6限目 そしてミイラ取りはミイラになる
教師には土日出勤というものが存在する。
そうだ。部活動だ。
毎週土日の午後は、練習を見ることになる。
特に俺が副顧問をしているサッカー部は地方大会の真っ最中だ。
会場への移動時間、生徒のアップ時間と試合をしている時間、時間があれば学校でミーティングを行うこともあり、丸1日潰れることなんてざらにある。
そして、今日が地方大会1回戦だった。
ちなみに俺にサッカー経験はない。
そもそもスポーツ全般が得意じゃないし、中高大学と文化系のクラブだった。
そんな俺が何故、副顧問をやっているかというと、単に副顧問がいないというだけであった。
サッカー部の顧問をしている猪戸未来先生は20代後半の女性体育教員だ。
普段は気さくで話しやすい体育教員なのだが、1度部活となれば、その纏う雰囲気は、定年間近の名監督のように落ち着いている。
今も試合の戦況を腕を組んだままじっと見つめていた。
猪戸先生は決して根性論を振りかざさない。
だが、理路整然と生徒の悪いプレイを指摘し、時に声のトーンを上げて圧迫する。
横で見ている身からしても、怒鳴り散らしてくる方がよっぽどマシだと思うほどの圧力だ。
一方でサッカーが好きなのも伝わってくる。
サッカーの話をし出すと、止まらなくなるのだ。
聞けば、日本代表候補にまでなったそうだが、大学の時に怪我で引退し、教員を目指すことにしたらしい。
試合は前半の始めに1点を先制される苦しい展開になった。
初戦の硬さがもろに出た形だ。
そこからスコアは動かなかったが、後半ロスタイム間際に立て続けに、2点を入れる大逆転劇で初戦を勝利で飾った。
ゴールが決まった時は、オフサイドの「お」の字も知らない俺も、思わず立ち上がって生徒たちと一緒に喜んだが、来週も試合と考えると、若干憂鬱ではあった。
幸いにも本日の最終試合だったため、ミーティングはなし。
現地解散ということになったのだが、俺は猪戸先生に捕まった。
「玄蕃先生、1杯どうですか?」
――来たッ!
俺は思わず心で叫んだ。
猪戸先生の酒豪ぶりは、学校では有名だ。
男性体育教員が束になっても勝てず、二色乃高校の酒呑童子といわれている。
「先生、俺は飲めないですよ」
「大丈夫。私が飲みたいだけだから」
猪戸先生は試合の興奮冷めやらぬといった様子で、杯を呷るような仕草をする。
時間は17時前だ。
いくらなんでも2時間ぐらいで終わるだろう。
そう高を括っていた俺だったが、完全に当てが外れた。
よほど今日の勝利が嬉しかったのだろう。
美酒に酔いしれた我らが酒呑童子殿は、まさに酒を浴びた。
「熱い……」
と言って、ジャージの前を空ける。
よっぽど熱かったのだろう。Tシャツが汗に濡れていた。
おかげで、薄らと下着が見えている。
俺は目のやり場に困りながら、よく浸かったたくわんをボリボリと食っていた。
「ん? 玄蕃ちゃん? 食べてるぅ?」
俺は下戸だから、飲み会では食う方に徹している。
だが、今日は食の方も控えていた。
サラダか、漬け物を食べながら、お腹を誤魔化す。
ちなみに猪戸先生は逆でご飯はあまり食べない。
見ての通り、もっぱら酒だ。
「帰ったら、ご飯があるので」
「ん? あれ? 玄蕃ちゃん、一人暮らしじゃなかったか?」
酔っぱらってるのに、何故かこういう所だけは鋭い。
「帰ってくるのが遅くなるから、あらかじめ作っておいたんですよ」
「ホントぉ? 実は彼女と同棲でもしてるんじゃないの?」
――彼女……!
ふと脳裏をよぎったのは、白宮このりの顔だった。
待て待て。
何故、白宮の顔が浮かぶ。
あれは、教え子だぞ。
「あれ? 黙ちゃった? もしかして、図星?」
「そそそそそそそんなことあるわけないじゃないですか!」
「動揺しているところが、怪しいにゃあ」
何故、そこで語尾に「にゃあ」と付けた!
完全に酔ってるな、この人。
「くぅぅううううう! 悔しい! 玄蕃ちゃんに恋人がいるなんて! 裏切り者! おたんこなす!!」
「違いますから……」
「悔しい! 今日はとことん飲むわ。玄蕃ちゃんもなんか頼んで。今日はあたしの奢りだから。ね! 大将、鳥の唐揚げ1つね」
猪戸先生は勝手に注文する。
やがて竜田揚げ風の唐揚げが、俺の前に運ばれてきた。
からっと揚がった黄金色の衣。
揚げたての唐揚げは、いまだじゅうじゅうと音を立て、白い油紙の上に鎮座していた。
ごくり……。
俺は思わず息を呑んだ。
△ ▼ △ ▼ △ ▼
気が付けば、店を出た時には22時だった。
猪戸先生は今日の試合がよっぽど嬉しかったらしい。
21時には酔いつぶれ、そして寝てしまった。
その後、空白の1時間何をしていたかというと、俺は応援を呼んでいた。
猪戸先生と親しい女性教員に電話し、猪戸先生を送ってもらうためだ。
男の俺が送ると角が立つ。
変な噂を立たれても、困るからな。
1時間後、ようやく応援が到着。
猪戸先生は無事、タクシーで回収されていった。
今から二色ノ荘に帰ると、23時だ。
「さすがに、今日は無理だな」
白宮と一緒にご飯を食べる約束。
時間を指定したわけでもないし、毎日来るとも俺は言っていない。
それにこの時間だ。
育ちのいい白宮のことだから、もう寝ている頃だろう。
「まあ、一応連絡だけ入れておくか」
酒の席では何度か思ったのだが、酔った猪戸先生の目から逃れることは難しく、猪戸先生が酔いつぶれてからは、それどころではなかった。
携帯を取りだし、画面にアドレス帳を開く。
そこで俺はある重大なことに気付いた。
「俺……。白宮の携帯の番号知らないんだった」
△ ▼ △ ▼ △ ▼
いろんな意味で重い重い足を引きずり、俺はようやく二色ノ荘に生還する。
アパートの周りは静まり返っていた。
遠くで犬の鳴き声がする。
二色ノ荘の前の道路を車が横切り、排気音だけを残して去っていった。
静かな夜だ。
俺は自分の部屋の扉のノブを捻る前に、ちらりと白宮の部屋を見る。
やはり静かなものだった。
もう寝てしまったのだろうか。
――仕方ないよな。
俺はお腹をさすりながら、部屋の中に入る。
照明をつけると、いまだ家事の痕跡が見えない自分の部屋を露わになった。
当然、白宮の料理などない。
久々にウィンダーをインするべく、冷蔵庫を開ける。
その時、扉をノックする音が聞こえた。
――まさか……。
慌てて扉を開ける。
「白宮……」
「こんばんは、玄蕃先生。今日も一緒にご飯食べましょう」
タッパーに入ったおかずを俺に掲げてみせた。
ふわり……。
食べ物の匂いが鼻を衝く。
瞬間、俺は何か言うべき事をすべて忘れてしまった。
「お邪魔しますね」
白宮は俺の隙を突く。
するりと俺の脇に潜り込むと、俺の部屋の中へと入っていった。
「あ、ちょっと待て! 今、部屋の中は――」
「うふふふ……。なんですか? 彼女さんでも連れ込んだのですか。だとしたら、私が出てきて、大修羅場ですね。この泥棒猫~、とか?」
「そんな訳ないだろ」
「じゃあ、エッチな本とか? それとも動画かな? 定番ですけど、先生の趣味嗜好を知るのも悪くない」
「お前、何言ってんだ! てか、楽しんでるだろう!」
白宮は短い廊下をあっという間に駆け抜けていく。
そしてキッチンへと踏み込み、立ち止まった。
いや、立ち止まらざる得なかっただろう。
なんとも男の1人暮らし臭がする部屋だったからだ。
「思ったより、片づいていますね」
「お前、これを見てそう言えるのか」
凄いな。
感心するわ。
「いえ。もっと弁当の空き箱とか、カップ麺が汁の入ったまま放置されていたりとか、そこに蛆が湧いていたりとか」
「どんな部屋を想像してたんだよ」
とはいえ、笑えない想像力だ。
つい昨日までそうだったとは言えない。
多少片づけておいて正解だった。
「まあ、いいでしょう。掃除は今度にして」
「お前、俺の部屋を掃除するつもりか」
「今は、食べる場所の確保ですね」
「だったら、白宮の部屋で食べればいいんじゃないか」
「たまには先生の部屋で食べるのもいいでしょ?」
たまにはって……。
まだ俺たち1回しか食べてないぞ。
そう言って、白宮はタッパーを脇に置く。
部屋着にしているジーンズのパンツのポケットから白い袋を取り出すと、バッと広げた。
手早くテーブルに置かれた空き缶やペットボトルを入れていく。
テーブルの上に何もなくなると、今度はテーブルに放置された布巾を絞って、丁寧に埃や汚れを拭き取った。
あっという間に、部屋の一区画が綺麗になる。
幸い一人暮らしの俺の部屋には、椅子が2脚存在する。
来客用と思って買ったのだが、栄えある1人目が教え子になるとは思わなかった。
「私のために用意してくれたんですか?」
「そんなわけないだろ」
「残念……。では、食べましょうか」
白宮はタッパーをテーブルの上に載せた。
タッパーが開かれる。
キャベツと油揚げの和え物。
カボチャの煮物。
さらには雑穀米だ。
一際目を引いたのが、鳥の唐揚げだった。
「おおおおおお!」
俺は思わず目を輝かせる。
自然と涎が溢れてきた。
ぐぅぅぅううう……。
大きな腹音が俺の部屋に響いた。
ステンレスボトルから家にあった椀に、ネギと豆腐の味噌汁を注いでいた白宮の手が止まる。キョトンと目を丸くした顔を見て、俺は「あ、可愛い」などと不覚にも思ってしまった。
「もしかして、この時間まで何も食べてなかったんですか?」
「あ、ああ……。ま、まあな」
「ど、どうして?」
「ん? そりゃあ決まってるだろ?」
白宮と一緒に食べるために決まってるじゃないか……。
「え?」
「あ! 白宮、味噌汁」
「え? あ? キャッ!」
ボトルから注いだ味噌汁が、椀から溢れていた。
「大丈夫か。火傷してないか?」
「た、多分……」
「ちょっと待ってろ。確か氷ぐらいは?」
俺は冷凍庫を引く。
買ってから、ずっと製氷器にかけっぱなしの氷を解放すると、小袋に詰めて、白宮に渡した。
「これで冷やしてろ」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。そう大事には」
白宮はテーブルにこぼれた味噌汁を拭う。
テーブルから垂れて、すでに床にも溜まりができていた。
「俺がやっとくから。お前、手を冷やしてろ」
「は、はい」
俺は布巾を取ると、掃除を始める。
床にこぼれた味噌汁を拭いながら、白宮に言わなければならないことを話した。
「白宮、今日は遅くなってすまなかったな」
「……別に気にしてませんよ。強制というわけじゃないですし、玄蕃先生には玄蕃先生の事情もあるんですから。だから、無理することはないですよ」
白宮はあっさりと許してくれた。
ひとまず俺はホッと胸を撫で下ろす。
「ま、それは俺も思ったんだが……」
「だが?」
「お前の作るご飯がおいしくて、正直外で食べてくる気がしないんだ」
きゅぅう……。
ん? なんだ? 今の擬音は?
振り返ると、何故か白宮はテーブルに向かって顔を伏せていた。
「どうした? 白宮?」
「なななななななんでもありません」
「いや、その割には顔が――」
「なんでもありませんから!!」
白宮は頑なに自分の顔を隠すのだった。