悪巧みする酔っ払いギツネのはなし
がっつり取られた。
かなしい。
女豹、ことルナちゃん……じゃない、竹内雅美が帰路につくタクシーの後ろを、げろげろえろえろしながら、ふらふらとバイクで尾行していく。
若いのにお財布がぶっとくて深いのですねえ、とか、ハンサムですねえ、とか、ヘアピン超かわいい、とかおだてられて舞い上がってしまったのだ。ちょっと調子に乗って若手の実業家のフリをすると、日々の積み重ねが大事ですからねえ、とちょっと哲学的な一面を見せられ、こてんとなってしまったのだ。
かなしい。
漸く、竹内雅美の家に着いた頃には、腹の中は空っぽになっていた。
通り過ぎるフリをして一ブロックほど越し、裏手に回る。
キツネはバイクを降り、座席を持ち上げて、水のペットボトルを取り出した。
がぶがぶと飲む。
ビニール袋を破き、なかのレモンを丸呑みにした。
すっぱさが目の前で弾ける。
「よし」
キツネはひらりと塀を飛び越えた。
裏口はすぐそこだ。足音を、気配を殺す為に、幾度か深呼吸をする。
まわりの音がやけによく聞こえる。
どこか、遠くで、踏切りの遮断機が降りてくる音がしている。
するり。
キツネは忍んだ。そのまま、まっすぐに進んで、裏戸を開き、中へと――。
がどンッ!
「っ」
目の前が爆発した。
よろりとキツネは手を前に差し伸べた。固い。ガラスだ。戸の奥にはガラスがあった。トラップだ。
竹内雅美の家は、一見、意外な程こじんまりとした二階建てだが……もうすごい。
クラクラする。
やはり水をもう一本持ってくればよかった。夜遊びは随分久しぶりだったのだ。すっかり忘れていた。
キツネはひらりと塀の方へ戻った。
左右を確認し、通りの方を一瞥すると、庭の木に飛び移る。イチョウ。この田舎はほんとうにイチョウの木が多い。
いつだったか、イチョウの木から落ちたことがある。
上手く思い出せない。多分、子供の頃よく遊んで落ちていたのだろうが、途中まで行っておいてどうやっていちいち落ちていたのか、何をどうすれば落ちるのか、今はもうすっかりわからなくなってしまった。
でも、落ちたのだ。
泣いていたのか、視界はぼやけていて、そのなかに手が伸びてきて、子供のキツネの頭を撫でたのだ。
その手は、なんとなく、チクチクしたのだった。
……さいきんはね、家にいるとチクチクするの。
酔っぱらって空耳が聞こえる。
キツネは耳を澄ませた。イチョウを登りきり、枝伝いに、そっと、音をたてずに二階のバルコニーに忍んだ。
と。
ふらっと足にきた。
たたらを踏んだ。
一回転して、体が、窓にぶつかる。
目の前の窓には雨戸がかかっていた。
ガドン、と、微かな物音が上がる。
キツネは素早く身を反転させて壁に張りついた。研ぎ澄ませた聴覚はすでに、室内の物音を拾っていたのだ。
「……ママ?」
微かな声がもにょもにょする。
ママは多分今洗面所だ。ドンペリの噴水をなめてはいけない。
考える暇はなかった。
キツネは手を伸ばして、緩く握る拳で、雨戸をノックした。一度。そのあと、適度に軽快なリズムを、もう一度。
雨戸の向こうで、迷っている気配がする。
キツネは迷わずに己の懐を探り、必要な物を取り出して準備をした。
片膝をたてて身を低くする。
雨戸が大きく揺れながら引かれた。落雷みたいな音。
「だれ? ……もしかして、き」
飛び出した。
小さなその体を腕ひとつで引きずり出す。とても軽い。シャツとシャカパン。後ろから羽交い絞めにして、もう一方の手に用意していた布で、リンゴみたいに小さい顔を覆う。
「ぅうううー……?」
「おやすみ、竹内ミキちゃん」
耳元で、そうっとキツネは囁いた。
それが睡魔を促したようだ。
子供は、もがき、呻き、身を捩り逃げようとして、やがて、ぱったりと静かになった。
遠くで、踏切の遮断機が降りてくる音がしている。
布をどけ、片腕に抱えた子供の寝顔を覗いたあと、キツネはひらりと裏庭に降り立った。塀を飛び越えて、子供を小脇に、夜の住宅地をバイクで飛ばした。
家が、田んぼが、真っ黒に染まっていく。夜が這うように深まっていく。もうこんな時間か。
キツネはケータイを取り出し、電話をかけた。
「……おはよう、竹内雅美ちゃん。メール見てくれた?」
ふふ、と吐いた息が重い。
港近くの湿った風が笑い声を掻き消して吹き過ぎていく。
これは、当初の計画通りであって、決して、昨夜の仕返しとかではない。
キツネは真っ蒼な顔の竹内雅美と彼女の家で打ち合わせをした。
竹内雅美はいい女だった。
じぶんの子供を人質に取られると酷く辛いらしい。子供がいないキツネには何度やっても解らない感覚だったが、女豹は、金も、体も、店も、なんでも差し出すと言った。そして、キツネが言うことに、痴呆老人みたいに従順に従った。
徹夜したせいで少し眠い。
あくびをして、大きく伸びをすると、腕時計を確認する。
昼だ。
潜伏先に決めたのはとある港近くの倉庫だった。この田舎を出て、電車の駅を十七ほど超えた先にある。
そういえば周りにコンビニはなかった。
キツネは、竹内雅美の家を出ると近所のコンビニに入った。五分で二つのビニール袋を提げて出た。
そのまま愛車のバイクで田舎を後にした。