20限目 アイアイガサ
「弱ったな……」
俺は恨めしそうに空を見上げた。
真っ暗な空から大量の滴が落ちてくる。
学校のテラスや植え込みに当たると、パタパタという音を立てていた。
日本は遅めの梅雨を迎えていた。
もう1週間以上こんな天気だ。
気温こそ低いが、当然の如く湿度は高く、蒸し暑い。
正直うんざりしていた。
俺は空に向けていた視線を持っていた鞄に落とす。
中身を確認するも、折りたたみ傘の姿はどこにもない。
むろん、この長雨だから俺は折りたたみではなく、大きな傘を家から持ってきていた。が、サッカー部部員の1人の傘を折ってしまったらしい。
サッカーは野外のスポーツだ。
野球などと違って、雨でも試合をするし、練習もする。
その部員は傘なしで帰ると言い出したのだが、大事な試合が週末に控えている以上、少しでもリスクを減らす必要があると、俺は感じた。
つまり、俺の傘を貸したのだ。
俺は部活の練習を見届けた後、例によって職員室で仕事を始め、雨が止むのを待った。
しかし、午後20時になっても止む気配はない。
結局、俺は仕事を切り上げ、今学校の職員専用の玄関に立ち尽くしている。
「仕方ない」
雨の中駆けだした。
校庭を横切り、ともかく転ばないことだけを気を付けて、前に進む。
一旦校門近くの警備員室の前のひさしに入った。
「あーあ……」
俺は濡れたシャツを摘まんだ。
ほんの数十秒なのに、あっという間に俺は濡れ鼠になる。
「これじゃあ、走った意味がないぞ」
どうせ濡れるなら、ゆっくりと雨に打たれるのもいい。
白宮に色男ぶりでも発揮しよう、と俺は考えた。
いよいよ二色ノ荘への帰途につこうとしたその時、雨音に混じってノックが聞こえた。
振り返ると、警備員が室内からガラスを叩いている。
――もしかして、哀れな俺に傘を貸してくれるのでは?
そんな淡い期待をしたが、違った。
警備員はすぐに親指をくいっと外に向ける。
「玄蕃先生、妹さんが待ってるよ」
定年を過ぎたアルバイト警備員は、警備員室の横を指差す。
俺は顔をのぞき込むと、1人の少女が立っていた。
長い髪に、理知的な黒縁の眼鏡。
長袖ロングTシャツに、落ち着いた色のブラウンのワンピース。
露出した白い肌は、暗闇の中でもぼうと光っている。
傘が上を向き、少女が振り返った時、壊れるのではないかと思うほど心臓が跳ね上がった。
「白――」
「お疲れ様です、お兄様」
俺の声を遮って、美しい“妹”は“兄”を労う。
鬱陶しい長雨の中でも、妹――白宮このりの笑顔はいつも通りだった。
「甲斐甲斐しい妹さんじゃないの、玄蕃先生」
警備員がニヤニヤと変装した白宮の方を見ながら笑う。
俺に対しては、「この、この」と肘でつつくような動作をして、からかった。
「お前、もしかして仕事が終わるまで待っていたのか?」
「つい1時間前ぐらいかな。入れてあげたいけど、部外者はちょっとね」
代わりに答えたのは、警備員だ。
「連絡してくれれば……」
というと、白宮はくすりと笑った。
「お兄様をびっくりさせたくて」
今にも天気が止みそうな満開の笑顔で答える。
それは有り難いが、違うだろ。
俺を驚かせたいんじゃなくて、からかいたかったんだろ。
全く……。とんだ偽妹だ。
「よく俺が傘を持っていないとわかったな」
「お兄様のことならなんでもお見通しですわ」
キラリと目を輝かせる。
どういう妹設定だよ。
若干ヤンデレ系が入ってないか。
まあ、いい。
来てしまったなら仕方ない。
生徒も帰ったし。
この雨だ。白宮だと気付く人間はおるまい。
現に、警備員はいまだ彼女が、学校一の美少女が変装した姿を見抜けないでいる。
二色乃高校の生徒とはいえ、変装し、教職員の妹と言い張る不審な少女を見抜けないのは、職務怠慢と言わざる得ないが、致し方ないだろう。
「ありがとう、妹よ。じゃあ……」
俺は手を差し出す。
だが、一向に白宮に向けた手に、彼女が持ってきたであろう代わりの傘が渡されることはなかった。手に持った大きめの傘を両手で握りしめたまま、依然として白宮は満面の笑みを浮かべている。
「妹よ。お兄様の傘は?」
「ごめんね。お兄様、私の傘はこれ1本しかないの」
「――って、なのに俺を迎えに来たのか?」
「十分でしょ、お兄様。この傘は結構大きいの。お相撲さんは無理でも、私たち2人なら十分入ることができるわ」
まさか!
まさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさか!!
俺は身体が泡立つのを感じた。
それって、もしや――――。
「あい……」
「はい。相合い傘ですよ、お兄様」
「熱いねぇ」
警備員がパタパタと団扇を煽ぐ。
何が熱いねぇだ。
勝手に盗み聞きしてるんじゃない。
「こ、こここ断る」
「あれ? どうしてですか、お兄様?」
「照れてんのさ」
警備員、お前ちょっと黙れ。
「そうなんですか、お兄様」
白宮、お前ものっかるな。
明らかにこの状況を楽しんでいる。
白宮の笑顔は崩れない。
まるで天使のようだ。
だが、俺にとっては神界を追われた堕天使のようだった。
「帰ったら、鍋ですよ、お兄様」
な、夏場に鍋!
正気か?
「豚肉とキャベツのミルフィーユ鍋です」
「かかっ。うまそうだねぇ」
だから、警備員!
「最後は柚子を浮かべて、さっぱりとした後味で食べてもらいます。夏に鍋もいいですよ。こういう雨に打たれた日には……」
ぐぅ……。
雨音に混じって、お腹が鳴いた。
誰のものではない。
俺の胃袋だった。
訂正だ。
堕天使じゃなくて、俺の前には正真正銘の悪魔がいた。
△ ▼ △ ▼ △ ▼
「まったく……。お前というヤツは……」
悪態を吐きながらも、玄蕃先生は私から傘を取り上げた。
警備員のおじいさんに礼をいって、私たちは歩き出す。
1本の傘の下で、私たちは寄り添った。
玄蕃先生はさりげなく車道側を歩く。
顔は相変わらず仏頂面だったけど、私に対する気遣いだけは忘れない。
ほんの些細なことだけど、何か守られているようで私は素直に嬉しかった。
「それで? なんで俺が傘を持っていないって知ってたんだ?」
「見ましたから」
「見た?」
「玄蕃先生が、部員に傘を貸すところ。ちょうどその時、私も下校する間際だったので。だから、たまたまです」
「そうか。――で、相合い傘は?」
「それはさっきも言ったじゃないですか。傘が1本しかなくって」
「普通の傘は1本でも、お前なら折りたたみの1本ぐらいは持ってるだろ?」
「ああ、そういえば……。失念していました」
ニコリと微笑む。
「まったく……」
「そんなに相合い傘がイヤなんですか?」
「教え子と教師が、1つ傘の下にいることが問題なんだ」
「すでに私たちは1つ屋根の下で、ご飯を食べているじゃないですか? 屋根も傘も一緒です」
「むぅ……。耐久性が違う」
玄蕃先生は無理矢理抗弁する。
ついには口を尖らせてしまった。
子どもみたいに拗ねた顔も可愛い。
寝顔も悪くなかったけど……。
――それにしても……。
こうして並んで立ってみるとわかる。
玄蕃先生って意外と背が高い。
私も背が高い方ではないけど、ちょうど頭を一個分ぐらい玄蕃先生の方が大きい。
思えば、こんなに接近したことがあっただろうか。
スマホを買いに行った時も、これほど近づかなかった。
今にも肩が触れそうになる。
触れたい……。
そう思うのに、躊躇してしまう自分がいる。
――いつもそうなのだ。
何か今1歩のところで踏み出せない。
私を才女だという人がいるけど、違う。
私は臆病者だ。
先生が隣に住んでいるのに、2ヶ月も声をかけられなかった。
進路のことにしてもそうだ。
自分が親に言えばいいだけだったんだ。
今もこうして側にいても、玄蕃先生の手に触れることすらできないでいる。
私はぼんやりと顔を上げた。
傘を持った玄蕃先生の手が、糸で吊された人参みたいに下がっている。
すぐ目の前にあるのに、私は手を出せないでいた。
「白宮!!」
不意に玄蕃先生の悲鳴が聞こえた。
視界が真っ白に染まる。
光だ。
強い輝きに目が一瞬眩む。
世界が遠く感じた。
何も音がせず、ただパタパタという雨音がだけが耳朶に残る。
瞬間、ふっと人の匂いが、自分のものと混じる。
私は力強く抱きしめられていた。
ぶろろろろろろ……。
排気音を残し、車が立ち去っていった。
「危ないなあ。前を見て、運転してんのかよ」
頭の上で声が聞こえた。
すぐに玄蕃先生だとわかる。
でも、理解したのはそれぐらいだ。
理解できないのは、今私の前に玄蕃先生の胸があるということだった。
汗とかすかな制汗剤の匂いがする。
香水のような甘い香りではない。
男の人の匂いだった。
そして、今玄蕃先生の手は私の背中と肩にある。
密着していた。偶然のこととはいえ、抱きしめられたのだから当然だ。
「大丈夫か、白宮?」
教え子を車から守った勇者は、心配そうに私の方へ顔を向ける。
それだけ見ると、頼りげのない勇者だ。
けれど、世界の誰よりも頼もしかった。
その時の玄蕃先生は私の勇者で、私はお姫様といったところだろう。
ひどく現実感のない距離感に呆然とする。
そして夢はすぐに覚めた。
「「あっ」」
声が重なる。
同時に我に返り、そして同時に目をそらした。
「す、すまん。つ、つい――」
「いいい、いえ。大丈夫です。気にしてませんから」
「や、やっぱ……。お前が傘を使え。俺は濡れて帰るから」
私に向かって傘を突き出す。
吊り下がった玄蕃先生の手を見ながら、私は首を振った。
「それはダメですよ」
私、1人で使ったら、今度は誰が私を助けてくれるんですか?
キュッと玄蕃先生の顔が赤くなるのがわかった。
からかっているわけでも、先生の反応を見て楽しんでいるわけでもない。
本当に、私は心の底からそう思っていたのだ。
玄蕃先生は、世界でたった1人の私の勇者なのだから。
「わかったよ」
玄蕃先生は矛を収めるように手を引いた。
そして私たちは並んで歩く。
もう1度ぶら下がった玄蕃先生の手を見つめた。
――今、これでいい。……これがいい。
この距離感がいい。
私を大事にしてくれている。
それがわかっているだけで、私は今十分幸せだった。
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