第19話 バーントアイランド
木々が生い茂る暗い森。以前に通過した森とは違い、人間文明の手がほとんど届かない未開の地である。
当然のことながら、踏み固められた街道などはなく、巨体を誇る装甲車は、草木を押し退け踏み潰して進まねばならず、当然ながら速度など出せようはずもない。
アチカを出発してから早2日。朝焼けの中に焚き火を置いて、僕はコーヒー片手に息をつく。
その眼前では、あぐあぐカッカッと、奇妙な音を立てる尻尾の生えた背があったが。
「何してんだい?」
覗き込むように体を伸ばしながら声を掛ければ、隠すようなことでもなかったらしい。珍しく早起きをしていたファティマが、ぐるりとこちらを振り返る。
その手に握られていたのは、ささくれた細い枝きれだった。
「スィシュタンタを齧ってます。アチカで売ってました」
「すぃしゅ……なんだって?」
「スィシュタンタ、です。これで歯をカリカリすると綺麗になるって、前にペンドリナから聞いて、ずっと使ってみたかったんですよ」
耳慣れない名前だが、どうやらオーラルケア用品の類らしい。齧っていたであろう部分は、枝の繊維がほぐれて房状になっており、朝のブラッシングと言われれば頷けなくもないような。
「歯は大事ですからね。尻尾の次に大事です」
「そういえば、前は紐と布切れに塩を付けて擦っていたね」
彼女は枝をぺキリと折って、房状になってしまった部分を森の中へ放り投げる。折れ残った部分はまだ長く、繰り返し齧っては折って使う物なのだろう。
爪にしても歯にしても、ファティマはこういう日常の手入れを怠らない。ただそのどちらも、自分のイメージする衛生的な部分というよりは、どことなく刃物の研磨に近い気がして、ほんのり背筋が冷たくなった。
「歯ブラシじゃダメなのかい? こだわりというか」
「おにーさんがおかしいんです。歯をゴシゴシするのに、ブラシみたいな高級品を使うなんて」
「高級?」
「そですよ。安物でも中々手が出ないし、そもそも口の中に入れれる大きさのブラシなんて、売ってるの見た事ないです」
「う、うぅむ……まだまだ現代の価値観には追いつけてないなぁ」
金色の目に爛と睨まれ、僕はポリポリと頭を掻いた。
これでもだいぶ慣れたと思っていたのだが、多くを古代品で賄っている日用雑貨の類に関しては、まだまだ価値の理解には程遠いらしい。
ただ、今度家に戻ったら、予備の歯ブラシを渡しておこうと心に決めた。できれば、あまり匂いの強くない歯磨き粉も一緒に。
そんなことを思った矢先、ファティマはその鼻をスンと鳴らし、大きな耳を後ろへ絞った。
「んむ……今なんか、変な臭いがしませんでした?」
「変な臭い?」
彼女を真似して鼻から息を吸い込んでみるが、入ってくるのは土草の香りばかり。顔を顰めるような変化はない。
はてなと首を傾げていれば、何故かファティマはぐるりとこちらへ向き直り、じりじりと後ずさった。
「おにーさん、もしかして……」
「いや待て、僕ぁしてないぞ。というか、そんな臭いなのかい?」
「はい。風に乗って、ほんのりと」
「僕が立ってるのは風下側だが」
鼻が利くケットならば、風下であろうと臭いを感じることはあるかもしれない。だが、冤罪を受け入れる訳にはいかず、疑うなら反対側だと主張すれば、ファティマはぐるりと後ろを振り向いた。
そこに誰も居なければ、単なる気のせいで済む話だった。しかし、どうにも運命という奴は意地が悪い。
「ファティ、もう起きて――何?」
寝台に居なかったファティマを気にかけてか、あるいは僕らの会話が聞こえたからか。玉匣の車内から顔を覗かせたシューニャと、バッチリ目が合った。それも自分とファティマが同時にとなると、無表情の中にも多少の怪訝さが浮くのも当然というもの。
その上にだ。
「すみません、少しだけ失礼しますね」
「な、ちょっと、何ファティ。んっ、や、やめて、くすぐったい」
寝起きらしく、まだぼんやりしているシューニャに対し、ファティマは素早くその体をホールドすると、首元から背面腹部、下半身にかけてまで、臭いを嗅ぎながらぐるりと回っていく。
それだけを見れば、仲のいい姉妹がじゃれついているように思えなくもない。シューニャとて困惑しながらも、もぞもぞするだけで逃げないのだから余計にだ。尤も、ファティマが両手足以外に、尻尾まで絡めているからかもしれないが。
それも束の間。一通り鼻を鳴らし終えた瞬間が、睦まじげな様子の終わりだった。
「うーん? シューニャのお尻は違う気がします」
「お、おし……っ!?」
爆弾発言極まれり。そこまで正直に生きなくてもいいと思うのだが、ファティマの性分である以上変えようもないのだろう。
咄嗟に臀部を隠すシューニャに対し、このトンデモ猫娘は既に興味を失ったらしい。首を捻りながらこちらへ戻ってくる。
「い、いやあの、僕に報告されても困るんだが」
「むー……ホントになんだったんでしょう。さっきのオナラみたいな臭い」
「ファティ」
低く抑えられた声。
外に跳ねる橙色の髪に透かして見えたのは、真っ赤に染まった頬と、いつも以上に感情の見えないガラス玉のような瞳である。
呼ばれて振り返ったファティマは、果たして何を感じたのだろう。あるいは、何も感じなかったのかもしれない。はい? なんて気の抜けた声を出した途端、ぐっとその首根っこを掴まれていた。
「ちょっと話がある」
「え、え、なんですかなんですか急に? シューニャぁ?」
引きずられるように玉匣の裏へ消えていく2つの影。こちらに飛び火しなかった辺り、シューニャはまだ比較的冷静だったと思いたい。
「あれ、何かやらかしたんスか?」
と、今度は頭上から声が降ってくる。
いつから覗いていたのか。機銃座からアポロニアが半身を乗り出して、こちらを見下ろしていた。
「ファティに悪気はないんだろうけどね。そうだアポロ、何か変な臭いってするかい?」
「へっ、臭いッスか? 別に何にも感じないッスけど?」
スンスンと鼻を鳴らしてから、彼女はカクンと首を傾げる。
ケットとアステリオン。どちらの嗅覚が本当に優れているのかはわからないが、少なくとも2人ともが優れた鼻の持ち主であることに違いはない。
であるならば。
「気にするようなことでもないか」
という結論に至るのも、当然のことだろう。
■
その日の昼下がり。
森は急激に薄くなり、枯死した倒木が目立ちはじめ、やがてそれは地域のハッキリした境界線を目の前に現した。
『焼けた大地とは、言い得て妙だね』
現代人の命名は至極正しいものかもしれない。何せ、翡翠のカメラが捉えているのは、焦げたように真っ黒な地面が広がる土地なのだから。
マキナのマニピュレータを黒い地面に差し込み持ち上げてみれば、それは風に吹かれてさらさらと飛んでいく。全く水分のない砂のようだった。
「実際燃えた訳じゃなさそうだがな。見ろよ、ちょっと落っことしただけで、俺の磁気ネックレスがファンキー仕様に早変わりだ」
後に続いて降りてきたダマルは、いつから持っていたのかわからない健康グッズを、白い指でくるくると回して見せる。
肩こりとは無縁そうな骨格標本であることはさておき、それの磁石が入っているであろう膨らみには、骨の言った通り、黒い砂粒が刺々しい塊を作り上げていた。
『この黒いのは砂鉄かい? なら、大地を黒く染めるほどの量が?』
「全部が全部そうだとは限らねぇが、それでも相当だろうな」
源がわからないとはいえ、利用できればかなりの資源と成り得るかもしれない。
ただ、仮に砂鉄が大量に存在するだけの荒地ならば、既に隣接する人間文明の手が伸びていそうな気もするが。
『キョウイチ、もう降りてもいい?』
『ああ。今のところ、危険はなさそうだ』
言うが早いか、玉匣の後部ドアが勢いよく開かれる。
マキナのシステムは警報を発さず、骸骨の身体や鎧に異変が現れることもなく、静かに踏み出したシューニャたちの足も、ザクリと砂を鳴らすだけで特に何の変哲もない。
「おぉ、砂漠みたいですね」
「見た目ほど、熱いとかはなさそうッス、けど……」
「ん。地面がこれでは、畑を作るのは難しい。人が住める場所では無さそう」
ダマルから借りたであろうメンテナンスグローブ越しに、彼女の小さい手が黒い砂を持ち上げ、またサラサラと風に流していく。
シューニャの言う通り、見慣れた動植物の影は何処にもなく、素人目にも農耕に不向きであることはすぐにわかった。
「こりゃ、帝国領の荒野が可愛く見えてくるな」
『巨岩奇岩はゴロゴロしてるから、名勝地としてなら売れるかもね。蟻塚みたいなのも生えてるし』
モニター上でズームされる岩。奇妙な縦縞模様の走るそれは大小様々に点在し、どれも砂から高く生えている。
一方、蟻塚のように立ち上がった多孔質の何かは、それほどの大きさこそないものの、一定の場所に纏まって生えていた。もしかすると、本当に何かの巣か、あるいは特徴的な植物の類なのかもしれない。
だが、シューニャはぐるりと周りを見回してから、手の甲を唇に当てた。
「……これだけが、誰も帰ってこない理由?」
『いや、流石に難しいんじゃなかろうか』
焼けた大地という名が知れている以上、誰かしらはここを見た上で生還していることだろう。だとしても、他のチャレンジャー達が皆消えてしまったかのような言い分には、シューニャが首を傾げた通りに疑問が残る。
「また巨大生物でも居るんじゃねぇのォ?」
『縁起でもないこと言うんじゃないよ。危険は無い方がいいんだ』
「違ぇねぇ。原始人共が適当な言い伝えに、ビビっちまってるだけかもしれねぇしな」
カタカタと笑う骸骨の言う通り、無知からくる恐怖がそういう物語を作り上げた可能性も低くない。帰還できなかったのも、道を見失って行き倒れただけということも十分考えられる。
仮にそれらが本当の原因ならば、僕たちが恐れる理由はなく、いずれはこの地域にも人間文明による開拓が訪れることだろう。なんとすれば、自分たちがそのきっかけとなるかもしれない。
「それだけなら、いいのだけれど」
「何かあるんですか?」
むぅ、と眉を寄せるシューニャの顔を、ファティマが不思議そうに覗き込む。
しかし、彼女は暫し考えた後、なんでもないと緩く首を横に振るだけで、玉匣の中へ戻っていった。
■
見た目に怪しい土地であろうとも、実害が見つからないのなら気にする必要もない。むしろ、装甲車を移動に使っていることを思えば、樹林よりも楽に移動ができる分、ありがたい地形と言えた。
森を抜けて後、移動に費やせた時間は半日に満たないものの、アチカを出てから最も距離を稼いだのではないだろうか。
陽が沈む手前頃まで走り続けた所で、僕らはようやく野宿を決め、年輪のような模様が浮かび上がった岩の陰へと玉匣を停車させた。
「お疲れ様、シューニャ」
「ん。少しだけ体が凝った。肩のあたりがポキポキ言ってる」
そう言いながら、彼女は小さい身体をぐぐぐと伸ばす。流石に関節が鳴る音が、僕の耳まで届くことはなかったが。
「交代の頻度を上げた方がいいかもしれないな。肩腰を痛めると辛いよ」
「不思議。重たい物を持ち上げた訳でも、疲れるような運動をした訳でもないのに」
「ずっと同じ姿勢というのもよくないんだ。ほら、後ろ向いて」
通路の途中でシューニャの体をぐるりと回し、ポンチョ越しの方に両手を添える。
出会った頃と比べれば、栄養状態の改善あって、多少はふっくらしてはいるはず。それでも彼女の体は年齢に比して細く軽い。
ただ、長時間運転の後ともなれば、肩周りは血行が悪くなっているのだろう。手に少し力を籠めただけで、固まっているのがハッキリ伝わってくる上、当人の口からとろけるような声が零れ落ちた。
「ぁあぁう……そこ、気持ちいい」
「よく読み物をしていることもあるのかな。結構凝ってるね。今日は寝る前に、しっかりストレッチした方がいい」
そう告げれば、小さな体が立ったままもたれかかってくる。同時に、胸元にぶつかってズレたキャスケット帽の奥から、ちらりと翠色の視線がこちらを見上げていた。
「キョウイチ、手伝ってくれる?」
「もちろん」
僕の背に隠れて、誰からも見えない場所とわかっての事だろうか。シューニャは珍しく甘えた様子で、体重をこちらに預けると、囁くような声で、お願いと呟いた。
不器用な素振りと鼻腔を突く甘い香りに、一層存分に甘やかしてあげたいという気持ちが大きくなっていく。ただ、如何せん玉匣は共同生活の場であり、2人きりになれる時間というのはとても短く。
「ご主人ー? ちょっと薪取ってほしいッス!」
「あ、あぁ! わかった、今行く」
シューニャは無言でパッと体を離し、キャスケット帽を整えてから僕の脇をすり抜けていく。
自分はなおさら贅沢なのかもしれない。あまりに短い甘美な時間は、多幸感を与えるどころか、求めたい気持ちを高めるばかりに思えてしまうのだから。
いかんいかん、と首を振って浮つく気持ちを振り払い、樹林で集めておいた枯木の束を抱えて玉匣を出た。
灯りと熱源を兼ねた焚火が燃え上がれば、手慣れたアポロニアの調理もあって、簡単な食事ができあがるまでさほど時間はかからない。
茜を差していた陽が地平線の向こうへ完全に隠れる頃、僕の抱えていたお椀には、飴色のスープが満たされていた。
「しっかし、本気で木の1本すら生えてねぇとはなぁ」
スプーンを片手に、骸骨は背もたれ替わりにしていたらしい、珊瑚の死骸に似た岩を軽く叩いてため息をつく。
「薪は節約した方がよさそうだ。干し肉だけの生活に戻るのは、できる限り避けたい」
「ボクはそれでもいいですけど」
「前までなら自分も、って言えたんスけどねぇ」
「慣れは怖い。贅沢も普通のことにしてしまう」
シューニャの言葉に苦笑が浮かぶ。目覚めて間もなくの、食うに困るような状況からすれば、アポロニアが作ってくれる食事は贅沢そのものなのだろうが。
「食は健康の基本だ。豊かに越したこたぁねぇぜ……っと」
カロン、と食器を慣らし、ダマルは酷く億劫そうに立ち上がる。
「悪ぃ、眠てぇから先寝るわ」
「夜型の君が、珍しいな」
「まぁ、そんな日もあるってこったろ」
酒を飲んだ訳でもないというのに、ダマルはゆーらゆーらと軽い身体を揺らしながら玉匣の中へ戻っていく。
むしろ日頃から夜遅くまで起きているが故、その揺り戻し的な眠気が来たのかもしれない。
と、考えていた矢先。
「ファティ?」
ポスン、と膝の上に橙色の頭が降ってくる。満腹も合わさってか、幸せそうにへらりと笑いながら。
「何だか、ボクも急に眠くなってきました」
「こらこら、膝を貸すのは構わないが、外で寝るのは流石によろしくない、ぞ……?」
彼女を立たせようとして、気付く。
揺れる視界。その中で、ファティマと同じように肩へ頭を乗せてくるシューニャと、コロリ倒れたアポロニア。
「これは何か、不味、い……よ、うな……」
声こそ絞り出せたものの、最早何も間に合わない。僕の体も彼女らと同じように、座った姿勢から後ろへと倒れていく。
手の中から食器が零れた感覚が、最後まで残っていたように思う。




