1‐1 そんぷーし先生と私
「お前、今日から塾に行け」
朝起きて顔を合わせるなり、父さんは私にこう言った。春なのに一向に桜が咲かない、四月のある日のことだった。私は今でも、この日のことを忘れることができない。
この日から私の、そして先生の、おかしな三年間が始まったのだ。
北海道渥美 市は、日本の果てとでも言うべきの田舎町だ。特産品はたまねぎ。なんでも出荷数が日本一らしい。周りを山に囲まれた盆地で、どの方角の空に目を向けても、たいてい山が広がっている。
三月の下旬、私と父さんはこの町に引っ越してきた。私は小学校を卒業したばかりだった。まず、着いて驚いたのはその気温だ。とにかく寒い。空港に着いて外に出たとき、気温の掲示板にはマイナス二度と出ていた。ネットでいちおう調べて厚着はしてきたのに、それでもまだ寒い。なにより、至るところに雪がある! 東京では、雪なんて年に一、二度、降るか、降らないかなので、こんなに降り積もった雪を、しかも三月に見るなんて信じられなかった。
「さすが北海道だなあ。さっ、行くぞ」
父さんは意気揚々と渥美市行きのバスに乗り込んだ。最寄りの空港から渥美市まではバスで三十分かかる。もう陽が落ちた後だったので、車の中からは遠くがよく見えなかった。それでも窓の外に広がる畑や、ぼんやりと見える山影は、自分が測り知れない広さの大地の上にいることを実感させた。私は暗い窓の外を飽きもせずにじっと眺めていた。
引っ越しの荷物を片付けて、新たに買い直す家電製品や家具をあちこちで揃えているうちに、春休みはあっという間に過ぎていった。私は市内の西陵中学校に入学した。幸いクラスに恵まれたので、何かと一緒に過ごす友達もすぐにでき、新しい生活に戸惑いながらも、楽しく中学校に通うようになった。
そんな時だ、父さんがあの言葉を告げたのは。その日は土曜日だった。学校が始まって最初の週末だ。私は新しく出来た友達の優子ちゃんと遊ぶ約束をしていた。
「ええっ、今日からぁ? 」
「そうだ。」
「今日は友達と遊ぶ予定なんだけど……」
「なんだ、そうなのか。何時からだ ? 」
「一時」
「それなら大丈夫だろう。友達とは昼間遊べばいい。四時からその塾に行け。先生がお前を待っている」
「勝手に決めないでほしいんだけど……」
あきれ顔で言ったが、こうなると父さんは聞かない。いつもそうだ。北海道行きだって、父さんがいきなり決めて私を引っ張ってきたのだ。
「北海道に行くぞ! 」
開口一番、こうだった。それからは何を聞いてもろくに答えてくれない。唯一、北海道の渥美市というところに行くということだけは聞き出せたが、北海道といっても渥美市なんて聞いたこともなかった。渥美半島も特に関係がないらしい。とにかく、訳が分からないままに連れて来られてしまった。そんなわがままに付き合ってようやく落ち着いたかと思えば、今度は塾だ。
とはいえ、塾に通うこと自体には私もさして抵抗はなかった。小学生の頃は進学塾の三ツ矢にずっと通っていた。中学受験こそ上手くいかなかったが、あらためて塾に通って、しっかり勉強しようと考えてはいた。一週間、学校の授業を受けたが、もっと自分で学習を進めたかったのも正直なところだ。だから、父さんのいつもの強引さにいくらかムッときたものの、塾と聞いて、内心まんざらでもなかった。一灯塾。父さんから聞いた塾の名前だ。そこで出会う仲間たちや新しい先生のことを考えて、私の心は少し明るくなった。
ポクフールというそのショッピングセンターは市内でたった一つしかない遊び場だ。私と優子ちゃんはそこのゲームコーナーでひとしきり遊んだ後、一階のフードコートでご飯を食べながら話した。
「そういえば、茜ちゃんは何か部活に入るの? 」
ポテトをつまみながら、優子ちゃんはそう聞いてきた。
「うーん、いまのところ考えてないかな。塾に行こうって考えてて」
優子ちゃんの顔はぱっと明るくなった。
「あ、いいよね塾! 私はお姉ちゃんが塾行っててさ。私もそのうち行こうかなーって思ってるんだよね」
「あ、そうなんだ。お姉ちゃん、どこの塾通ってるの? 」
「習練会って言ってたよ」
習練会。こちらに来てから、新聞の折り込みチラシでその塾の名前を見たことがある。どうやら北海道全土に教室を展開する、かなり大手の塾らしい。
「茜ちゃんは? 」
「私は、一灯塾ってとこに行こうと思ってる」
「いっとう塾? 」
優子ちゃんは少しけげんそうな顔をした。
「そんな塾もあるんだ。いろんなのがあるんだね」
そういいながら、優子ちゃんは飲みかけのジュースをまた口に含んだ。
優子ちゃんの反応を見て、私は少し不安になった。
たしかに、その一灯塾とやらはチラシを見たこともなければ、テレビのCMでもお目にかかったことがない。父さんは、詳しいことは何も教えてくれない。いったいどんな塾なのか、あまりイメージが湧いてこなかった。
優子ちゃんと別れた後、父さんから渡された手書きの地図を頼りに自転車で向かった。
目に入ってきたのは「たちばな青果店」という看板と、棚にぎっしりと並ぶ野菜だった。
「……八百屋さん? 」
父さんの地図を見直す。確かにここで間違いない。でも目の前にあるのは、塾ではなく青果店だ。店の台に寝そべっている猫がやたらに細い目で斜から見てくる。
しばらく店の前で立ち止まってしまった。
そんな私を不審に思ったのか、奥で店番をしていたおばあさんがゆっくりと出てきた。
「あんた、何か買うのかい」
ぶっきらぼうにそのおばあさんは聞いてきた。
「いえ、違います……」
「そんなら、なんでそんなところに突っ立ってるんだい」
おばあさんは不審そうな顔で見てきた。疑う目線に気持ちがひるむ。私は意を決して聞いてみた。
「ここに塾があると思ったんですけど、一灯塾って知りませんか? 」
「いっとう塾? 」
おばあさんが私から目線をそらして、遠いところを探るような表情を浮かべた。
「ああ、それなら、うちの二階だよ」
と答えた。
二階? と思いながらおばあさんの視線の先を追って見上げると、下半分が何かに覆われて隠れてしまった二階の窓が目に入った。
「こっちに来な。階段があるんだよ」
言われるままにおばあさんについていく。最初は気付かなかったが、よくよく見ると建物の横には細い階段があって、二階へと続いていた。
おばあさんにお礼を言った後、私はそろそろと階段を上がっていった。不安と緊張と、かすかな期待が、階段を上がる動作をぎこちなくさせていた。
二階まで登りきった。目印も何もない、無機質なドアが目の前にある。これが本当に塾なのだろうか。看板一つ出ていない。おばあさんが言っていたのだから、たぶん間違いはないだろう。だが……。
しばらくドアの前で躊躇していた。その時だ。
「私の塾に何か用かな? 」
いきなりうしろから声がして驚いた私は、体がこわばって、すぐに振り返ることが出来なかった。恐る恐る振り返ると、長身の、くたくたの背広を着た男の人が立っていた。興味深そうにこちらを見ている。歳は三十歳くらいだろうか。人懐っこそうな顔をしている。
「もしかして、見学希望かい? 」
男の人は笑顔で聞いてきた。
「あ、ええ、はい」
男の人の勢いに押されながらも、私は答えた。
「そうか! まあ、細かい話はあとだ。さあ、入って入って! 」
男の人がドアを開け、せかされるように中へ入れられた。
入口を通って部屋に入ると、そこは本の山だった。
部屋の四方に本棚が置かれており、その中にはぎっしりと色々な本が詰まっていた。窓のない壁面は天井までびっしり本棚だ。さっき見た、窓の下半分を覆っていたのは本棚だったのだと、その時初めて合点がいった。茶色くなった文庫本から、見るからに重厚そうな革張りの本、サイコロみたいに縦の高さと横の厚さが同じ本など、見れば見るほどいろいろな本がある。
「すごい……」
私は本棚を前にして圧倒された。
「改めて、よく来てくれた! よろしく」
男の人の方を向いたらすっと手を差し出されて、私はいきなり握手をさせられた。大きな手だった。
「まずは自己紹介といこうか。私のことは村夫子先生と呼んでくれ」
「そんぷーし? 」
ずいぶん変な苗字だ。もしかしたら外国の名前かもしれない。だが、どこからどう見ても純日本人の顔つきをしている。
「あの、それって本名ですか」
「いや、違う。とにかく私のことはそう呼ぶように! 村に夫に子供の子で、村夫子だ」
「はあ……」
「君は、なんていう名前なんだ? 」
「そんぷーし」先生が聞いてくる。
「はい、清水茜っていいます。この春、中学一年生になりました。よろしくお願いします」
「ああ、君が清水さんなのか! 父さんから話は聞いているよ。いやあ、よく来てくれた! 」
心から歓迎する口ぶりに、私はすこしこそばゆいような気持がした。
「今は生徒さんが来てない時間なんですか? 」
人のいない教室は、午後の日差しに照らされて、なま温かい。私は本棚や、教室を見まわしながら聞いた。
「いや、塾生はまだいない。この塾は、四月に始まったばかりなんだ」
「え? 」
ちらりと、嫌な予感が頭をもたげる。
「ってことは、もしかして私が最初の塾生ですか? 」
ためらわれながらも、聞かずにはいられなかった。
「その通り! この塾は、まだ出来立てほやほやなんだ」
それから、塾の説明が続いた。
しかし、話を聞いているうちに、まだ出来たばかりの塾だということが、いかにもうさんくさく思えてきた。話を聞いている間に、私の心はだんだん遠ざかっていった。
と、説明はいつの間にか終わっていたようだった
「さあ、そんなわけで君が塾生一号だ! よろしくな! 」
「ええと」
私は少し躊躇しながらも、はっきり答えた。
「嫌です」
それまでの和やかな空気が凍った。村夫子先生はいま言われたことの意味が飲み込めないのか、同じ笑顔のまま、汚れの無い瞳で私を見つめている。
「ですから、塾生にはなりません」
私は同じ意味の言葉を繰り返した。
「今回のことは父が勝手に決めたことですので。申し訳ありませんが、また改めてお断りの連絡をさせていただきます」
ポニーテールが揺れるのがすこし気になったけど、ぺこりとお辞儀をしておいた。村夫子先生の顔は見えない。だが、まだ事態はよく呑み込めていないようだ。
「失礼します」
私はそのまま村夫子先生の方を見ずに、塾を出ていった。
「おう、塾はどうだった? 」
父さんが缶ビールを飲みながら聞いてくる。
「別に」
そう言って私は鞄をフックに掛けた。
父さんは私の不機嫌な様子に気付かないようで、楽しそうにこう続けていった。
「あの先生、面白いだろう。なかなかの人物だぞ。」
「あっそ」
父さんはこう言うが、私にはあの先生のどこがいいのか、いまひとつ分からなかった。確かに本棚はすごかったけど。
「ねえ、父さん」
「ん? 」
「『そんぷーし』って、どういう意味? 」
「村夫子? 」
「うん、あの先生、『私のことは村夫子先生と呼ぶように』って言ってた」
父さんは一瞬きょとんとした顔をした後、何かを了解したらしく、クツクツと笑いをかみ殺した。
「それ、あの先生が自分で言ったのか。やっぱり面白いなあ」
「? 」
「まあ、村夫子の意味はそのうち分かるようになるさ。さあ、ご飯を食べよう」
結局その日は、塾に入るのが嫌だ、ということを父さんには言えなかった。父さんがずいぶん楽しそうだったから、なかなか打ち明ける気になれなかったのだ。