欲張りなおんなのこの話
不思議なことは次々に起こった。
「あ、まって」
「?」
「今日はもう新聞、とってきてあるから……」
まず、毎朝の喧嘩がなくなった。
お母さんは、時々郵便受けを見に行くようになった。
そして、お父さんは。
「お、おとうさん、これ……」
「シュークリームだよ」
「つぶれてないよ?!」
茜がびっくりして言うと、お父さんは頭をかきながら「はははっ」と笑った。
そして茜とお母さんの方を向いて、嬉しそうに話をしたのだ。
「今日さ、電車で座れたんだよ」
「電車で? でもあなたの使ってる路線、混雑率二百%超えてなかった?」
「そうそう、通勤時間は特になぁ。でも、なんでか昨日も今日も座れてさ。おかげでシュークリームは守れたんだけど、一つ気になることがあってな……」
「……なに?」
「俺、老けた?」
「……っ、あはは!!やぁね、まだまだ白髪もないじゃない!」
「見てるだけで座席を譲りたくなるような歳になったのかと思ったよ」
お父さんとお母さんが、顔を見合わせて笑っている。
茜は目が熱くなった。涙がこぼれそうになった。お父さんとお母さんが、一緒に笑っている。そんなの一体、いつぶりだろうか。
茜は顔を伏せてシュークリームにかぶりついた。しょっぱい。
初めて食べた丸いシュークリームはしょっぱい味で、その奥からふんわりと甘い味がして、泣いているのは結局、バレてしまった。
次の朝、お母さんは郵便受けを見に行った。とってきたのは新聞だけ。
でも茜は知っている。
お母さんは、ついに懸賞のハガキを買い物カバンに入れたのだ。ついに出すつもりなのかもしれない。茜はそれを見れただけでも、すごく嬉しくなった。
というか。こうやって考えてみると、もしかすると、呪われていたのは郵便受けなのかもしれないと思う。
お母さんが郵便受けを見に行くようになってから、お父さんはため息をつかなくなったし。ため息をつかないお父さんは、丸いシュークリームを買ってきてくれるし。
そうしたらお母さんも、ついに懸賞を出すようになった。
今では毎朝うきうきしながら郵便を見に行って、そんな矢先、朝ごはんを食べていると玄関先でお母さんの悲鳴が聞こえた。
「どうしたっ!?」
お父さんがお箸を持ったまま走っていく。ものすごい勢いだ。びっくりして卵をこぼしてしまった茜はけれど、はっと我に返って、慌ててお父さんを追いかける。
開けっ放しの玄関先で、お母さんはバンザイしていた。
「ついにうちにも圧力鍋がくるわよ!!!」
「びっくりさせるなよお前……」
お父さんが、ぐったりとしゃがみ込む。
茜がおずおずと靴箱の前から見守っていると、こちらに気づいたお母さんがバビュンと飛んできた。
「茜!! すっごい美味しい角煮作ってあげるから! とろっとろよ、もうそりゃトロットロ!!」
「ほ、ほんと?」
「ほんとよ、そりゃもうホント!! すごいわ、懸賞ってほんとに当たるのね!!」
お母さんは、すごく嬉しそうだった。目をきらきらさせるお母さんに、茜はぎゅっと抱きついた。
「なぁに? そんなに嬉しいの?」
「うれしい……!!」
お母さんが頭を撫でてくれる。最近は全然ちくちくしなかった。ふわふわして、暖かくて、嬉しい。
きつねさんと会ったあの日から、今日でちょうど二週間。
効果はすぐに出ない、とミキちゃんは言っていたけれど、茜にはもう十分だった。
(でも……)
茜はまだ、きつねさんに会えていない。
外出禁止令もとけて、ボタンも沢山あつめて、放課後たくさん探しているのだけれど。
あの田んぼのあぜ道はもちろん、近くの神社に行ってみても、きつねさんは全然いなかった。
きつねさん、と。
何回、名前を呼んだだろう。
あとはどこを探せば良いんだろう、どこに行けば会えるんだろう。
そんな風に頭を悩ませていたせいか、茜は夜、全然寝付けなかった。布団の中でぐるぐる考え込んで、そのうちトイレに行きたくなって、仕方なく起きだした茜は、廊下を通り過ぎるときに小さな話声を聞いた。
「最近、いいことばかりね。郵便受けにも何も入ってないし……そうだ、私また懸賞あたったのよ。どうなってるのかしら?」
「凄いじゃないか。そういえば俺も、最近電車で座れてるからか身体の調子が良くてなぁ」
「仕事終わりは疲れるものね」
「ああ。上からも下からも散々言われて、その上電車の中でまで右から左からぎゅうぎゅう詰めにされるってのは……おい、笑い事じゃないんだぞ?」
「ふふふ。分かってるわよ」
ふすまの隙間を除いてみれば、お母さんがお父さんの肩にこてんともたれかかっているのが見えた。ソファに座って、二人でゆっくりビールを飲んでるみたいだ。
茜は秘密を覗いてるみたいな気分になって、ちょっとだけドキドキする。
「そういえば知ってる?茜が、キツネさんにお願いをしたんだって。そのお陰かもね」
「ははは、キツネさんかぁ」
「それであの子、キツネさんにあげるからボタンをくれって言うのよ」
「キツネに?油揚げじゃなくて?」
「そうなの。変よね。このあたりにボタンを奉じてる神社なんてあったかしら?」
「そもそもキツネってことはお稲荷さんだろ?やっぱり油揚げなんじゃないか?」
うーん、と二人はそろって何かを考え込んでるみたいだ。茜はしめた、と思った。もしかすると、きつねさんについて何かが分かるかもしれない。
でもその時また、不思議なことが起きた。
「……?ちょっと、何の音?」
茜はふすまの前で飛び上がった。お母さんたちが話している居間の奥から、何かの音がする。
いきなりの事だ。それは小さく細い、どこか懐かしいメロディー。
ちょっと待ってろ、と言ったお父さんが立ち上がり、そろりそろりと奥の部屋の方に消えていく。その間も、音はずっと鳴り続けている。
茜は、一人廊下にいるのが少し怖くなってきた。心臓が、さっきよりもドキドキする。
でも茜が耐え切れずふすまを開けて駆け込むより先に、お父さんの影がにゅっと居間に戻ってきた。
「母さんのレコードだ」
「え? でも、あれ針が壊れて使えなくなってたんじゃ……」
茜のところからは、よく見えなかった。それでも、茜もすぐに思い出した。
これは、おばあちゃんの家でよく聞いていた音。小さいけれど、分厚くてしっとりとした、レコードの音楽。
懐かしかった。みんなでおばあちゃんの家に遊びに行くと、おばあちゃんは必ずこのレコードの音楽を流してくれていた。
それは、いつも同じ曲で。なんでなのかを茜が聞けば、おばあちゃんは黒い円盤の上にそうっと針を落としながら、「これはお母さん達の結婚式の時にも使ったんだよ」と教えてくれた。そして、「おじいちゃんが初めて買ってくれたレコードなんだよ」と笑っていた。だから、この音がいちばん良いんだよと……。
「……母さんが天国から助けてくれたのかもしれないな」
やがて、お父さんがぽとりと零した。茜は胸がぎゅっとした。
今まで茜はお父さんが泣いたところなんて見たことないし、今だってお父さんは泣いてなんかいないのだけど。
「ごめんなさい」
お母さんの声は、震えていた。
「おばあちゃんが死んでから、あんなことになって……あなた、悲しむ暇もなかったわよね。それなのに、私……」
「……いいんだ」
お父さんはもう一度、“いいんだ”と言った。そしてほんの小さな声で、ありがとうと呟いた。
茜は次の日、ずっと学校で頭がぼうっとしていた。お母さん達のあんな姿を見るのは、初めてだったからかもしれない。
つらいとか、哀しいとかじゃなくて、ああいうのはなんて言うんだろう……なんて考えているうちに放課後になって、ミキちゃんに後ろからランドセルをばいんと叩かれる。
「茜ちゃん! 行くんでしょ?」
「あ、う、うん……」
「ミキはね、今日は習い事だから! もし会えたらミキのぶんのお礼も言っといてね! 気合入れて頑張ろ!」
言ったかと思えばあっという間に教室から出て行ったミキちゃんは、きっと今日ピアノのお稽古なのだろう。
そこにいる男の先生の指が、とても綺麗でかっこいいらしい。茜には良く分からないカンカクだ。
(はぁ……)
ともあれ、茜もミキちゃん同様キアイを入れなければならない。
最近は少し諦め気味だけれど、急いであのあぜ道まで行って、田んぼの周りをぐるぐる回って、逆に反対側の方まで行ってみて……と、しているうちにどんどんお日様は傾いて行って。
「きつねさーん……」
茜は最後にもう一度、初めのあぜ道まで戻ってきた。
夕日が、べったりと空をオレンジ色に塗っている。真っ黒なお山の方に、カラスが飛んでいくのが見える。
全部の影が、長くて黒い。そんな中、夕日色に染まった田んぼだけが、やけにチカチカして眩しい。
茜は、ポケットの中に入れた沢山のボタンを握り締めた。きつねさんに会ったのが、もうずいぶんと昔のことのような気がした。そして、今日も見つけられなかった。
「アカネちゃん」
その時だった。茜は、飛び上がって振り向いた。
ぽつり、ぽつりと街灯が瞬き始める。
「こんばんは」
とんがり耳の影が、切れかけた街灯の下に立っている。
きつねさんはこてんと首を傾けて、少しだけ笑ったみたいだった。