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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

もげる

作者: 花井新井

「これはもげますね」と医者が言うものだから「はぁ」と男はぼんやりと頷いた。

「もげますか」

「もげます」

 これは一大事だな。男は思った。



 先日、男は右の二の腕に一周巻き付くような痣ができていることに気付いた。

「なんだろうな、これ」と何気なく妻に尋ねと、「お医者様に聞いたほうが」とやけに頻りに勧めてくるので、男は渋々病院へ行った。大事ではあるまいと生来の楽観があったのは否めない。その結果がもげるとのお告げである。この痣の部分で、ある日ぽとりともげてしまうという。命に別状はないと医者はそっけなく言ったが、それで済まして良い問題ではない。男はあまりのことに閉口することしかできなかった。

 腕一本失ってしまうということだ。

 大変なことである。



 家に着いた男は、「もげるらしい」と妻に告げる。

「もげるって……大変なことじゃありませんか」

 男は重々しく頷く。

「右利きだからな」

 利き腕を失ってしまえば、どれだけ不便になってしまうだろう。




「左手で色々できるようにならなければなりません」と妻は男に左手だけで食事をさせ、左手だけで着替えをさせた。男も「一理ある」と言われるがまま従った。

 妻は様々なことを試みているようで、例えば豆料理が増えた。箸で豆を摘まめということらしい。「一粒一粒、しっかり摘まんでくださいな」と言う妻に、男はやや辟易してしまう。ちまちまとした作業はあまり得意ではないという自覚がある。それに豆の味はあまり好みではない。

「肉が食べたい」

「大豆もタンパク質たっぷりですから」

 そういうことではない。だが、妻は頑固なところがあって口も達者なので男は諦めるしかない。顰め面で口をもむもむ動かすのだ。



 一週間、二週間とそんな日々が過ぎた。

 男は右手の便利さがほとほと身に染みた。左手ではなかなかボタンを留めることができない。留めることに躍起になり、ようよう留められたと思えばずっこけている。まるで自身が幼児おさなごであるかのようだ。齢四十を越えてこれでは、あまりに情けない。



 二週間も経てば危機感も失せてくる。一向に右腕はもげる気配がない。

 男は妻の姿がない場所では右手を使うようになった。万一見つかったとしても、

「あら、右手を使っているではないですか」

「一度くらいは良いだろう。偶には楽をさせてはくれないか」と煙に巻いた。

 一度楽をすると癖になるものだ。妻に見つかると煩いので男はあらゆる行動を隠れてするようになった。




 ある日、浴槽に身を沈めたときのことだ。

 ポキン、と耳慣れぬ音が男の耳に届いた。何の音だろう、と男は視界を巡らすと湯の上に腕が浮いている。次いで右腕を見ると、痣のあったところから奇麗にもげている。断面はきらきらと金属のように光を反射している。

「おぉい」

 男の大きな声を聴きつけた妻が浴室の扉を開けると、男は左手で右腕を掲げる。

「もげたぞ」

 あらまあ、と妻は口元を手で覆った。




 相も変わらず左手で釦を留めるのは嫌なものだが、右手がないのだから仕方がない。顰め面でシャツを着る男に、妻はため息を吐く。

「きちんと左手で過ごさないからですよ」

「左手は使っていただろう」

「隠れて右手を使っていたでしょう」

「……お見通しか」

「お見通しです」

 つんと澄まし顔をする妻を見て、男は眉を落とす。

 気を取り直して着替えを終え、玄関へ向かう。靴を履いた男に、妻は鞄を差し出す。

「いってらっしゃい」

「ああ」

 通りに出た男は左足を曲げる。丁度片足で立つ紅鶴フラミンゴのようだ。



 昨晩気付いたのだ。左足に一周、痣ができていることに。どうやら今度は左足がもげるらしい、と男は察した。

 男は反省のできる男だ。

 今度は中途半端にはすまい――

 覚悟を決めて、男はけんけんで会社へ向かう。

 ――少なくとも、妻が見ている前では。

 ちらと玄関を見やる。妻は微笑んで手を振っている。

 決して妻が怖いわけではない。

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