婚約解消はしたくないの!
「ジュリエット、ちょっといいかしら」
ある日の午後、学園の渡り廊下で私はイザベラに呼び止められた。
「何かしら、イザベラ。私、図書館に行くところなのよ。これから会合なの」
「お時間は取らせないわ。少し耳を貸してもらえる?」
イザベラは私の耳に口を近づけてこう言った。
「レオが、私に会いたいって言ってくるのよ。あなたが図書委員会に行っている間、中庭で会おうって。あなたに黙っているのも悪いから、お知らせしておこうと思って」
私は、頬がカッと熱くなるのを感じ、少し強い口調で答えた。
「あら、私はレオが誰と会っていようと構いませんわ。そんなことはレオの自由ですから。じゃあ、私急ぐので失礼します」
「あらぁ、随分と自分に自信があるのねえ?レオが心変わりしても知らないわよ?」
ウフフ、という嫌な笑い方を背中に感じながら私は小走りで図書館へ向かった。
レオナルド・クイーンズベリーは私の婚約者だ。と言っても、先月、親同士が取り決めたばかりでまだ実感は無い。
この話を父から初めて聞いた時、私はとても嬉しかった。一つ歳上のレオは学園でそんなに目立つ存在ではないが、落ち着いた雰囲気と濡れたように黒い瞳が私にはとても素敵に見えて、以前から気になる人だったのだ。
ただ、一つ引っ掛かることがある。さっきのイザベラだ。
イザベラも一つ歳上、つまりレオの同級生だ。美しい金髪に青い瞳、女らしい丸みのあるスタイルに艶のある声でたくさんの男子生徒を魅了している。というよりも、決まった相手のいる男子を振り向かせることが楽しいらしく、婚約している男女の仲を壊して回っているのだ。そのせいか女子生徒の間では陰で『壊し屋』と呼ばれている。
そして私とレオの婚約が噂されると、次のターゲットをレオに定めたらしい。休み時間も放課後もレオに付き纏っているという噂を聞いた。
婚約していると言っても、私がレオと話をしたのは親と同席した最初の一回のみ。学校では一度も話したことがない。
それなのに、イザベラとは二人で話すのだろうか。気になる、なりすぎる。
その日の会合は、全く内容が耳に入ってこなかった。窓から目を凝らして中庭を見ていると、ベンチに座っているイザベラが見えた。そこへ、レオらしき人影が近づいてきた。二人が何か話している。そして二人が抱き合って……
「ええっ!」
思わず、声を出して立ち上がってしまった。
「ジュリエット、何ですか。大きな声を出して」
「先生、すみません! 体調が悪いので帰らせて下さい!」
私は慌てて机の上を片付けると、廊下へ飛び出した。中庭の見える渡り廊下まで来るとレオの姿はなく、イザベラが歩いているのが見えた。私に気が付くとこちらへやってきて、勝ち誇ったように言った。
「あらジュリエット、レオならもう帰ったわよ」
「……だから、関係ないって言ったでしょう」
「ふふん、可愛げがないわねえ。何を話していたのか教えてあげようと思ったのに」
もちろん知りたい。が、こちらからイザベラに聞くことは絶対にしたくない。
「わかってるわよ。教えて、なんて言いたくないんでしょう。貴族のご令嬢はみな同じね。プライドばかり高くって。だから、婚約者によそ見されてしまうのよ」
クスクスとイザベラは笑った。
「いいわ、教えてあげる。レオはねえ、あなたみたいなお子ちゃまより、私の方が魅力的なんですって。親の勧めで仕方なしの婚約だから、解消して私と婚約したいんですってよ」
私は目の前が真っ暗になった。レオがそんなことを本当に言ったのだろうか?という思いと、確かに私はまだ子供っぽ過ぎてレオがそう言うのもわかる、という思いがせめぎあっていた。
「明日の王宮でのパーティーにも誘われたわ。もしかしたら、その場で婚約解消を発表なさるおつもりかもね」
それは、王太子様が主催する、若い貴族だけを集めた気軽なパーティーのことだ。私たちの婚約後初お披露目の場になっているはず。そのためのドレスも髪飾りも、お父様が用意して下さったのに。
「私も、いろいろな方と噂になっていたでしょう?『壊し屋』なんて呼ばれていたのも知っているわ。でもねえ、私は何もしていないのに、ただそこにいるだけで男性たちを虜にしてしまうみたいなんですもの。仕方ないでしょう」
イザベラは得意気に話し続けている。
「でもねえ、私今日わかったの。私に相応しいのはレオなんだって。今まで、レオがこんなに素敵な人だなんて知らなかったわ。公爵家のご子息だし、王宮軍に入ることも決まっているし、なんと言っても声が低くてセクシーだわ。それでねえ、ジュリエット」
私にぐっと顔を近づけてこう言った。
「男性から婚約解消を言い渡されるなんて貴族令嬢としては恥でしょう?せめて、あなたから解消してあげなさいな。それならば、あなたに傷がつくこともないわ」
確かに、レオからそんなことを言われるなんて耐えられない。だったらいっそ私の方から……?
「じゃあね。私は忠告したわよ」
そう言いながらイザベラは校舎の方へ戻って行った。
私はふらつき、渡り廊下の柱にもたれて自分を支えないと、倒れてしまいそうだった。彼女の言ったことは本当だろうか。
しばらく考えこんでいた私の目に、芝生の上でじゃれ合う猫たちの姿が飛び込んできた。この子たちは、学園の用務員さんが飼っている母猫とその子供だ。愛情溢れる親子の仲睦まじい様子を見て、私は思った。私は、ちゃんと愛情を示せているの?と。
私は、レオのことが好き。
だけどそのことを、まだ自分の言葉で彼に伝えていない。
もしも婚約を解消されるにしても、私の気持ちをちゃんと彼に伝えてからにしよう。
そう心に決めてからは、気分がスッキリした。
今夜はきっちりとお手入れをして、明日は私史上、一番の綺麗な姿で出掛けなくては。
屋敷に戻ると、どなたかお客様がいらしているようだ。メイドが、嬉しそうな顔で私を出迎えた。
「ジュリエット様、レオナルド様がいらしてますよ。先程からずっとお待ちです」
「ええっ」
私は焦った。明日、気持ちを伝える覚悟はしていたけれど、その前に顔を合わせてしまうなんて。
いえそれよりも、わざわざ我が家まで来られるなんて、今すぐに婚約解消を言われてしまうのではないかしら……?
「わかったわ、身なりを整えてからすぐ行くとお伝えしてちょうだい」
そして着替えた私は、緊張しつつレオの待つ客間へと向かった。
翌日、私は王宮の『胡蝶の間』にいた。王宮の中では小さい部類に入るこの部屋で、王太子様のパーティーが開かれるのだ。
学園で見かける貴族令嬢、子息達がそれぞれ六名ずつ招待されていた。
だが皆、話をすることもなく黙って壁ぎわに立っている。
何故なら、招待された者達はすべて、ここ一年の間に婚約を解消した男女ばかりだったからだ。気まずい雰囲気が流れ、皆、このパーティーの趣旨を測りきれないといった様子だ。
その時、遅れて部屋に入ってきたのはケバケバしく着飾ったイザベラだ。
「あら?皆さまもうお揃いだったのね」
そう言いながら中を見回していたが、並んでいる顔触れを見て片眉を上げた。何か不審に思っているようだ。
「皆揃ったようだな」
王太子アンドリュー殿下が入室され、そのすぐ後ろにレオが控えていた。
「今日は私のパーティーによく来てくれた。若い者同士、気軽に楽しんで欲しい」
それでも皆、顔を見合わせながら動くことはなかった。
「……やはり、気まずいようだな。それについて、気になることがあったので今日は集まってもらったのだ。レオナルド、説明せよ」
「はっ」
レオが一歩進み出て話し始めた。
「在学中に婚約を結ぶことは貴族間ではよくありますし、婚約を解消することも稀にあります。しかし、この一年だけで婚約解消が六件もありました。これは奇妙なことだと、王太子殿下の命によりその原因を探り始めたのです」
レオは集まった男女の顔を見回した。
「そしてその婚約解消には、すべてある女性が関わっていることがわかりました。イザベラ・ハンクス嬢です」
「えっ、何?私が何をしたって言うの」
「まず、イザベラ嬢は女性に声を掛けます。男性から話をしたいと誘われた、これから中庭で会うと。すると女性は気になって中庭の方を見るでしょう。見ると遠くのベンチで話をする二人の姿が、しかも最後には抱き合っているように見えます。頭に血が上った女性に、イザベラ嬢はまた声を掛けます。彼はあなたより私の方が好きだと言っている、と話して女性を動揺させるのです」
「そして、あなたから婚約を解消した方が傷にならない、と誘導します。貴族の女性の気位の高さを上手く利用していると言えます。そして、女性から突然婚約解消の申し出があり、男性はよくわからないまま受け入れざるを得ないのです」
周りの男女がザワザワとざわめき始めた。身に覚えがあるようだ。
「中庭で話をするのはイザベラ嬢に呼び出されたからです。また、二人が抱き合って見えるのはカラクリがあります。話をしている途中でイザベラ嬢が、髪に虫がついたから取ってくれと抱きついてくるのです。これは今日来ている男性陣全てに確認を取りました」
「つまり、男性が心変わりをしたように見せかけて、女性から婚約解消させていたということだな?」
「はい。私と、私の婚約者が昨日やられたばかりですので、間違いありません」
「イザベラ。自分のしたことを認めるか?」
イザベラは唇を噛んで鬼のような形相になっていた。
それでも、王太子殿下の言葉を否定してはいけないことは理解していた。
「――はい」
と答えた。
「今後、このように人の気持ちを弄んだり、かき回したりしてはならんぞ。次にやったら、学園を退学にする。わかったら、もう下がってよい」
唇を噛みしめたまま、王太子殿下に一礼するとイザベラは部屋の出口に向かった。
部屋を出る際、振り返って全員の顔を見回してこう言った。
「こっちこそ願い下げよ。貴族なんて気取った奴らばっかり。お父様が貴族の結婚相手を見つけろって言うからいい男を探していただけ。町の男の方がよっぽど素敵だわ。もう学園になんか行くもんですか」
鼻息荒くイザベラが出て行った後、軽くため息をついてから
「では皆の者、これからが本題だ」
と、王太子殿下がおっしゃった。
「レオナルドに確認させたところ、ここにいる男性達は婚約の復活を望んでいるそうだ。女性たちよ、誤解の解けた今なら考えも変わるのではないか?」
女性達はお互いに顔を見合わせていたが、顔は嬉しそうであった。
「では、後は若い者に任せて私は部屋に戻るとしよう。時間の許す限り語らうと良い」
王太子殿下は微笑み、退出なされた。
部屋の隅にいた楽団が、音楽を演奏し始めた。男性の一人が女性の前に進み出るとこう言った。
「クラウディア、私はあなたを愛しています。どうかもう一度、私の婚約者になって頂けませんか?」
すると女性は顔を赤らめ、
「ジェームズ、あなたを信じなくてごめんなさい。私で良かったらもう一度、婚約させて下さい」
ワッと拍手が起こり、それから堰を切ったように全ての男性が告白し、女性が申し出を受けた。
婚約が復活したカップルは音楽に合わせて踊り始めた。
私は、壁際に立って私の婚約者を待っていた。
「遅くなってすまない、ジュリエット」
レオの低くて素敵な声が私の名を呼んだ。
「いいえ。お疲れ様でした、レオナルド様。上手くいって良かったですわ」
「……レオでいい」
少し頬を赤らめたように見えたのは私の考え過ぎかしら?
「君がイザベラとの会話を全て教えてくれたから、謎が解けたんだ。他の女生徒達は、プライドもあって何も話してくれなかったから」
「お役に立てて光栄ですわ。私にとっては、プライドよりも大切なことがあったんですもの」
「それは何?」
「レオ様をお慕いしている気持ちです。それをお伝えする前に婚約解消など、絶対にしたくなかったのです」
「……ありがとう。私を信じてくれて嬉しいよ。昨日贈ったネックレスも、つけてくれているんだね。よく似合っている」
私の胸には、昨夜、レオからプレゼントされたダイヤモンドのネックレスが輝いていた。
「レオ様からの初めての贈り物ですもの。一生、大事にしますわ」
そう、昨夜私を訪ねてきたレオは、王太子様の命でイザベラを調査していることを教えてくれた。ということは、私との婚約はイザベラをおびき寄せる罠だったのだろう。
私は全てをレオに話し、最後にこう告白した。
『私は、レオナルド様が好きです。たとえこの婚約が調査の為のものだったとしても、私のこの気持ちは本当です』
するとレオは慌てて私の手を取った。
『違うよ、ジュリエット。この婚約はかりそめのものではないんだ。私が父上に申し出て正式に申し込んだものだ。いつも私を見てくれている君を、私もいつの間にか好きになっていたんだ』
そう言ってレオは金色のリボンを掛けた細長い箱を手渡してくれた。中には、プラチナで美しい飾りを施した小さなダイヤモンドのネックレスが入っていた。
『明日は、君をエスコートして王宮に入ることは出来ないけれど、全て終わったら必ず君の元へ行くから待っていて欲しい』
――そうして今、レオは私のところへ来てくれたのだ。
「では、王太子様のところへ婚約のご挨拶に行こうか」
「はい」
私はレオの差し出した手を取り、軽やかな足取りで王太子様のいらっしゃるお部屋へ向かった。
これからもずっと、私はこうしてレオと手を取り合って歩いていくことだろう。お互いを信じ、支え合いながら。