8限目 2人の思い出
「玄蕃先生、明日お時間ありますか?」
そう白宮が言ったのは、白身魚の甘酢あんかけを食べている時だった。
酢、醤油、みりん、砂糖、鷹の爪に、少しケチャップを足している。
砂糖を抑えめにし、その分みりんで調整した甘酢は、甘ったるくなく、すっきりとした味わいでやや蒸し暑い夜にはぴったりだった。
片栗粉で揚げ焼きにしたお皿は、白身魚はさっくりとしておいしく、玉ねぎ、人参、そしてゴーヤがシャキシャキと口の中で音を鳴らす。
ゴーヤは好物で、独特の苦みと、甘酢の甘みがよくマッチしていた。
「明日か……」
明日は副顧問を引き受けるサッカー部の地方予選の2回戦がある。
ただ午前の一試合目だ。
会場の近くにあるため、午後には帰ってこれるかもしれない。
さすがに猪戸先生も、昼間から飲もうとはいわないだろう……と思いたい。
「午後からなら空いてるが、何かあるのか?」
「お掃除をしようと思って」
「白宮の部屋を?」
「何を言っているんですか? 玄蕃先生の部屋に決まってるでしょ」
「ぶぶっ!!」
口の中に入っていたご飯粒が飛んだ。
「先生、お行儀が悪いですよ」
「す、すまん…………じゃなくて、俺の部屋かよ」
「そうです。何か不都合なことでも……? 前にも言いましたが、エッチな本やブルーレイぐらいなら許容範囲内ですよ。まあ、女性物の下着とか出てきたら、ちょっと引きますけど」
「そんなものがあるわけないだろ!」
てか、それでちょっとなのかよ。
俺が逆の立場だったら、通報するわ。
「だいたいなんでお前は、俺にそこまで世話を焼くんだ。一緒に飯を食うのはともかく……」
「わかりませんか? 女の子が男の人に世話をする理由なんて、1つぐらいしかないじゃないですか?」
「え? おま――。それって……」
思わず俺は白宮の方を向いてしまった。
いつもながらも可愛いさを通り越して美しい。
薄い色素の髪に、ほぼブラウンに近い大きな瞳。
健康的に血の通った肌は白く、薄い唇はいかにも柔らかそうに見える。
どこからどう見ても、完璧に整った容姿。
天使、という比喩がピッタリな美少女は、口元を緩めた。
「ふふ……。玄蕃先生、何を赤くなってるんですか?」
「いや、これは――――」
「冗談ですよ。玄蕃先生にはよくしてもらってるから、恩返しをしたいだけです」
「は? よくしてもらっているのは、俺の方だろ。こうやってタダ飯を食ってるんだから」
「ご飯を一緒に食べてくださいといったのは、私の方です。私ばかり、得するのはバランスが悪いですから。だから――」
そう言って、白宮は俺の前で掃除道具を掲げてみせた。
△ ▼ △ ▼ △ ▼
予想通り、サッカー部の引率が終わり、俺は二色ノ荘に帰ってきた。
第1試合の開始が、8時からだったので、出発は早朝だ。
おかげで瞼が重い。
少し仮眠を取ろうと、部屋でごろりと転がった直後、ノック音が聞こえた。
宗教の勧誘か。
新聞の勧誘か。
ともかく眠たくてしょうがない。
居留守を使おうと俺は、掛け布団をひっかぶる。
だが、ノックの主はなかなか引き下がらない。
どうやら手強い相手らしい。
こんこん……。
根負けした。
適当にあしらって帰そうと、俺は部屋着のまま廊下を横切る。
鉄の扉は相変わらず魔女の欠伸みたい音を立てて、開いた。
「うおっ!」
自然と腰を引いた。
目の前に立っていたのは、頭を三角巾で巻いた女性だった。
胸の前にはエプロン、手にはゴム手袋。
足には長靴まで装着している。
周りには、拭き掃除用のバケツと雑巾、何故か高圧洗浄機まで用意されていた。
「こんにちは、玄蕃先生」
「白宮!」
また俺は驚く。
恰好はどう見ても、清掃係のおばちゃんなのに、白宮の声が聞こえてきたからだ。
小さな顔に対して、やたら大きなマスクを付けていたため、声を聞くまでわからなかった。
「忘れたんですか? お掃除するっていいましたよね」
「あ――――」
すっかり忘れてた。
「すまん」
「まあ、いいです。とにかく入りますね」
掃除機とバケツを従え、掃除のおばちゃん――もとい白宮このりは、俺の部屋に入っていく。
それは、魔王城にこれから挑む勇者のように勇ましかった。
「相変わらずですね」
白宮はジト目で俺の部屋のキッチンを見つめた。
1度白宮が訪れてから、特に変わったところはない。
そもそも相変わらず俺の方は忙しい毎日を謳歌しており、物を動かす時間すらなかった。
「テーブルの上は片付いているようですけど」
「前みたいに押しかけられたらかなわないからな」
「良い心がけです」
白宮は満足げに鼻を鳴らした。
「奥はどうなってるんですか?」
「ダメダメ!」
俺は先回りして、白宮を通せんぼする。
この先は俺の寝室だ。
つまり、完全なプライベート空間である。
さすがに白宮を入れることはできない。
「奥は俺がやるから。白宮はキッチンをやってくれ」
「3度目になりますけど、たとえエッチなものがあっても、私は引きませんよ。キャラ物の抱き枕ぐらいなら許容範囲内です」
「そ、そういうのはいいのかよ……じゃない! この部屋は俺の仕事部屋でもあるんだ。生徒に見せられない資料とかあるんだよ」
「ふーん」
「頼む。勘弁してくれ」
俺は手を合わせて、頭を垂れた。
はあ、俺は教え子に何を頭を下げているのだろうか。
これではどっちが教師で、生徒かわからない。
「そこまで言うなら、仕方ないですね」
「恩に切るよ」
「じゃあ、私はキッチン周りをやりますから、先生は奥の部屋をお願いします」
白宮は袖をまくる。
やる気を漲らせ、早速取りかかった。
俺も白宮に掃除のコツを聞きながら、作業を始める。
「まずは余計なものは捨てましょう」
「断捨離ってヤツか。何か基準はあるのか?」
「今、この時点で目に見えていないものですね。簡単に取り出せない物です」
「簡単に取り出せない物?」
「たとえば、段ボールに入りっぱなしの本や雑誌ですね」
白宮はキッチン脇に積まれた段ボールに目を付ける。
薄く埃を被っていた段ボールの蓋を開けると、漫画本が入っていた。
往年のヒット作全巻が、段ボールに小分けされていた。
「これ、まだ新しいですね」
「ネットで全巻が安くて、衝動買いを」
「いつ買ったんですか?」
「ここに住むようになってからすぐかな?」
「読みましたか?」
「読んでない。休みの日にまとめて――」
「捨てましょう」
「え゛?? 待て待て。それは往年のヒット作で、俺の子どもの頃……」
「思い出はあるようですが、こういうのって意外と順位が低いんですよ。本当に思い出があるなら、買ってすぐ読むはずです」
「た、確かに……」
「大切にしてるというなら、本棚に並べるなりするでしょ? 買って、送られてきた段ボールのまま放置するとか論外です」
ぐ、ぐぅの音もでない、とはこのことだ。
「だ、だがな、白宮。それはちょっと高くてだな、諭吉さんが2枚……」
「なら、フリマアプリで売ればいいんですよ」
「いや、そういうのめんどくさいだろう」
「今、出品しました」
「早ッ!」
「今、売れました」
「超早ッ!!」
「2万で売れましたから、良かったですね。ちゃんとお金は戻ってきますよ」
とまあ、こんな感じで鉄血宰相ビスマルクもびっくりの無慈悲なお掃除が始まった。
「なんですか、この空気入れは?」
「それはバランスボールを膨らます時の……」
「バランスボールは?」
「……………………どこだっけ?」
「はい。排除。ついでにバランスボールも見つけて、捨てましょう」
「いや、ちょっと待て。俺の健康をだな」
「そんなものを買わなくても、身体は鍛えられますよ。それで、こっちの服は?」
「通販で買ったんだが、サイズが小さくて……」
「返品しましょうよ」
「いや、もうちょっと痩せれば……。だから、そのバランスボールをだな」
「排除」
「無慈悲!!」
「この作りかけの模型みたいなのは?」
「ああ。それな。創刊は500円で安かったんだが」
「排除」
「ひどい!」
「え? 土? なんでここに?」
「うわあああ! それは友達にもらった甲子園の――――」
「外に撒きましょう」
「ぎゃああああああああ!!」
こうして掃除は進んだ。
そして物はなくなった。
「スッキリしました」
白宮は満足げに額の汗を拭った。
物が散乱し、テーブルに続く動線以外は足の踏み場もなかった床は、新居のように輝き、水垢が付いていたシンクは眩いほど銀色に光っている。
お皿はきちんと1枚1枚戸棚に並べられ、窓枠についたちょっとした埃まで取り払われ、完璧に水拭きされていた。
「おお……」
俺は思わず歓声を上げてしまう。
自分の部屋ではないようだ。
光の世界に眩みそうになる。
かくして闇の世界は、女勇者白宮このりによって救われたのである。
俺は意地悪な継母みたいに、窓枠を指先で擦り揚げていると、何やら白宮が1冊のノートを開いているのを見た。
「白宮、お前なにを見てるんだ? げっ! お前、それ」
それは俺が昔進学塾で付けていたノートだ。
生徒の苦手科目や得意科目の点数、ちょっとした癖や性格を纏めたものだった。
俺は慌てて取り上げる。
「こらこら……。勝手に見るなよ。一応、個人情報を入ってるんだから。しかし、まだこんなノート残ってたのか?」
パラパラ、と捲る。
懐かしいなあ。
こうして見ると、進学塾で担当していた生徒の顔が浮かぶ。
大学の学費と一人暮らしの資金のために、今年の3月まで俺は、進学塾に勤めていたが、思えばまだ3ヶ月前ぐらいのことだ。
どこか遠い昔のことのように思えたが、このノートを見ると、つい昨日のことのように受験に苦しんでいた生徒のことを思い出す。
「玄蕃先生って、進学塾に勤めていたんですか?」
その声は、どこか空々しく、でも強い感情が込められているような気がしたが、その時の俺は特に気にすることもなく、普段通り白宮の質問に答えていた。
「ああ。学生のアルバイトでな」
「苦労しました?」
「それなりに、な……。でも、受験生見てるとそういうことを言えなかったな。逆になんとかしようって思ってた。お前もわかるだろうが、受験生っていっても様々だ。成績で苦労して、自分が希望する進路に進めない生徒も入れば、成績は良くても家庭の事情で進路に進めない生徒もいる。前者は成績を上げてやればいいだけだが、後者は俺たち教師にはどうしようもない。……歯がゆかったよ」
「そういう生徒にはどう接していたんですか?」
「進学塾ってのは、学校じゃない。企業だ。親御さんの意向は絶対ってところがある。お金を払ってるのは、保護者なんだからな。だから、俺たちができることは少ない」
「たとえば……」
「生徒の背中を押してやること、かな」
「――――ッ!」
「どうした、白宮?」
「いえ。続けてください」
「そうだな。お前が間違っていないってことを教えてやることだな」
「もし、間違ってたら?」
「親は1度切りの人生だからという。でも、違う。間違っていいんだ。人生は1度きりでも、チャンスは決して1度きりなんかじゃない。俺はそう思う」
「玄蕃先生、あの笹――――」
白宮は何か堰を切るように言いかけて、すぐに堰を閉ざした。
ギュッと唇を噛み、胸を押さえる。
今まで見たことないほど、白宮このりは苦しんでいるように見えた。
「どうした、白宮?」
「いえ……。何でもないです」
「……このノートも捨てるか。持ってても仕方ないし。そうだろ、白宮」
「ダメです」
「へ?」
「その……。それは先生にとって大事なものだと思うので。思い出が詰まった、大事な」
白宮の声がどんどん小さくなっていく。
先ほどまで勇敢だったお掃除勇者の姿は、すっかり影を潜めていた。
「そっか……。じゃあ、残しておくかな」
俺はそのノートを戸棚の奥にそっとしまう。
ふと外を見ると、すでに陽が暮れ、真っ暗になっていた。
随分長い間、掃除をしていたらしい。
すると、俺の腹の虫が「ぐぅ」と抗議の声を上げる。
「腹減ったな、白宮」
そう言うと、白宮はいつもの表情に戻り、微笑んだ。
「すぐ作りますね」
掃除道具を持って、パタパタと音を鳴らして、外へと出て行く。
その時の白宮の足音は、掃除の疲れなど感じさせず、とても軽快だった。
△ ▼ △ ▼ △ ▼
私は自分の部屋の扉を閉めると、また蹲った。
玄蕃先生の部屋に行くと、毎回こうしているような気がする。
でも、今日は特別だった。
玄蕃先生は玄蕃先生のままだった。
本当に教師になっても、生徒想いであることは変わらない。
それがたまらなく嬉しくて、私は泣いた。
あと5分……。
いや、後1分いたらきっと先生の部屋で泣いていたかもしれない。
それほど、嬉しかった。
またあの時のように玄蕃先生が声をかけてくれたようで。
今の私は間違っていない。そう声をかけてくれたようで……。
嬉しくてたまらなかった。