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 前触れもなく、笑い声が聞こえた。おかしくて、嬉しくて仕方がないというような、陽気な笑い声。静寂の中響くそれは、本来なら微笑ましいはずなのに、やけに不気味に乱反射している。


 女の声だ。


 しかも、聞き覚えのある声。心拍数が一気に速まった。


 意図せず、赤座と視線がかち合う。


 「まさか……」


 僅かに、血の臭いがした。死体から薫る、腐った肉のような悪臭。


 見覚えのある通路に出る。そこにはスマートフォンが転がっていた。画面が割れ、電源は点かない。


 「……これ、園村のスマホだ」


 琴音らしい、デコレーションされていない、黒いカバー。


 そばには、司書室があった。入口に転がった、女性の死体。先ほどよりも損傷がひどく、血だまりが広がっている。


 その中央に、琴音がいた。目がなくなった死体の頭を膝に乗せ、血にまみれ、壊れた頭部を撫でつけている。制服が血にまみれているのにもかかわらず、琴音は満足そうに嗤い続けていた。虚ろな瞳は、ただ死体に注がれている。赤座が口を押え、呻きながら膝を崩す。


 「そ、園村……」


 戦慄する。そんなはずない。先ほどまで、彼女は正気だったはずだ。なのに、どうして? どうしてこんなことになっている。


 「あれれ? 入江じゃない。どうしたの? そんな引きつった表情して」


 にたり、と口角を横へ伸ばし、恍惚と左手を伸ばす琴音。


 「……なに、やってんだよ」


 「何って? お姉ちゃんと遊んでるだけだよぉ。あ、そうだ、紹介しないとね。この人が私のお姉ちゃん。園村花音だよ。私の大好きな人なんだぁ。あははは」


 花音はその死体の顔をこちらへ向かせた。愛しい物を撫でるように、ひどく繊細に扱っている。感情が欠落した、あるはずのない、死体の瞳が大輝を睨みつけた。冷たい手で背を撫でられたかのような恐怖感に、大輝は絶句した。


 頭の片隅で、赤座の言葉が反芻される。園村花音はここにきて死んで、彼女には妹がいる、と。


 赤座は三年前に来た。そして、姉の花音も。


 そして、死んだ。


 「冗談いうなよ、なあ、園村」


 「冗談って? 何が? 確かに実の姉に恋するなんて普通じゃないけど、けれど本気だよ」


 そういいながら、琴音はその死体に口づけを交わす。琴音の唾液とぬめぬめした血が混ざりあう水音が鳴る。


 「花音……」


 さらにひどい損壊を受けた花音の亡骸に、赤座は目を見開きながら、そのまま嘔吐する。地面に広がる吐瀉物に、つんとした酸味を帯びた臭いが広がる。


 「そうじゃねーだろ。そいつ、……し、死んでんだろ?」


 「何言ってるの? 変な事言うんだね。あははははは。お姉ちゃんは生きてる。ずっと生きてる。ずっと、ずっと、ずっと、ね」


 「やめろよ! そんなことしてる余裕ないだろ。とにかく、皆の元に――」


 「そんなこと?」


 琴音の瞳孔が突然開いた。ヤバい、と思った時には、既に遅かった。


 「どれだけ私がお姉ちゃんと会いたかったか! それなのに、そんなこと? ふざけるなよ!」


 琴音の断末魔にも似た糾弾に、大輝は思わずたじろいでしまった。彼女らしくない、激昂に駆られた姿。冷静さを失った彼女を見るのは、初めてだった。


 それは、大輝が恋をした琴音ではなかった。亡霊のような青白い顔の彼女は、まるで幽霊だった。


 「私は幸せなのに! やっと会えたのに! どうして否定するんだ!」


 「けれど、そいつは、お前の姉は死んでるんだ! 頼むから目を覚ませよ!」


 「死んでない! お姉ちゃんは生きてる! 見つけてくれた私を褒めてくれる……たくさん愛してくれる。それなのにお前はお姉ちゃんを侮辱するのか!」


 「現実を見ろよ! あいつらが――皆川がお前を待ってるんだ。死んでしまった人間は仕方がない、でも、今俺達ができるのは、生きてここから出ること――」


 「黙れ! 愛した者と会うことができない、振り向いてもらえない、その苦しみと空しさがお前にわかるのか!」


 その言葉が、大輝の胸を深く抉る。その気持ちは、痛いほど理解できた。何度彼女に告白しても、振り向いてもらえない。表面上取り繕うも、心の奥底は、寂しさを抱えている自覚はあったから。


 不意に琴音がゆらりと立ち上がる。


 「ようやく、会えたんだ。ずっと会えなかったんだ。それなのに……お前は私の――私たちの邪魔をするなら」


 懐から取り出された、鈍色に光るナイフが、大輝に向けられる。


 「たとえ入江でも、生かしておけない」


 血走った眼は、明確な憎悪と殺意を滲ませていた。じりじりと距離を詰めてくる琴音に、大輝は撤退するしかない。


 「い、入江!」


 「来るな赤座!」


 赤座を制止させ、大樹は琴音を真正面から睨みつける。


 「そんなことしたって意味なんかねーだろ。死んだ人間は帰ってこない!」


 意図せず語尾が震えた。ギラギラと光沢を帯びたナイフが、やけに暗闇の中で存在感を主張している。 


 「お姉ちゃんは生きてる! 生きてるんだ! お前が勝手に決めつけてるだけだ!」


 「違う!」


 どうすればいい。どうすれば彼女を正気に戻せる。


 ……畜生、わかんねーよ!


 ギリギリと歯ぎしりを立てる。


 逃げるか?


 ……いや、そうしないとおそらく俺は死ぬ。今大輝にできることは何もない。そうしている間にも、この騒動を聞きつけた黒い影が近づいてきているに違いない。


 けれど。


 「逃げられるかよくそ!」


 彼女を置いてはいけない。気丈なあいつが、あいつを独りで行動することを許してしまったのは俺だ。こんなになるまで抱え込ませたのは、俺だ。


 クールな奴。けれど、人一倍脆い女の子。


 「懐かしいな、こういうことになったのは」


 蘇るのは、高校一年生の冬の出来事。


 あいつの、初めての涙を見た日だった。





 「そろそろ授業を出ないと、本気で留年するわよ」


 「うっせーな。んなこと分かってんだよ」


 当時の大輝の生活は荒れていた。一カ月前くらいから、ずっと学校に行かず、一人でダラダラ引きこもり生活を送っていたのだ。


 理由は至極簡単で、自分が孤独だと思っていたから。


 学校に、大輝は居場所がなかった。部活だって大した成果が上げられない。若葉と本格的に仲良くなる前だったし、話せる奴がいなかった。


 クラスで奇数なのは地獄だ、二人一組という先生の指示が死ぬほど嫌だった。そのたびに大輝は教室を抜け出して、トイレや屋上で時間をつぶすことが多かった。


 弁当も一人、授業を受けるのも一人、友人も彼女もできない。マザー・テレサは無関心こそが苦しみの本質と述べたけど、大輝の場合、それは真っすぐ突き刺さった。


 中学が終わった後、リア充生活を送るぞと意気込んでいた発言が、今になって重くのしかかってくる。


 そして現在、不登校という有様だ。家を尋ねてくるのは同じクラスの琴音以外いない。


 正直、うっとうしくて仕方がない。


 大体、なんでこんな親しくもない奴が家に来るんだ。喋ることと言ったら皮肉や腹の探り合いだけ。


 特に、この日の機嫌は最悪だった。普段なら三十分で帰るのに、今日は両親がいないため、二時間もいる。夜八時で、空は台風による雷鳴が轟いている。


 「つーかよ、お前いつまで来るんだよ。来るなら勉強教えろよ」


 「別に来なくていいよ。来たって偽証すりゃいいだろうが」


 礼儀正しい、落ち着き払った動作も癪に障る。


 「それは私のポリシーに反するわ。私の憧れた人も、他人に優しくする人だったから」


 わずかに目を細める琴音に、大輝は黒い感情が腹の中で渦巻くのを感じる。


 「はっ。素晴らしいねそりゃ。で、あんたはそのために俺を利用してるってわけか」


 「偽善は重ね続ければ善人になるでしょ。そういうことよ」


 「てめぇのズバズバ言う性格好きだぜガチで。死ね」


 「ありがとう。ところで、そろそろ夜ご飯を用意してくれない? お腹が減ったわ。ラーメンくらいは作れるんでしょ。あとあんたが死ね」


 「なんでてめぇのために作らなきゃいけねーんだよ」


 軽く掃除を終えた後、琴音は地面に正座する。退屈そうに欠伸をする始末。


 「というかさっさと帰れよ」


 「いやね。……ねえ、早く学校に来てよ。私も一緒にいてあげるから」


 「結局それか。うぜえんだよ。どうせ行ったってまた一人だし」


 何度、彼女はそう言っただろう。いらいらする。なんで俺のためにこんなことをする? むかつくんだよ。偽善者が。


 「はぁ」


 琴音がため息を漏らす。長い髪がふわりと香る。


 「なんだよ」


 「弱いね、貴方。そんなに傷つくのが怖いの」


 不意に、頭の奥で、ぷつんと何かが切れた。


 数秒後、大輝は地面に琴音を押し倒していた。ゴトン、とくぐもった物音が鳴る。馬乗りになり、琴音を見下ろす。心臓がバクバクと鳴り響き続けていた。尻に、琴音のお腹の感触が当たる。ひどく柔らかい、華奢な腹部は、体重を加えてしまえば潰れてしまいそうだった。


 「お前に何がわかる」


 琴音はクールなのに、たくさんの人が集まっている。それが羨ましかった。なのに、どうして大輝の孤独を理解したように喋れる。弱い? ふざけんなよ。どれだけ辛いか、お前にわかるのかよ。


 さすがの琴音も驚いたようだ。ちょっと、と必死に抵抗する様が余計な嗜虐心をそそった。右腕を抑え込み、大輝は冷然と琴音を見下ろした。


 「やめて……!」


 「うるさいんだよ、お前は! もう二度とここに来るな!」


 「いやよ」


 地面に背をつけたまま、琴音は首を振る。ああもう、何にイライラしているのかがわからなくなってくる。なのにどす黒い負の感情が、体を駆け巡る。


 「なら、一生来れなくしてやる」


 女性に心理的外傷を与えることなんて、簡単だ。


 戸惑いなく、大輝は琴音の制服のボタンを引きちぎる。はじけ飛んだボタンが、壁に当たって地面に落ちる。真っ白な肌が露わになり、黒のブラが露出する。


 琴音の顔が赤くなる。自分が今からされることを理解したらしい。


 「どうせお前処女だろ? 犯しがいがあるもんだな」


 嘘だ。ここまですれば、さすがの琴音も恐れを抱くはず。絶対に二度と、ここへ訪れることがなくなる。


 これでいいんだ。こうしないと……。


 琴音は正しすぎる。まっすぐすぎる。ひねくれた自分が、みすぼらしく見える。だから、目の前にいないでほしい。だからこうしないと、自分を保っていられない。


 「ほら、たった一言、もう二度とこないといえば全て片付くんだよ。おら、言えよ!」


 さあ、さっさと言え。早く……!


 なのに。


 「いやよ。……入江と一緒がいい」


 「……! どうして俺に固執するんだよ! いいじゃねーかよこんな落ちこぼれ放っておいてよ!」


 ふざけやがって。そういう、満ち足りた人が他人を気遣う、それが無性に腹立つんだ。


 「勝手に善人感出しやがって! どうせ学校に行っても何も変わんねーんだよ。どうせまた俺は――」


 「それはお前が努力しないからだろ! 他人に話しかけないで、他人ばかり期待して、そんなんじゃ受け入れられるわけないだろう」


 「それができりゃ苦労してねーんだよ! けど、どうやったって駄目で、もう無理なんだよ! 俺なんざ学校にいなくたってどうでもいいって被害妄想が止まんねーんだよ! 空気みたいな扱いにもううんざりなんだよ。どうせ俺なんていなくたって――」


 「私がいるだろうが!」


 空いた左手で、琴音が大樹の首元をつかむ、あっという間に大樹は形勢を逆転されてしまう。背中に衝撃が走り、頭をしたたかに打ち付ける。腹に琴音が飛び乗り、思い切り大樹の頬を張った。


 「ってーな! 何する――」


 その言葉は消化不良気味に消滅した。


 琴音が、泣いていたから。痛みが、即座に吹き飛んだ。


 「一人で勝手に決めて! 空気みたいな扱い? そんなわけないでしょ。私がいるじゃん。あんたは覚えてないかもしれないけど、あんた、四月ごろに私が緊張で空回りまくって孤立してた時、初めて声かけてくれたでしょ。一人で楽器の練習をしてた時、うまいなってほめてくれた。だから私も自信がついて、たくさん友達もできた! なのに、勝手にお前だけは一人で離れてしまう……」


 そんな記憶、ない。


 いや、違う。うっすら覚えている。まだ友達ができると考えていた時、あちこちの人に話しかけまくっていた時、みんなの輪に外れて楽器を鳴らしていた女の子に声をかけた覚えがある。あの時声をかけたのは、つだったのか。


 琴音はくたっと体を大樹に預けた。涙が大樹の服を通し、肌に伝わる。琴音はとても軽くて、暖かかった。


 「お前は自分が不幸だと思い続けて、そうやって私の好意を見逃して。ほかにもたくさんいるんだよ、入江を心配してる人も、仲良くなりたいと思ってる人も! 私の友達も、あの人チャラいのかクールなのかわかんないなって言っていたし。何のお前は……」


 「……園村」


 「すまないな、取り乱して」


 くぐもって聞こえる、琴音のうめき声。


 「以前、私は大切な人を失ったことがあるんだ。だからかな、一緒にいたい人がいたら、ずけずけとプライベートスペースに入ってしまう。……早い話が、独占欲。恥ずかしいわ」


 大切な人。その言葉に、大樹は思い当たる節などなく。


 「……分かったよ」


 「何が?」


 「行くよ、学校。しゃーねーな」


 「遅いよ、バカ」


 顔を起こした琴音は、泣きはらしたように目が赤くなっていた。こんなになるまで、自分のことを考えてくれる人がいるなんて。気づかなかった。下心もなく、ただ純粋に大樹は琴音の背に手をまわした。彼女は一瞬びくりとしたが、やがてされるままに抱きしめられていた。


 「……怖かった。本気で犯されると思った」


 ふたたびぐだりと体を預ける琴音。


 「すまねえな。それは本気で悪かった」


 それから大樹は、学校に復帰することができた。若葉と親しくなったのは、この頃だった。


 むろん、琴音とは一番仲が良かった。クールで冷静、そつなく何でもこなす。けれど実は寂しがり屋で、泣き虫で、弱い女の子。





 だから、守ってやらなきゃいけない。今度は自分が。今度は、俺が琴音を守る番だ。


 ナイフが、近づいてくる。大切な物を失くし、絶望に染まった琴音は、ゆっくりと大樹を殺そうと行動を起こす。赤座がはらはらした表情のまま、ただ琴音のナイフを見つめ続けている。


 壁に背がつく。嫌な汗がだらだらと流れる。怖いし、肺がつぶれたように呼吸ができなくなってきている。


 けれど、逃げられない。逃げない。


 そういや、お返ししてなかったな。不登校から脱却させてくれた代償が、俺からの告白なんてこいつも報われねー。


 今なら、はっきりわかる。琴音の憧れていた人は、彼女の姉だったんだ。そして、思い人でもあったのだ。


 「このまま殺してやる」


 凶器に染まった琴音の瞳に、僅かな悲しみが混じっていたのを、大樹は見逃さなかった。


 自分をセーブするために、狂うことしかできなかったこいつ。


 「園村」


 「何? 命乞い?」


 「立場、逆になったな」


 「何のことかしら」


 微笑を浮かべた彼女は、ナイフを大きく振りかぶる。


 「そんなの、どうだっていいの。私たちの幸せを邪魔するなら――」


 早く死ね。


 ほぼ同時に、ナイフが大樹めがけて一閃した。


 琴音は運動ができない。だから、攻撃は遅かった。


 一発でいなした直後に、大樹は思い切り琴音の頬を殴り飛ばしていた。





 吹き飛ばされた琴音は、そのまま壁に背中を強打した。激痛が体を駆け巡り、視界がちかちかと点滅する。


 「幸せなんて訪れねーよ」


 肩で息をしながら、大樹が冷然と琴音を見下ろしている。その同情が含まれた顔に、琴音はさらなる反発心が腹の中で膨れ上がるのを感じた。かすったのか、彼の頬から血の線が浮き出ていた。


 「……お前に何がわかる」


 「わかんねーよ。けどな、そのままじゃ絶対幸せになれないことくらいわかるんだよ」


 「うるさい! 黙れ! 殺してやる! お前を殺して、私は」


 喉に痛みが走るのもいとわず、琴音はありったけの殺意を叫ぶ。


 「……大切だったんだよな、お姉さんのこと。心の拠り所だったんだよな」


 ズキン、と琴音の胸が痛んだ。


 「好きな人に振り向いてもらえない気持ちは、よくわかるから」


 「……黙れ、うるさいよ」


 転がっているナイフに手を付け、大樹にそれを向ける。しかし、先ほどよりも、琴音の両腕は、情けなく震えていた。認めたくない。認めたら、すべてが崩れる。


 コワレテシマウ。


 しかし、心のどこかではわかっていた。自分たちにハッピーエンドは訪れないことくらい。それを承知のうえで、琴音は一時の恋情に浸っていたのだから。


 「お前に、何がわかるの。ずっと、私はこの時を待ち望んでた。何年も、ずっと!」


 「けど、今一番大切な物くらい、お前にはわかるはずだろ。皆川が、今もこの館にいるんだよ」


 狼狽する琴音に、大樹は近づく。長い髪を振り乱しながら、琴音は両手でナイフを握りしめる。


 「来るな! ……お姉ちゃんがいなきゃ、私はどうしようもない。私は、弱いから、一人が怖いから、お姉ちゃんと一緒にいないと、私はダメな人間なんだ」


 ずっとそうだった。琴音にとって花音は全てだった。自分よりかっこよくて、頭もよくて、大好きな人。お姉ちゃんだけが、自分を受け入れてくれた。不器用な琴音に勉強や運動を教えてくれた。そんな、お姉ちゃんが好きだった。だから琴音は花音を目指し、花音のようにふるまい、花音のように人に接してきた。


 なのに、既に彼女はいない。


 残ったのは空虚な自分と、無いものを求め続ける虚しさと苦しみだけだ。


 「琴音……」


 「私に望みなんてない。……ずっと、お姉ちゃんと再会することだけ夢見てきた。それが叶わないのなら、私は、もう、どうしようもない」


 琴音の頬に涙が伝った。黒髪を乱しながら、琴音は虚ろな視線をさ迷わせる。


 そして、大樹に向けていたナイフを、琴音は自分の首に押し当てた。


 「すべてが手遅れなんだ。もう、生きていたって、仕方がない。私の大事な人は、いなくなってしまったんだから」


 お姉ちゃんがいない世界に、とどまる理由なんてない。最後まで助けられなかった自分が、のうのうと生きていけるはずがない。


 「やめろ! 園村!」


 顔色を変える大樹。けれど、もう、決めたことだから。


 「すまないな、入江。私はお前の気持ちに応えることができなかった。けど、嬉しかったよ。ありがとう」


 「待てよ」


 「仮の恋愛はもう終わりだ。これで、すべて終わる」


 たくさんの人の死体を見てきた。そしていたぶった。到底許されることではない。お姉ちゃんにも手を出した。こんな自分が、生きていたって。死んで、お姉ちゃんのもとに――。


 「やめろっつってんだろうが!」


 大樹の怒号が、琴音の肩をびくりと揺らした。


 「そんなことして、お前の姉貴が喜ぶはずがないだろうが! 死ぬんだぞ、何もなくなっちまうんだぞ! お前にできるのは姉貴の分まで生きてやることしかねーんだよ!」


 「じゃあどうすりゃいいの! もう私に行き場がないの! 誰もいないの! そんな世界で、私は生きていけない」


 「なら俺がお前の大切な奴になってやる!」


 大樹が琴音のナイフを握りしめた。そこから血がだらだらと滴り落ちる。


 「……! 入江!」


 「俺がお前の姉貴の代わりになってやる! お前が抱え込んでる物を一緒に支えてやる!」


 ナイフを引っ張る。しかし、それは抜けることはない。大樹が痛みに顔をゆがめるが、ただ声だけを荒らげ続ける。


 「あの時、お前は俺を救ってくれた。だから今度は俺がお前を救って見せる。俺じゃあ役不足かもしれない。けど、お前の絶望を緩和させることくらいできる!」


 やめろ。


 「けれど私は、お前を好きになれない。今でも私はお姉ちゃんに恋をしてる。だから――」


 「そんなの関係ねーよ! ただ、お前が生きていてくれりゃそれでいい! 勝手に自己満足して死のうとしてるんじゃねーよ! お前には皆川がいるだろ! あいつが、俺たちが待ってるだろうが!」


 やめてくれ。


 「だから、頼む。これ以上、壊れないでくれ。一人で抱え込んで、絶望しないでくれ! 死なないでくれ! 自分を追い込まないでくれ!」


 視界がゆがむ。喉の奥から嗚咽が期せずして漏れる。


 やめてよ。


 そんなこと言われたら。


 「やめなさい、園村さん」


 大樹と一緒にいる男が震えながらも叫ぶ。


 「あなたの姉はそんなこと絶対に望んでいない。自慢の妹だったって、そう言っていた。こんなところで、死んじゃいけない!」


 ガタガタとナイフを持つ手が震える。


 「何かがあったら、絶対に守ってやる。苦しかったんなら、俺もそばで戦ってやる。お前のためならなんだってやる! なぜなら、俺はお前のことが、大好きだから!」


 無理やり、へたくそな笑顔を浮かべる大樹に、琴音は歯ぎしりする。


 どうして、こんな私を……。


 そんなことまで言われたら、そこまで吠えるなら。


 死ぬ覚悟が、無くなっちゃうじゃないか。


 ナイフが、手から滑り落ちる。不意に琴音は暖かいものに包まれる。


 大樹の胸は男の子らしく硬くて武骨だった。けれど、とても暖かかった。


 鼻水をすすり上げ、みっともなく泣きじゃくる琴音を、大樹は嫌悪もせずに、強く、激しく抱きしめる。


 「そんな風に泣きゃいいんだよ。……姉貴の代わりにはならねーかもだけど、これからは、俺がいてやるから」


 彼らしくない、物静かな声色。彼の背に手をまわし、琴音は彼の胸に顔をうずめる。


 苦しかった胸のつかえが、ゆっくりとほぐれていくのを感じた。


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