きつねを見つけたおんなのこの話
茜はぴたりと足を止めた。
じっと、目を凝らしてみる。後ろの方にある田んぼの水面が眩しくて、おでこにきゅっとシワが寄る。
それは、街灯の下に座り込んでいるみたいだった。夕日のせいか、色んな物の影がいつも以上に真っ黒で変な形に見えて、なんだか様子が良く分からない。
でも、たぶん田んぼの仕事をしている人だろう。だけど、きっと、もしかすると――
茜がそんな風に考えたとき、ふとその人が何かをかざすみたいに顔を上げた。
茜は、飛び上がりそうになった。
「きつねさん?」
茜は駆け出した。
とんがった耳がふたつ。前ににょっきりと突き出た鼻がひとつ。
街灯の下まであと四歩くらいの距離にまで近づいたとき、その影はくるりと茜の方を振り返った。
「!」
目が合う。その人が、じぶんの顔に手を当てる。そこに被さっていたのは、きつねのお面だ。
思わず、茜は足を止めた。
ぴんと耳を立てたまっしろな顔が、ちょっと怖い。吊り上がった金色の目が、指の隙間から此方をじいっと見返して来る。
茜は、どきりとした。昔、おばあちゃんに聞いた話を思い出したのだ。
「あの……きつねさん、ですか?」
「うん」
「!! あ、じゃあっ、その……もしかしてきつねさん、おこってますか?!」
「“おこって”」
街灯の下におやま座りをしたきつねさんは、茜のことをじぃっと見つめている。
それでもそのうち、お面を覆っていた手をおろして、ちょっとだけその小首を傾げた。
「ないよ?」
茜は、すごくほっとした。
よくある話だ。
ふしぎな人たちは、正体をみられると、とたんに怒って何処かに行ってしまう。少なくとも、おばあちゃんが話してくれた昔話に出てくる人たちは、みんなそうだった。
雪女さんも、ハタを織ったツルさんも――そうだ。だから、きつねさんはお面をつけているのだろう。
顔をみられたら、どこかに行ってしまうのかもしれない。
(だから、たぶん“おめんをとってください”とか言ったらだめなんだ……!)
それさえ、分かっていれば、だいじょうぶ。
茜はドキドキしながらきつねさんに駆け寄った。普通のひとみたいな服を着ている。黒い長袖のTシャツに、紺色のジーンズ。それも、正体を隠す為かもしれない。
「えっと、きつねさん――」
だから茜はまず、お面のことなんて気になっていないようなふりをすることにした。
一度いなくなってしまったら、もう見つけ出せないような気がしたからだ。
「それは、何をもっているんですか?」
きつねさんが指に挟んでいたものを、指差してみる。
それは、たぶんさっき夕日にかざされていたものだ。
「これはね、ボタンだよ」
「ぼたん?」
「いちばん大事な、宝物……」
少し低い、のんびりした声。
指の間にボタンを挟みながら、ゆったりと話をするきつねさんは、なんだか機嫌がよさそうだった。
茜は、嬉しくなる。きっと、この調子だと、きつねさんはいきなり何処かに行ってしまったりしない。
足を崩し、べったり地面に座り込んだままのきつねさんは、茜とちゃんとお話してくれるつもりらしかった。
「えっと、じゃあその壺はなんですか?」
茜はどきどきしながら、きつねさんの足元を指差した。
きつねさんの足の間には、サッカーボールくらいの大きさの壺が置いてある。もしかすると、お供え物かもしれない。
ちょいちょい、と長い指に手招きされた茜は、きつねさんと向かい合うみたいにして、地面にぺたりと座り込んだ。
長い指が、持ち上げた壺を茜の方に傾けてくれる。
「わぁ……!!」
中身は、色とりどりのボタンだった。
お菓子みたいにも見えるし、宝石みたいにも見える。茜は、沢山のつやつやしたボタンをすごく気に入った。
「すごくきれい!」
「うん」
「でもきつねさん、こんなにボタンを集めてどうするの?」
「たべる」
食べる。
身を乗り出して壺を覗き込んでいた茜が顔をあげれば、きつねさんはちょっとだけお面を持ち上げて、手に持っていたボタンを口の中に放り込んだ。
びっくりした。
ごくん、と骨のでっぱった喉が上下する。
食べた。
きつねは油揚げが好きなんだと聞いていたけど、本当はボタンを食べるのか――と、そのときふと茜は、じぶんの服を見下ろしてみた。
紺のワンピースと、水色のカーディガン。
どちらにもボタンはついていなくて、茜はしまった、と思った。
「あの……きつねさん、じつは、あのぅ……わたし……」
「うん」
「きょうは、おねがいがあってきました」
それでも。
少し縮こまりながら、茜は思い切って言ってみた。
「でも、その……わたし、ボタンをもってくるのを忘れて……。でも、明日絶対もってくるので……」
「きみのボタンは、まだいらない」
「え」
「なに?」
「え?」
「きみのおねがいごとは、なに?」
顔を上げれば、すぐ近くにきつねのお面があった。
茜はちょっとだけびっくりしてしまって、だけれどすぐ金色の目の真ん中にあいている黒い穴に、釘付けになった。
中が、全然見えない。それは真っ黒で、眺めているうちに吸い込まれそうな――
「わ、わたしっ」
茜は、慌ててきつねさんのお面から目をそらした。
「シュークリームが潰れてて!」
「シュークリームが」
「そ、そう、シュークリームが、その……」
「つぶれてて」
茜は勢いで、話しだしていた。
「お、おとうさんも、おかあさんも、怒ってて。おばあちゃんが死んじゃってからなの、いっつも怒ってる。夜中に変な音がする。ずっと喧嘩してて、元気なくて……」
けれど、茜は話をしているうち、少しずつ悲しくなってきた。
家の中の光景が、重たい湯気みたいにじわりと頭の中に浮かんでくる。
「おとうさんが買ってくるシュークリームが、ぺったんこなの。前からぺったんこなんだけど、もっとぺったんこで」
「ぺったんこ」
「それにね、おかあさんはけんしょうのハガキを出さなくなっちゃったの。お返事が来るの、いつも楽しみにしてたのに……一回も当たったこと、ないけど」
「一回も?」
「うん」
「当たったことがない」
「……うん」
茜は頷きながら、じぶんの靴の先を見つめた。
思い出そうとしなくたって、浮かんでくる。浮かんでくるから、茜の気持ちは沈む。
お父さんは、ぺったんこのシュークリームを見ると、悲しい顔をするのだ。ごめんなぁ、とため息みたいな声で言う。
お母さんは、けんしょうのハガキを出している時、とても楽しそうだったのに。最近はおもての郵便受けすら見に行かない。
それは、すごく悲しいことだった。
「さいきんはね、家にいるとちくちくするの。前はそんなこと無かったのに……たぶん、お母さんたちもちくちくしてる。だから、それをなおしてほしいの。みんなに元気になって欲しい。お母さんたちに、喧嘩しないでほしい。おばあちゃんがいた頃みたいに……仲良くなってほしい」
いつの間にか、瞼に涙がじわっと込み上げてきていた。
茜は鼻をすすり、きつねさんを見上げる。
きつねさんはボタンの入った壺を抱え込んで、首を傾けたままずっと茜のことを見ていた。
「いいよ」
「え?」
茜は、びっくりした。
すごくあっさり言われて、「本当にいいのかな」なんて思った。
だけど、その一言で心の中にあった重たいものがすうっと溶け出していく。
「とっても、楽しみだね」
きつねさんは、笑ったみたいだった。
夕日の中の影で、そのお面の半分は真っ黒に染まっていた。