憂鬱
「……はぁ~」
質素ながらも品格もある大きな部屋には一人の女性のため息が響いていた。その主はほかならぬアルテミスであった。そして、その原因は机に積まれた大量の書類であった。
前日の王女との面会の後、案内された部屋で食事をとって湯あみをした後、彼女はすぐに寝てしまった。旅の疲れのためである。そして翌朝、飽きて部屋で朝食を早めに済ませ、馬車で学院に向かった。
学院で聖典教理科の講師陣からの挨拶を受けた後、部下の准教授の一人に案内されて向かった先が学院長室であり、そこにあったのは書類の山であった。そして准教授は彼女にこう告げた。
「新学期の開始に先立ち、教授に目を通していただかなければならない書類が多くあります。秘書の方などはいらっしゃらないようですが、ご支障はありませんか」
「ええ、大丈夫です。心配ありがとう」
アルテミスが微笑んでこう答えると彼は「失礼しました」と言って、部屋を退出した。
そうはいったものの彼女は暗澹とした気持であった。彼女は書類仕事は苦手ではなかったが、大嫌いであった。そもそもこうした煩わしい仕事は時計塔にいた際にはする必要がなかった。秘書の類も、彼女は周りに人を置くことを好まず、たいていのことは一人で出来てしまうためあまり必要としていなかった。そして、そのあまりが学院での教授の書類仕事がこうも多いとは想像していなかった。そもそも彼女は愚物のことに時間を割くのを嫌悪する。
「我ながら迂闊でしたね」
そう呟いて彼女は渋々といった感じで作業を始める。自分の優秀さを彼女は信じ、手を抜くことをあまり好まない。それゆえ冗長な書類仕事は彼女にとって苦痛というべきものであった。だが、彼女は誰かに手すきの者に手伝わせることもできたであろうし、准教授や助教などへの昇格を目指す講師たちなどは進んで見目麗しい彼女の歓心を買うために手伝いをしそうなものである。しかし、彼女がそうしなかったのには理由があった。
「この学院の教師陣は信用ができないから、手伝いもさせられませんね」
そう心の中につぶやいて彼女は作業を続ける。専任の教授が退任を希望し、准教授たちは教授を目指して日夜根回しや陰謀に励んでいた。そんな中で後任として彼らを完全にすっ飛ばして、わずか19の女が来たのだ。いくらそれが時計塔のディートリッヒ家の当主の娘であっても、というかそれゆえに断じて彼らの許容できることではなかった。また、講師陣も出世競争に日夜励んでいる。挙句の果てに、各学科の間も日々権力闘争を行っており、情報の漏洩は避けたい。そんな状況で学院のアルテミスの周りに信頼に足る人間などいるはずもなく、そもそも彼女は自分を「他人の助けがなければ仕事が進まないという無能ではない」と考えており、愚物たる教師陣の手を借りるなど論外であった。
「はぁ~、しかし面倒です」
今日二度目のため息ついた彼女はとても憂鬱である。面倒くさいものは面倒くさい。そのことは彼女がいくら優秀であっても変わらないし、彼女はそれを真面目にやろうと思うような人間ではない。
「仕方ありません。ヘカーテを呼びましょう」
彼女はそう言って、自らの信頼し心を許せる数少ないの人物にして、彼女の一番弟子のヘカーテを学院へ呼ぶことを決意した。
ヘカーテが誰かは次話にて明らかにします。