2 村夫子先生と塾生二号
一灯塾に行くようになって、あっという間に一か月が過ぎた。左足を骨折した村夫子先生は、数学の授業をなぜか私にさせるようになっていた。
「ええっ、嫌ですよ! 数学教えるなんて」
初めて村夫子先生からその話を聞いた時、私は当然のように嫌がった。生徒の私が授業をして、先生がそれを聞くなんて、意味が分からない。
「大体、学校で数学を習うようになってから、まだ一か月も経ってませんよ」
「なに、気にすることはない。教えているうちに分かるようになってくるさ」
「そんなムチャクチャな……」
「とにかく、物は試しだ! やってみなさい! 」
「嫌です。普通に授業してください」
きっぱり言うと、不満そうにこちらを見てくる。
するといきなり、左足を抑え始めた。
「ああっ、なんだか急に足が痛くなってきた! 清水さんが授業してくれなきゃ治らないぞ! 」
本気か……この先生。こんなに子供じみた人は、見たことがなかった。
「なあ、頼むよ。数学だけでいいからさ。やってみてくれ」
どうやら、何を言っても無駄なようだ。私は諦めて、首を縦に振った。
「はあ、仕方ないですね……」
こうして私は、数学の授業をするようになった。
ホワイトボードに書く字は不本意ながらも、少しずつサマになってきた。先生は椅子に座って、ふむふむと万年筆でノートをとっている。村夫子先生はいつも万年筆を使う。
「だから、x=12になるんですよ」
「なるほど! 」
心の底から納得したような顔をしている。
「一号は教えるの上手いなあ。これで数学をやり直せるぞ」
「……あの、その一号っていうの、いい加減やめませんか? 」
村夫子先生は非常に心外だという面持ちで、私を凝視した。
「何を言うんだ! 君は塾生一号じゃないか。最初の一人というのは非常に名誉なことなんだぞ。君からこの塾の歴史が始まり、そして続いていくんだ! 」
と村夫子先生が塾生一号の意義について熱く語っていた時、突然、
ピンポーン
インターホンの音がした。先生が、大げさに反応する。
「ほれみろ! きっと塾生二号の申し込みだぞ。君は先輩になるんだ。せいぜい威張りたまえ」
そんなことを言いながら、村夫子先生はいそいそと玄関へ向かっていった。こちらからは背中しか見えなかったけど、声がとても弾んでいた。
「はい、一灯塾です! 」
「藤村さん、失礼するよ」
入ってきたのは、一階にある八百屋のおばあさんだった。
「あっ、大家さん! 昨日はおいしい野菜をありがとうございました」
「いいんだよそれくらい。不格好な野菜で、値段がつかなくて。ただみたいなもんだったんだから」
おばあさんはこの塾の大家さんもしているらしい。
「それにしても……」
おばあさん、いや大家さんは、私と村夫子先生しかいない教室の中を見回した。
少し困った顔をしながら、ふう、とため息をつく。
「あんた、春先から生徒を募集してるけどさ、これで生活していけると思ってんのかい? 全然生徒が増えてないじゃないの」
大家さん、なかなか痛いところを突いたみたいだ。その言葉を聞いたとたん、村夫子先生の元気が目に見えてなくなっていった。
「はい、お恥ずかしい話で、募集はしているんですが……」
村夫子先生はばつが悪そうに、頭をかいて言った。髪の毛は相変わらず、明後日の方向にはねている。
「そうだねえ……」
大家さんが、腕を組みながら何事かを考えている。
「この間も言ったかもしれないけど、うちに孫がいるんだよ」
「ああ、お孫さんですね。昨日はお会いできませんでしたが、……もしかして中学生なんですか? 」
「そうなのさ。今年から中学でね。小学生の頃は好きにやんちゃもやらせてたけど、中学に上がったらさすがに少しは勉強するようにしないとね。……あの子のこと見てくれたら、家賃も多少はおまけするからさ。お願いできないかい。もちろん塾に通う料金はちゃんと払うよ」
「ええっ、いいんですか」
村夫子先生の目が俄然輝く。
「まあ、同じ建物に住んでるよしみってやつかね。あたしも貸してる以上、商売はうまくいってほしいんだよ」
「あ、ありがとうございます! 」
「じゃ、そんなわけでよろしく頼むよ。明日連れてくるからね」
そういって大家さんは一階へと降りていった。
というより村夫子先生、ちゃんとした名前があったんだ。藤村さんか。今度その名前ででみようかな。
話を受けた村夫子先生は上機嫌だった。
「どうだ! 塾生は増えるし、おまけに家賃も安くしてもらえる! 最高じゃないか」
いつもの二倍増しくらいに声が大きい。よほど嬉しかったようだ。
「いい子が来るといいですね」
私もいい加減、村夫子先生との一対一にはうんざりし始めていたので、新しい塾生が来ることにはいくらか安心を覚えた。
そして次の日、大家さんは例の子を連れて塾にやってきた。
背はそれほど高くない。短く刈り込んだ髪は活発な印象を与えた。
「それじゃあ、後は頼んだよ。亮太、晩御飯までには帰ってきなさいね」
「あーい」
男の子は大家さんにゆるく返事をした。
大家さんがドアを閉める。
「改めまして、こんにちは亮太くん! 私のことは村夫子先生と呼んでくれ。村に夫に子供の子で、村夫子だ! よろしく! 」
「よろしくお願いしまーす」
「今日から君は塾生二号だ! 」
「なんすかそれ? 」
亮太くんがまったく気を遣わない質問をする。
「ふふふ、いいだろう。君は名誉ある二人目の塾生ということだ。歓迎する! 」
「はあ」
「それじゃあ、まずはオリエンテーションだ! ついてきなさい! 」
こんな調子で、亮太くんの初日は何事もなく過ぎていった。
しかし、亮太くんが来てから一週間が過ぎたころ、事件は起きた。
「うおおおおおおっっ! 」
塾に入るなり村夫子先生が奇声を上げている。亮太くんはまだ来ていないようだ。
「本がっ、全部っ、ひっくり返っているっっ! 」
何事かと思って本棚を見ると合点がいった。本の背表紙が、無くなっている!
いや、正確にはついているのだろうが、正面からは本の小口ばかりが見える。要するに、背表紙が本棚の奥に来るように、全部逆に入れられているのだ。
「誰だこんなことをした奴はっ! 直すの大変じゃないか! 」
先生お気に入りの、サイコロみたいな形をした辞書も逆にしてある。随分な徹底ぶりだ。
「一号……」
ゆらりとこちらを振り返り、村夫子先生がただならぬ様子で私の方を見つめてきた。
「怒らないから正直に言いなさい。まさかとは思うが、君がやったんじゃないだろうね」
「私がこんなこと、するわけないじゃないですか」
「いいや分からん、いつもの扱いに耐えかねて、こんな凶行に走ったのかもしれない」
扱いがひどい自覚はあるのか。
村夫子先生は疑り深く私を見てくる。
「というか先生、私が来るまで気付かなかったんですか? 」
「いや、それはまあ……」
先生が言葉を濁した。いつものごとく、寝ぐせの直しが適当だ。おおかた寝坊したのと、私がこんなに早く来るとは思っていなかったのだろう。今日は学校の創立記念日で、丸一日休みなのだ。
「ところで二号がまだ来てないな」
「そうですね。そのうち来ると思いますよ」
「昨日はあいつ、なんかいつもと様子が変だったよな」
「言われてみればそうですね」
「………………」
「………………」
沈黙が二人のうちに流れた。
そういえば亮太くん、昨日は珍しく「自習がしたいから」と言って、最後まで残っていたのだ。先生も眠かったのか、「電気は消しておけよ」と言って、私が帰るのと同じくらいの時間にさっさと住居スペースに引っ込んでしまったのを覚えている。亮太くんはあのあと本当に自習をしていたんだろうか。
そんなことを考えている時に、玄関のドアが開いて亮太くんが入ってきた。
「こんにちはー」
亮太くんは今日も元気に活動してきたようで、トレーナーには草きれがくっついていた。
「二号っ! 」
村夫子先生が鬼の形相で亮太くんをにらみつけた。
「なんすか」
「なんすかもこうすかもないっ、これはどういうことだ! 説明してみろ! 」
村夫子先生が本棚を指さしながら問い詰める。大事な本にいたずらされて怒り心頭だ。
「説明もなにも、なんで俺がやったってわかるんだよ」
「一号がこんなことするわけないだろうが! なんでこんなことをした! 」
先生の言っていることがまるで逆だけど、私も亮太くんがどうしてこんないたずらをしたのか気になった。
亮太くんは平気な顔をしている。
「だってそんぷーし先生が前言ってたじゃん、『最近本棚にある本を読み返してないんだよな。手に取るところからでも始めないとなあ』って。だいぶ苦労したんだぜ、俺。こうしておけば向きを直す時に手に取るだろ」
どうだ自分は良いことをしてやったんだ、と得意げな表情である。
しかし村夫子先生も黙ってはいない。
「だとしても君は『自習がしたい』と言っただろうっ! これのどこが自習だ! 」
真っ赤になっている村夫子先生の顔色とは対照的に、亮太くんの顔色はいつもと変わらない。
「先生、自分で言ったこと覚えてないのかよ。『本を読むのも勉強のうちだ! 』って言ってただろ。タイトルを見るだけでも、十分勉強じゃねえの? 」
にやりとしながら亮太くんが言う。
ぷつん、という音はしなかった。
だが、村夫子先生の怒りが頂点に達したことは空気で分かった。
「……ふざけるなあっ! 全部元通りにしないと授業はしないからなっ! 」
雷のごとく声が鳴り響いた。
荒々しくドアを閉めて村夫子先生は向こうへ行った。あとには私と亮太くんだけが残された。
しばらく気まずい沈黙が残る。
「……ねえ、元に戻そうよ。村夫子先生怒っちゃったじゃない」
亮太くんはずっと黙っていた。やがて、ふてくされながら本棚に手を付けだした。
「なんだよ、せっかく反対にしてやったのに。二度手間じゃねーか」
不機嫌そうに独り言を言う。
「上の方の本はどうやって入れ替えたの? 」
「机使って、がんばった」
昨日の夜、一人で黙々と本の向きを入れ替える亮太くんを想像すると吹き出しそうになった。が、そうも言っていられない。
黙々と本を元に戻す作業が続く。
大きくて重い本が無造作に上の方の棚に置いてあったりする。地震になったらどうするつもりなんだろう。
「あれ? なんだ、これ? 」
亮太くんが不思議そうに声を上げた。見ると、なにやら封筒を手にしている。
「なにそれ? 」
「手紙かな、本の間に挟まってた。先生の名前がある。そんぷーし先生の名字って藤村だったよな? 」
光に透かして中を見ようとしている。
「あ、開いてるじゃん。」
封筒の中からは、三つ折りにされた数枚の紙が出てきた。
「勝手に見たらまずいよ」
こちらの顔をじっと見た後、亮太くんはにやりとした。
「なんか秘密の手紙って感じで、楽しそうじゃない? 怒られっぱなしも、しゃくだしさ。あの先生の弱みでも握ってやろうぜ」
「もっと怒られると思うけど……」
亮太くんがそう言って手紙を開こうとしたその瞬間だった。
「まてまてまてまて、何してる! 」
ドアを開け、猛然と村夫子先生が走り寄ってきた。亮太くんの手からその謎の封筒と三つ折りにされた紙を奪い取る。足が完治していないとは思えない勢いだ。
「反省して本棚を直してるかと思えばこれか! 油断も隙もあったもんじゃない! 」
村夫子先生は紙を大事そうに握りしめた。本を動かす音が止まり、私たちの様子が気になって、ドアのすきまから覗いていたらしい。
「先生、なんですかそれ」
亮太くんがにやにやしながら聞く。
「君には関係ない! 」
「彼女? 」
「……秘密だ」
亮太くんは依然としてにやにやしている。村夫子先生が明らかに動揺している。
「うるさいうるさい、そんな事より全然片付いてないじゃないか! ほら、一緒に戻すぞ」
そう言いながら、村夫子先生は本棚に手をつけた。
そのあとは、皆で手分けして作業したので、片付けは思ったよりも早く終わった。
「よしよし、頑張ったご褒美に、おやつをやろう」
そう言って村夫子先生が出してきたのは、皿に積まれた源氏パイだった。
「好きなんですか、源氏パイ? 」
「ああ。平家パイもあるから、これで平家物語ごっこができるぞ! やあやあ、我こそは……」
「食べ物で遊ばないでください! 」
そんなことを言いながら、その日は三人で仲良くパイを食べたのであった。