正直者のキツネのはなし
※この作品には暴力表現・残酷な描写が含まれます。苦手な方はご注意ください
キツネは嘘をついたことがなかった。
もちろん、小さい嘘はたくさんついた。バラしたものをバラさなかったといったり、沈めたものを沈めなかったといったり、十の指の爪をぜんぶ剥がされても、正直にものを言わなかったこともある。
でも、それは些細な嘘だ。人間、生きていると嘘をつくものだ。
キツネは、じぶんに正直だった。
その日も、キツネは、上機嫌でボタンを眺めていた。
ボタンは昨日ひとつ増えていた。
女だった。歳とか顔とかは覚えていないが、あの、突き刺したときの表情が忘れられない。まっかに濁った眼と、慄く唇。蒼褪めた表情。
堪らない……。
「きつねさん」
誰かいるようだ。
キツネはときどき物事にやや没頭し過ぎることがあった。そういうときは周りのことがわりとどうでもよくなってしまう。殺し屋にはあるまじきことだが、周囲の気配さえ解らなくなることが時々あった。
少し不機嫌になり振り向く。
おんなのこがいた。
思わずキツネはじぶんの顔のお面に触れた。
お面は、やっぱり昨日買ったものだった。昨夜は山祭りがあったのだ。そこで、ひとりの女と知り合い、屋台のあいだを手を繋いで歩いた。赤い提灯がずらりと並んだ、お祭りの道を歩いて、やがて、山道に入って、もっとどんどん暗い茂みの奥へ歩いて、そして――。
ああ、また気分が良くなってきた。
とどのつまり、キツネのお面は屋台で買ったのだ。
おんなのこはきっと、それを見て、きつねさん、と声をかけてきた。じぶんを知っているわけではないはずだ。
キツネは、おんなのこと、ひとこと、ふたこと、当り障りないことを話した。
おんなのこはキツネのボタンのことが気になっていたようだった。壺の蓋を取って、なかを見せてやると、ことのほか喜んでいた。
「おねがいがあってきました」
キツネはよく人から願い事をされることがあった。聞いてやると、たいがい、ボタンと金がもらえた。
でも、小学生から願い事をされたことは一度もない。
僅かに、キツネの好奇心が動く。
こんなにちいさい子が願うこととは一体どんなものだろう。
おんなのこは水玉のスカーフとカーディガン、紺のワンピースを着ていた。カーディガンとワンピースはボタンがなかった。惜しい。
このこは、願いがかなうとどんなに喜ぶだろう。
喜ぶ子を突き刺したら、どんなに気分がいいだろう。そのときはボタンつきのワンピースを着ていて欲しい。白だ。ぜったい白のボタンが似合うにちがいない。
キツネはおんなのこのボタンをもらうことにした。
そこで、さっそくおんなのこの後をついていった。
おんなのこの家は魔境であった。
皿とか飛んでいた。怒鳴り声は、縁側のある庭に立っていても、屋根のうえに腰かけていても、聞こえた。これはおんなのこが言っていた以上にひどい。
「おばあちゃんが借金なんかしたまま死ぬから」
「だから俺はずっと同居した方がいいと――!!」
おんなのこのお母さんとお父さんは、おんなのこが寝ついてしまうと、そんなはなしをしていた。わかりやすい。
話題の郵便受けをキツネは開けた。
なかにはチラシがたっぷり入っていた。
チラシはすべて「小倉組合」というところのものだった。「子供、コロス」という見出しのチラシもあった。
なんだか状況が読めた。
わかりやすい。
キツネは舌なめずりをした。
狩りのオープンシーズンの予感だった。
とはいえ、狩りには下準備が要る。
キツネは、翌朝、チラシを手に、町中のオフィスを訪れていた。
城町興業支部。
それがオフィスの名前だ。
最近、法律が変わって、ヤクザも表立って堂々と看板を下げにくくなっていた。城町会も同じだった。インテリヤクザというやつだ。
オフィスの待合室には五人の男が立っていた。
あとのひとりは、代紋が高々と翳された手前に座っていた。狐が訪ねてきた男だ。名前を、寺島和夫という。支部の若頭だった。
寺島は今日も有り得ない色のスーツを着ている。シャツは真っ青。ストライプが入っている。足元は、黄金色の蛇柄だった。
キツネが入室すると、寺島は計五人の男どもを追い出した。彼らは隣の休憩室で「待機」だ。
硝子テーブルの前に腰下ろして、チラシを寺島に見せる。
すると寺島はぺらぺらとしゃべった。
キツネは意外に思った。寺島は口が堅い。長年の付き合いでキツネはそれを知っていた。
「ふーん。じゃあ、小倉組合はわりと最近出てきた借金ザメなんだ」
ヤクザとの関係はない。後ろ盾の会社は無い。他のところと結託しているでもない。つまり、縦関係と、横関係が、ない。独立した組織。
寺島は舌打ちし、煙草を灰皿のなかで揉み消した。オールバックの髪を撫でる両手にはどちらにも金の時計が嵌っていた。
「半グレが何人徒党組もうが知ったこっちゃアねえけどよォ。最近うちの若い衆とも遣り合ってんだわ。ちいと目についてきた」
「ちいと」
「うん」
「目についてきた?」
「うん」
そうか。
寺島が、小倉組合についてぺらぺらとしゃべる理由がわかった。
彼にとっても目障りらしい。
「俺も今じゃア城町の看板背負ってっからよォ。半グレなんぞ本気で相手にした日にゃあ、テメエ、他の組の笑いモンよォ」
でも目についてきたと寺島は言っていた。
なら寺島が殺したらいい。
もっとじぶんに正直に生きたらいいのに。
キツネがそういうと、寺島ははあ、と大量の煙を吐いて、にやりとした。苦虫を潰したみたいな顔だった。
「……キツネよォ。おめェにゃ解らねェだろうがな、人は守るモンが出来ちまっと中々そうもいかんのだわ」
まもるもの。
「寺ちゃんの守る物ってなに?」
ホレ、と寺島はじぶんの背後を親指で示した。
城町の代紋は、今日も、まっしろでおおきな布に、黒く、くっきりと浮きぼっていた。
「キツネ」
城町オフィスを出るキツネに、寺島は、最後に気怠く声をかけた。
「おめェよオ、今度チャカ付きでウチの敷居跨いだらぶっ殺すぞ」
ひやりと室温が冷える。
キツネは想像した。愛用のシルバー・デザートイーグルを構えて寺島の額のまんなかをずどんと撃つ。すると隣の部屋からどやどやと男たちが入ってくる。ひとり撃つ。またひとり。またひとり。
そのあたりで体は動くのをやめる。
寺島の子分たちに撃ち返されて。
じぶんは昔のディズニーアニメに出ていたチーズみたいな穴だらけになって死ぬのだ。
悪くない。
キツネはそう思った。
思ったけれど、次には、今はおんなのこの願い事を叶えているのだったと思い出した。
やりかけの仕事を放りだしてはいけない。
にっこりと目を細めて、キツネはオフィスを後にした。