消えゆく闘志
消えゆく闘志
私の中で生きたいという根源の本能が、差し伸べられた手は危険だと警告をしてくる。 逃げろと。私は兎に角、動く方の手と足をガムシャラに使って真っ黒い此奴から離れようとした。
つい見てしまう目線を此奴から剥がすために頭を振って視線を外す。恐怖を祓うために、口からは悲鳴にも似た呻き声を発してしまった。
「ひやぁああ、ひぃやぁあああ」
ちょっとでも、少しでも良いから真っ黒い此奴から離れないといけないと踠いても半身が言うことを聞いてくれない。
【折角、倒れた貴女に手を差し伸べろだというのに振り叩くような真似をされると、流石の私でも傷つくよ】
真っ黒い此奴が手を引っ込めて、さも残念だと言うように片手で顔を覆っているように見える。フェイスパームじゃないかなぁ。だって真っ黒すぎて何をしてるか分かりづらいんだよ。
【でも、良かったかな。手を握り合ったら、君の生気、最悪、魂まで吸収してしまったからね】
なんですとぉ。背筋に怖気が走る。私は思わず動く方の腕で自分の体を抱きしめてしまったよ。
あんたとはぶつかっただけだから片手片脚が動かなくなったって言うの。冷や汗かしら、背中に冷たいものも流れてきた。
そして、ふと気づいた。辺りを煌々と照らしていた浄化の光が消えている。
あれだけ、けたたましく頭の中に響いていた濁声も聞こえない。浄化が無事、終わったのかしら。
すると真っ黒い此奴はあろうことが動けない私に近づいてきて傍に跪く。
【まあ、折角の出会いなんだ。ここは君の生命の源ってやつを食らってやるよ。曲がりなりにも君は聖女なんだ。なら、心は清らかじゃないだろうか。ましては君は若いんだ。生命力に満ち溢れ活力ある生気をも持ってるに違いない。さぞかし、君の魂はイキが良いんだろうな。私は、そういう魂も好きなんだよ】
待って待って私の心は欲に塗れて煤けてますよ。鶏ガラみたいな体って言われてるんですよ。乾いて干からびた魂など啜ったら、腹下しますよ。絶対!
息を吸うだけで吐くことができず、声も出せない状態で、心内だけで叫んで見たけれど相手に通じる訳でなし。動かない体を叱咤して少しでも此奴から離れようともがいていると、
『おっ、おぅ、俺の獲物に手を出すんじゃねえぞ。男巫」
いきなり、頭の中に濁声が入り込んで来た。吐き気を催す感じは、もしかして彼奴か? アナスタシアの浄化に晒されて滅したんのではないの?
「なんなのですか? 私くしでは力不足だとでも言うですか?」
あまりの事に彼女は悲観にくれ絶叫する。
なんとも、しぶとい。彼女のありったけを込めた嘆願なのに浄化しきれずに生き残っているようだよ。
『そいつの魂は、俺が貰うって決めているんだぜ。邪魔はするなよな』
さっきまで彼奴が居座っていた辺りを視線だけで見てみると、何本かあった触手が消し飛び、幹もあらかた焼き尽くされて黒焦げとなり、根っこ付近しか残っていない。
違う。残ってしまった。浄化については誰よりもエキスパートなアナスタシアの願いでも、滅っしきることができなかったんだ。
『なぁに、鶏ガラだって良い出汁が取れるもんさ。テメェの魂、しゃぶり尽くして、俺っちの体を再生させてもらうぜえ』
そう言う彼奴の黒焦げだ表皮が一部剥がれて、新たな触手が飛び出てくる。やや細めながら毒々しい色使いの触手が私に伸ばされてきた。
だから、私の干からびた魂なんか啜っても腹下すだけですって。と上手く動けない体では口の中でうめき声を出すしかないんですけどね。
そんな時、
「フォセレ・ヴェレ」
我は乞い願う
主への嘆願の声が上がる。そして、
「皆さん、私に合わせて、主への祈りを!」
アナスタシアが彼女の傍に居並ぶ、聖女の雛鳥たちへ号令を発する。
「「「「「サナ・メ・ドミィニ<ランベェーゴ>」」」」」
アナスタシアを先達にして聖女の雛鳥たちが声を合わせていく。
「「「「「パジィフィロ<コル・マルム>」」」」」
邪なものの浄化を
幾重の願いがアナスタシアが導き、主へと届けられていく。
彼奴らが私に注意を向けたのが功を奏したのか、警戒されることもなく聖女見習い達のの主への嘆願が奏上される。
こんな事もあろうかと、もしもの時のアドバイスをアナスタシアへ託してあったりする。
教典の詩篇パサールにも書かれている''コーラス''複数の聖女が同じフレーズを合唱することで、より深い嘆願を主への届けるもの。
アナスタシアの強い願い。同じ聖女見習いが拙くとも合わせていくことでより大きな奇跡を願い出ることが可能になるんだね。
彼奴が、5度目になる光の柱に包まれる。でも、今度は一味も二味も違う。
アナスタシアの願い出た浄化の光に重なるように、新たに光の柱が立ち上がる。もうひとつ、そして又ひとつ。二重、三重、四重、五重とさらに重なっていく。幾何学的なスパイラルデザインを描いて重なっていく。
『フシュッ』
彼奴は何度目かの怪しい悲鳴を私の頭の中かに響かせる。
微かに動く目を動かして、今度こそになるであろう彼奴を見た時、
シャローム イブリース
邪神よ、安寧なれ
ピィートウズゥ トォイフィル
邪神に願う
フレェーギィブン
解放せよ
私ではわからない、理解不能な言葉が頭の中に響き渡った。多分、真っ黒い此奴の声だ。すると、あれだけ輝かしく立ち上がっていた浄化の光が消えていく。
えっ、奇跡が起こらなくなった。消えてしまったと言うの。
どう言うこと。
此奴は何を言ったんだ。
此奴が何か、唱えた途端、私たちの主への願いはキャンセルされてしまったと言うことなの。こいつは戦士には見えても魔法使いとは思えない。でもこいつのせいで奇跡が解かれたに違いない。
【やれやれ、私の手を煩わせるな。まあ、私はお前が無茶した時の目付としてきたのだけどな。お前がやらかした時は連れ帰れとも言われている】
「ぇ、ぇぇっ、面目ねぇ。頼むは。男巫」
私の傍に跪いていた真っ黒い此奴が立ち上がり、焼かれ消し炭となって僅かに残る幹の方へ頭を向けている。
もしかして、此奴が私達の起こした奇跡を無い物してしまったと言うの。それとも主は我らを見放されたと言うの。
嫌な考え、想いが私の心を泡ただせていく。しかも、彼奴は未だ、生きているようなんだけど。私たちでは、相手にならないって言うことなのかな。
主への全幅の信頼を寄せているはずなのに、迷いが心を曇らせていく。
【私の足元に活力ある魂がある。困った事に疑心暗鬼になって少々濁ってしまったがな。まあ、仕方がない、気が進まぬ事ではあるが、お前に分け与えてやる事にしよう】
此奴は腰を落として再び私に手を伸ばしてきた。
私の体は思うように動かせないから逃げことも出来ずにいる。聖女としてできるはずの奇跡も消されてしまう。
私にできることはないと心も挫けそうになってしまう。喉元に伸びてくる手を見つめながら、魂を根っこから吸い尽くされることを想像して生きる気力も失せていってしまう。
ああ、思い出してみても良いこと無かったかなあ。
生まれて外の光を浴び、音に揺蕩っていたけど、冷気に晒され、汚水をかけられ、体を叩かれ、罵声を浴びせられ、息の根を止められかけたりしたんだよね。
自分は何のため生きているのか考えてしまう。そんな絶望に涙が一雫、頬を流れていく。
とうとう、冷たいものを首筋に感じて此奴に掴まれて命の根元まで吸い尽くされて、死んでしまうと覚悟をした時、
「そこから離れなさい。下郎!」
と励声が大広間に響き渡る。
「ウィンディカッター! 重ねてもうひとつ!」
私の周りに風の刃が飛来してくる。積み重なったテーブルや椅子などの切り裂かれ瓦礫となって吹き飛ばし薙ぎ払らわれる。もうもうと立ち上がる粉塵、いっ時、目の前が埃で見えなくなるほどだったりする。
段々と視界が晴れていく中に、緋色、そして紫の色が見えた。その色は死を覚悟した私を生の世界に繋ぎ止めてくれるものだった。
「大丈夫ですか? トゥーリィ」




