダーだ。特に使い道はないが、格好いいぞ! 」
「いらねーー! 」
そんなことを言いながらも、顔はうれしそうだ。
そのあとはひとしきり、札幌旅行の思い出話に花が咲いた。
その札幌旅行から数か月前、駅近くのとあるラーメン屋で、二人の男が話をしていた。
「……真面目で、いい子なんです」
片方の男は、そう言って目の前のコップを見つめた。
「私にはもったいないくらいだ。ただ、中学受験で失敗してから、ずっと元気がなかったんです。北海道に来たのも、何かあの子のためになればと思ってしたことでした」
男はコップの中の水を飲んだ。
「…………あの子を、頼みます。あなただったら、茜を任せられる」
もう一人の男が、無言でうなずく。それは塾を開いたばかりの、村夫子だった。