3限目 どうやら俺の胃袋は……
それから俺は白宮このりの話を聞き、部屋を出て、自分の部屋に戻ると、寝た。
知らぬとはいえ教え子の部屋に押しかけ、半裸まで拝み、ご飯をご馳走になったのに、なんと図太い神経をしているのだろうと思われるかもしれないが、ベッドに横になった瞬間、すとんと俺の意識は落ちた。
それは連日の激務と、たぶん白宮が作ってくれたご飯のせいだろう。
八分目に近いところでキープされた満足感が、俺を眠りへと誘ったらしい。
朝も爽快――というわけではなかった。
昨日の夢のような出来事の後で、仕事が待っているのだ。
さすがにげんなりする。
それでも俺の足は学校へ向いた。
新任教師に課せられた朝の職員室掃除という、明らかにパワハラといえる役目を無難にこなし、重い頭で朝の職員会議に出席し、授業の組み立てについて先輩教師から叱責を受けた。
いつもの日常である。
だが、ひどく現実感がない。
それは間違いなく昨日の出来事があったからだろう。
1つ違和感があったことといえば、やたらと俺の視界に白宮が入ってくることだ。
俺が意識しているのか。
それとも、白宮が俺の視界に入るようわざとポジショニングをしているのかわからない。
俺の視界に映る彼女は、いつも生徒に囲まれ、高校一年生とは思えない雅な笑みを周囲に振りまいている。
高校生活を謳歌している――そんな気がした。
気がつけば、職員室には俺1人だった。
時間は21時を回ろうとしている。
戸締まりをし、守衛に鍵を渡して、俺は学校を後にした。
俺が住むアパートまで徒歩で15分である。
何故か、心臓が高鳴っているのを感じた。
ふとまた気付けば、俺は自分の部屋のドアノブを握っていた。
重い鉄の扉を開く。
建て付けが悪いのか、それとも年季のせいか。
「おかえり」とばかりに、ドアは魔女のような悲鳴を上げる。
荷物を玄関先に置き、靴を脱ごうとしたところで手を止まった。
その手を頭にのせて、ガリガリと頭を掻く。
「ああ。もう! 行くか!!」
俺は部屋を飛び出す。
鍵をかけ、向かったのは隣の部屋である。
ノックをすると、「はーい」と淑やかな声が返ってきた。
重い扉を、体重を使って開けたのは、部屋着姿の白宮このりだ。
「あら、玄蕃先生。本当に来てくれたんですね」
「お前が来いって言ったんだろ」
白宮は蠱惑的に微笑む。
俺は首の後ろを押さえながら、抗弁した。
「私の料理の味が忘れられなかったんですか?」
「ん……。ま、まあ……」
俺は曖昧に返事するのが、やっとだった。
「それとも、私が忘れられなかったのでしょうか?」
「変な風に言い直すな!」
「うふふ……。さあ、どうぞ。ご飯はもうできてますから」
「……………………お邪魔します」
はあ……。
もう白宮のペースだ。
俺は教師である自分を戒めるように頭を軽く小突いた。
「座っていてください。今、お味噌汁を温め直しますから」
白宮は元栓を捻り、ガスコンロに火を入れた。
味噌汁が入った鍋を軽くかき回す。
冷蔵庫へと向かうと、ポテトサラダを盛りつけ、まず一皿。
さらに温め直したお味噌汁が入った椀を置き、最後に大皿をテーブルに置く。
そしてラップに包んでいたそれを解いた。
「おお……」
思わず俺は歓声を上げてしまった。
豚の生姜焼きである。
しかも、豚の薄切りに豪快に生姜だれをかけたものではない。
スライスした玉葱が絡んだ、柔らかくしっとりとした生姜焼きである。
彩りも鮮やかだ。
飴色に染まった生姜焼き。
千切りにされたキャベツの緑。
くし切りの赤いトマト。
3つが1つの大皿に収まっているだけで、テーブルに色を感じる。
――おいしそうだ。
ごくりと息を飲む。
同時に「ぐぅ」とお腹がはっきりと俺の思いに同調した。
すると、クツクツと白宮は肩を震わせる。
「笑うなよ、白宮。……生理現象だ」
「すいません。面白くて……」
「にゃろ……」
「さ、さあ……食べましょうか」
と、ピンクのサマーセーターに、ジーンズのパンツという意外とラフな恰好の白宮が、対面の椅子に着席する。
「食べないで待っていたのか」
「当たり前です。そういう約束ですから」
「ま、まあ、それはそうなんだが……」
「じゃあ……」
白宮は手を合わせる。
俺もそれに倣った。
「「いただきます」」
6畳の小さなダイニングキッチンに、俺と白宮の声が響く。
まず俺が箸を伸ばしたのは生姜焼きだった。
テーブルに燦然と輝く飴色の魔力に、俺はすっかり魅了されていたのだ。
箸で持ち上げると、意外とずっしりと来る。
そのまま口の中に入れた。
――うまい。
柔らかくしっとりとした肉と玉葱。
そこに生姜とニンニクの味がツンと鼻腔を抜けていく。
おそらくすり下ろした玉葱も入れて、肉にしみこませたのだろう。
柔らかくなった肉は口の中で溶け、わずかに芯の残る玉葱が鋭い食感を感じさせてくれる。
俺はさらに生姜焼きに箸を伸ばした。
今度は、白い湯気をくねらせた白米の上に置く。
下の白米から掬い上げるように箸で持ち上げると、一気に口の中へと掻き込んだ。
――これだ、これ。
生姜ダレに白米が絡んでいく。
噛めば噛むほど、白米の甘みが口内に広がり、生姜焼きの味が増していくように感じた。
シャキシャキの千切りのキャベツ。
冷たいトマトも、初夏の気候にピッタリだ。
安定のポテトサラダも、甘みを抑えていて、生姜焼きの副菜としての役割を全うしていた。
ずずっ……。
最後に味噌汁を飲み干し、俺はフィニッシュした。
「おいしかったですか、玄蕃先生」
気がつけば、対面で白宮もまた箸を置いていた。
彼女の前の皿も、空になっている。
どうやら俺のペースに合わせて、食べていたらしい。
そもそも俺は早食いではない。
ご飯はゆっくり味わって食べるように子どもの頃から教育されてきたので、食べるのが遅い。給食が食べ終わるのも、いつもクラスではビリだった。
だからなのかもしれないが、食材の味には少し敏感なのだ。
「ああ。今日もおいしかった。悪いな。作ってもらったうえに、なんか食べてばっかりで」
「いいですよ。夢中で自分のご飯を食べてくれるのは、料理人冥利につきますから」
「そうか。でも、本当においしかった。実は俺は、生姜焼きはしっとりと柔らかい方が好きでな」
「――――」
「ん? 何かいったか、今」
「いえ。何も……」
白宮は後ろに括ったままの髪を揺らして、首を振った。
おかしいな。
今「知ってます」って聞こえたような気が……。
白宮は食べ終わった食器を片付け始める。
「待て待て。片付けは俺がやる。せめて、それぐらいはさせろ」
俺は白宮が持ち上げようとしていた食器を、横から奪う。
そのまま流し台へと向かい、食器を洗い始めた。
「じゃあ、お言葉に甘えます」
「ああ……。白宮は休憩していてくれ」
食器を洗うなんて久しぶりだ。
そろそろ1ヶ月以上、流し台に放置された皿を救出せねばなるまい。
手を泡まみれにしながら、俺はそんなことを考えていた。
「玄蕃先生……」
食器を洗う俺の背中越しに、白宮は声をかけてきた。
「明日もよろしくお願いしますね」
「……わかってる。約束だからな」
「はい……」
かちゃかちゃと慣れない食器洗いに多少苦戦しながら、俺は昨日のことを思い出していた。
△ ▼ △ ▼ △ ▼
「私の話を聞いてくれませんか?」
そう切り出した白宮は、こんこんと話を始めた。
白宮はとある事情で親元を離れ、1人暮らしを始めることにした。
ちなみに白宮家は、代々著名な料理人を輩出する名家なのだという。
とある事情とやらも、それが関係していると俺は考えたが、それ以上立ち入ったことは聞かなかった。
家ではお嬢さまと呼ばれるほど、何不自由ない暮らしをしていたそうなのだが、白宮は思いの外すぐに1人暮らしに順応した。
初めての1人暮らしは、順風満帆かと思われたのだが……。
「お恥ずかしい話なのですが……。意外と自分が寂しがり屋なんだと気付きまして」
「でも、お前。学校にいっぱい友達がいるだろう。部屋に連れてくればいいじゃないか」
「学校のみなさんは、私が大きなお屋敷に住んでいると思っているようでして。誘っても、気後れするのでなかなか……。それに、生徒のみなさんの夢を壊すのもちょっと――」
「俺ならいいのかよ」
「玄蕃先生はお隣さんじゃないですか」
「今日まで知らなかったけどな」
俺は肩を竦めた。
「話ってのは、それだけか?」
「いえ。ここからが本題です」
すると、白宮は自分のお腹を押さえた。
「実は寂しさからか、ここのところずっと食欲がなくて」
「そうは見えなかったけどな」
白宮の前にある空になった皿を、俺は見つめた。
「おかげで、2ヶ月で10キロも体重が落ちてしまって」
「10キロ!!」
俺は反射的に身を乗り出していた。
いや、それはまずい。
医者に行った方が良いレベルだ。
「あまりこういうことは言いたくないけどな。教師として言わせてもらうと、白宮――お前、実家に帰った方がいいぞ」
「…………それは、イヤです」
白宮は目を背けた。
ここまで明確に言葉にも表情にも、嫌悪感をむき出しにした白宮を、俺は初めて見た。
よほどの事があったのだろう。
ふと児相のことが頭によぎったが、まだ事を荒立てる段階にないと判断した。
未成年がアパートを借りているのだ。
少なくとも保護者は、白宮がここで暮らしていることは、把握しているはずである。
俺は一旦気持ちを落ち着けようと、椅子に座り直した。
「わかった。で? 俺に話を聞いてほしいというからには、何か俺にしてほしいことがあるんだろ?」
「はい。どうやら、私。人が一緒だと、ご飯が食べられるみたいです」
「そのようだな」
俺はもう1度、白宮の前の空皿に視線を向けた。
「だから、先生――」
毎晩、うちにご飯を食べに来てくれませんか?
白宮は花が咲いたように笑顔のまま言い放った。
一方、俺は石像のように固まる。
「ま、毎晩……」
「はい。毎晩です。悪くないと思いますが」
「いや、だって俺とお前は」
「教師と教え子ですよね」
「嬉しそうにいうなよ。わかってるなら――」
「でもお隣さん同士です。お隣同士、助け合って生きていきませんか?」
「助け合うって」
「失礼ですが、玄蕃先生は食生活で困っていたりしませんか?」
「うっ――」
「毎晩、コンビニ弁当とか。ウィンダーをキメるだけの食生活になってませんか?」
「高校生が“キメる”とかいうなよ……」
「玄蕃先生は私に栄養満点のご飯を作ってもらう。私は玄蕃先生と一緒にご飯を食べる。これって立派な共生関係だと思いますが、いかがでしょうか?」
白宮は畳みかけてくる。
情けないことに、俺はJKにやられっぱなしだ。
ぐうの音も出ない。
口では否定しても、心の奥底ではその共生生活を望んでいる自分がいる。
そもそも眼に焼き付いて離れないのだ。
テーブルに並んだ白宮の料理が……。
「玄蕃先生?」
気がつけば、白宮の顔が目の前にあった。
大きな黒目には、戸惑いの表情を浮かべた俺が、ばっちり映り込んでいる。
鼻先に香る匂いは、酸っぱいコールスローの匂いではない。
フローラルなシャンプーの香りだった。
甘ったるい匂いに、俺の理性は陥落寸前だ。
それでも俺は――。
ぐぅぅ……。
腹の音が鳴った。
むろん俺は驚いたわけだが、たぶんそれは俺の正直な気持ちだったのだろう。
その音を聞いた白宮は頬杖を突いた状態で、鬼の首でも取ったかのように微笑んでいた。
「玄蕃先生のお腹は、随分と食欲旺盛なのですね」と、柔からな曲線を描いた口元から聞こえてきそうだ。
「わかった」
結局、俺は完落ちした。
「だが、勘違いするな。お前がこのまま鬱とか拒食症になって、不登校にでもなれば、後々面倒だと思っただけだ」
「ふーん」
「なんだよ」
「玄蕃先生って、意外とツンデレだったんですね」
「誰がツンデレだ! 23歳新米教師のツンデレなんて、どこに需要があるんだよ」
「さあ……。でも、意外と需要があるかもしれませんよ」
白宮は目を細める。
勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
それでも、俺は反論できない。
一瞬振り上げそうになった手を、自分の腹に置く。
ちょうど8分目に収まった俺の胃は、俺自身をいさめるようにぐるぐると動いていた。
――こいつめ!
どうやら、俺の胃袋は教え子が作る料理に懐柔されたらしい。