6‐2 サイコロ辞書の魂
「重晴、今日は飲むぞ! 」
「またですか」
大学三年生の秋、私はいつものように、藤村先輩に飲みに誘われた。
アパートの階段を上って、部屋へと入る。
あちこちが本と紙切れが散らかっている。人が来るから部屋を片付けるという思考が、この人にはないらしい。
「また、本が増えましたね」
「ああ。卒論が進んできてな。読まなきゃいけない資料が、山盛りだ。元禄堂も、なかなかいい品揃えをしているな」
先輩は積まれた本を眺めて、満足そうにしている。
「順調そうで、なによりです」
ぺたんこになった紺色の座布団に座り、コンビニで買ってきたつまみと酒で、宴を始める。
「こうして二人で飲んでると、なんだか新歓の時を思い出すな」
「そうですね」
藤村先輩に初めて会ったのは、サークル新歓のイベントだった。
入学式が終わって、大学のキャンパスに出ると、そこには無数のサークルが、新入生を相手に勧誘活動を始めていた。人だかりに疲れてきたころ、たまたま通りがかった構内の路上で、あるサークルが出し物をしていた。
「さあ、神々もご照覧、合気道を会得したメロスに、怖いものなどないわ! 」
出してある看板にも、「合気道」と書いてある。路上に並べた畳の上で、おそらくは走れメロスの衣装に身を包んだ人が、ノリノリで人を投げまくっていた。
「ふはははは、この手、千人力! 」
投げられた人はダイナミックに飛んでいく。あるいはくるくると回転し、またメロスに立ち向かっていく。
「へえ……」
初めて見る合気道に、僕は興味をひかれて足を止めた。流れるように技が繰り出されていく。
「さあ、そして三人掛けだ! 」
いよいよ出し物も大詰めらしい。三人の人間がメロスに組み付き、メロスはそれを豪快な動きで投げ飛ばした。
「あっ」
それまでは投げられても畳の中でおさまっていたのが、こちらの方に人が飛んできた。よける間もなく、投げられた人が、見ていた私に直撃した。
「うわあっ」
私は体を支えきれなくなって、倒れてしまった。
「おい君、怪我はないか ? 」
メロスに扮した人が慌てて畳から降り、倒れた私を助け起こす。
「ええ。大丈夫です……」
そのメロスが、藤村先輩だった。
何の因果か、それがきっかけで、僕はその合気道サークルに入ってしまったのだった。
そして一年後。学年が一つ上だった藤村先輩は三年生になり、一足先に就活を始めていた。
四年生になってしばらくたった今日は、内定先から配属先が決まった連絡があったらしい。
「習練会……」
私は藤村先輩から聞いた会社の名を、記憶の中から引っ張り出した。
「たしか、北海道の塾でしたっけ」
「ああ、配属が決まってな。旭川に行くことになったんだ」
藤村先輩は、手に持っていた缶ビールを一気に飲んだ。
「重晴、俺はやってやるぞ。『日本に旭川あり、旭川に習練会あり、習練会に藤村あり』と言われるまでになってやる! ここからすべてを変えていくんだ」
そう語っている藤村先輩の目には、確かな希望があった。
「そうして俺は、その決意を斎藤秀三郎先生に向かって誓うのだ」
先輩が僕の後ろを指さす。
振り向いた先の本棚には、前に来たときには無かった変な形の本が置いてあった。古めかしくて、ボロボロの辞書だ。そしてなにより、ぶ厚い。
「なんですか、これ? 」
「英語の達人、斎藤秀三郎先生の英和辞書だ。お前も名前くらいは聞いたことがあるだろう」
「ええ。どこで手に入れたんですか? 」
「神保町の古本屋で買った。一生に一度出会えるかどうかわからない、とんでもない掘り出し物だぞ」
藤村先輩は上機嫌だ。
「そういえば重晴、お前も来年は就活じゃないか。何か、なりたい職業でもあるのか? 」
そう言われて僕は少し黙った。
「一応考えているところはありますが、まだそんなに決まってないですね」
目をそらしつつ、はぐらかした。
「なんだよ、教えろよ」
藤村先輩が冗談交じりに合気道の技をかけながら言ってくる。
「もし決まったとしても、藤村先輩には教えませんよ」
僕は応戦しながら言った。
「はっはっは! 相変わらず、可愛くない奴だなあ! 」
そう笑いながら藤村先輩は、とびきり痛い技をかけてきた。
そして二年後、私はある会社に就職し、四月初旬、配属先へと向かった。
初めての職場だ。私の胸は高鳴った。
建物の中に入って、職場の人々に挨拶をする。私の顔を見るなり、先輩社員の一人は驚いた顔をした。
「なんだお前、俺と同じ会社じゃないか! 」
そこには藤村先輩がいた。私は様々な会社を受けた結果、北海道の塾、習練会に就職することに決めたのだった。
「水臭いな、教えてくれればよかったのに」
「だから言ったじゃないですか。教えないって」
すっと、藤村先輩が手を差し出す。
「ともかく、これからよろしくな」
「ええ、こちらこそ」
「風波塾長、そろそろ打ち合わせですよ」
習練会の職員が、辞書を開いて物思いにふけっていた風波に声をかけた。
「ああ、いま行く」
思い出から覚めた風波は、辞書を函へ戻した。風波が出ていって人がいなくなった事務所には、束の間の静けさが訪れた。風波の机の上の辞書も写真も、そんな時間を楽しんでいるようだった。