失くした記憶
暗闇に包まれた街の夜。
霧が立ち込めていて人影もなく、辺りは薄汚れた空気を纏っていた。
高々と聳え立つ煙突からは、絶え間なく煙が吐き出されている。
月明かりさえも遮りそうだった。
小高い丘に聳え立つ城。
城門の近くまでバタバタと走ってくる足音が響く。
あちこち破けたままの服で、鎖がついた足枷をじれったそうにしながらも構わず走ってきた男は、近くにあった荷馬車に飛び乗った。
「おい! 俺も乗せてくれっ!」
「煩いっ! 兵士が追ってくる! 捕まるわけにはいかねえんだよっ」
ドカッ!
その男の後に乗ろうとした青年は蹴り出され、男は荷馬車の馬に鞭を打ち、急いで馬車を出した。
「うわっ! 待ちやがれ…こんちくしょう!!」
荷馬車はどんどん遠ざかっていく。
「くっそー…」
青年は悔しさを滲ませ、馬車を見つめていた。
数体の機械人間アストラン兵が高速移動しながら馬車を追っている。
男はチラッと後ろを確認すると、数メートル付近まで兵が追ってきていた。
「クソッ! このままじゃ追い付かれちまう」
男は荷馬車に乗っていた樽を転がした。ゴロンゴロンと鈍い音を立てて道端に転がる。
「…ピピ。前方から障害物発生」
追っ手の兵たちは多少横に避けたものの、すぐさま体勢を立て直して馬車を追いかける。
「へッ! これで逃げ切れるな」
馬車と兵たちは裏路地を走り抜けて行った。
転がった樽の一つが、ゴミ捨て場にぶつかって派手に割れた。
すると中から赤髪の子どもが飛び出てきて、道端に投げ出されて倒れた。
頭から薄っすらと流れる血。
薄汚れた衣服と傷だらけの体。
コツン、コツンと足音がする。
そして倒れた子の前で立ち止まった。
ーー気がつくと、俺は日溜まりの中にいた。
眩しくて目を細めながら少しづつ開けてみる。
すると、目の前に大きな絵画が飾られてあった。
これは…天使だろうか。
羽を持つ数人の子どもたちと、薄い羽衣を纏い、背から羽の生えた若い女性。
雲間からは光と共に虹が差していた。
幻想的で美しいその絵に、しばらく見とれていると、背後から声がした。
「それはね、虹の女神様だよ」
不意に声をかけられ驚いて振り向くと、栗色でクルクルした癖っ毛の若い青年が微笑みながら立っていた。
「虹の…女神?」
再びその絵をじっくりと見上げた。
一人一人が生き生きと描かれていて、こちらに向かって微笑みかけているようだった。
そうしていると、シャランと首元から音がした。
花の形に細工された黄金色の首飾り。
七色の輝きを放つ透明な宝石がいくつか埋め込まれている。
「これは…?」
「お守りさ。きっと君を助けてくれるよ。さあ、君もみんなと外で遊んでおいで」
その青年に促され、扉を開けて外に出た。
ーー眩い程の光。
ゆっくりと目を開くと、僅かな光が窓から差し込み、俺の目元を照らしていた。
「ん…」
あれは夢だったのだろうか。それとも…。
胸元に僅かな重みを感じた。
「これは…」
あの時貰ったお守りだった。
「おや、やっと気付いたかね」
小さな部屋のベッドに寝かされていたようだ。
長い白髪で左目に深い傷を持った熟年の男が、優しげに微笑みこちらを見ている。
「いっつつ…」
起き上がろうとすると、頭に痛みが走った。
「これ、無理をするでない。意識が戻ってよかったのう」
「こ…ここは…」
「ここはアダルナピスの路地裏にある儂の仮住まいじゃ。お前さんはの、昨夜近くの路地で頭から血を流して倒れておったんでのう、急いで運び込んだのじゃ。しかし、一体何があったのじゃ?」
「う…ん、えーと…」
しばらく記憶を辿ってみたが、何故か何も思い出せなかった。
「お前さん、名はなんと言うのかね?」
「名…。わからない…」
「そうか…。まあ、とりあえず、少しでも食べなさい」
白髪の御仁は、具沢山の野菜スープを差し出した。
「…ありがとう」
何日かそこでお世話になり、やっと歩けるくらいに回復した頃、一緒に出かけることになった。
なんだか久しぶりに外を歩いた気分だった。
この辺りは工場からの排気ガスや濃い霧のせいで、灰色の常に曇り空のような感じだった。
市場を巡り、身に付けていた腰布にあった僅かな金で服を新調した後、町外れの酒場へと入った。
数個の丸いテーブル席とカウンター席。
まだ昼過ぎだったが、皆笑顔で酒を酌み交わしていた。
「お前さんは、果実水でいいかな?」
「…あ、はい」
まだ酒を飲める歳ではなさそうな俺を見て、白髪の男は気を利かせてくれた。
カウンター席の端に座り、飲み物を受け取る。
「それじゃあ、乾杯!」
少し厚めで透明の器がぶつかり、鈍い音をたてた。
「そういえば、まだ名乗っておらなんだな。儂はザミアと申す。訳あって旅をしている流れ者だ。して、お主は、未だに何も思い出せんのかね?」
「はい…」
「医者にも聞いてはみたんじゃがの、頭の怪我は治ったとしても、強い衝撃を受けたことによる記憶障害が残ることが度々あるらしいでのう」
自分の名前もここにいる理由もわからず、これからどうしたらいいのかと不安が過ぎった。
考え込んでいると店の扉が勢い良く開き、青髪の青年が飛び込んできた。
青髪の青年は店内をざっと見回し、カウンター内の店主に声をかけた。
「すみません。この辺りで赤髪の子を見かけませんでしたか?」
「赤髪の子? さあ、どうだろうね。赤髪ならすぐ分かると思うんだが…」
思い出すようにして答える店主。
「そうですか…」
肩を落として項垂れる青年。
ふと青年は、カウンターに座っていたこちらを見た。
俺はフードを被ったままザミアの影で隠れていた。
だが青年はこちらに近寄ってくる。
「あのー、すみません。この辺りで赤髪の、僕と同じくらいの子を見かけませんでしたか?」
「ん? えーと…」
隣に座っている子をチラッと見たザミアは、素直に伝えていいものか返答に困っている。
「ん?」
青年は何かに気付いたのか、こちらに回り込んできた。
フードの隙間から赤髪が見えたようだ。
「ねえ、君…ああ、やっぱり! 探したんだぞ、リスイア!」
俺の顔を覗き込むとその青年は、安堵の声を上げて抱き付いてきた。
「…リス…イア?」
自分の名なのか、聞いてもピンとこなかった。
「おい、青年。ここじゃちょいと目立つからの。外に出よう」
ザミアは店主に金を払い、自分の隠れ家へと連れて行った。
三人は部屋の中央にあるテーブルを囲い、腰を落ち着けた。
「いやー、ホントにありがとうございます! リスイアを見つけてくれて」
青髪の青年はザミアに頭を下げる。
「いや、よかった。知り合いが見つかってのう。儂はザミアという旅の者じゃ。数日前の晩、倒れていたこの子を見つけて介抱しておったのじゃが、この子は何も覚えていないようでのう…」
「覚えてない? リスイア、一体何があったんだ??」
「わからないよ…思い出せないんだ」
リスイアという名前さえ自分のことなのか分からず、戸惑っていた。
「一時的な記憶障害かもしれんのう。まあ、焦らず見守ってやりなさい」
「そうですか…本当に助かりました。あ、申し遅れました。僕はタブルス。このリスイアとは小さな村で出会い、兄弟のような間柄です。訳があって追っ手から逃れたところ、逸れてしまいまして…」
「そうか…まあ、おぬしらの髪の色を見れば、なんとなく事情は察したがの…」
「はい…。世界でも珍しい色素を持つ子どもたち『イディアペリス』と呼ばれる僕らは、この国の王の手下に監禁されていました」
イディアペリス…? 聞きなれない言葉と、そうだったのかという思いで、リスイアはなんだか他人事のように聞いていた。
「それで、そこから脱出を試みた、と…」
「はい…」
「そういえば遥か昔、この国の古い言い伝えでは『闇世の大地に虹色の人降り立つ時、再び光を取り戻し給ふ』などと言われとったそうじゃのう」
「そのようなこと、僕たちに何の関係があると言うのですか! 僕たちは人里離れた小さな村でも、ずっと迫害を受けてきました。みんなと同じ黒髪に生まれなかったというだけで、どんなに理不尽な思いをしてきたことか!」
「…」
初めて自分の赤い髪を見たとき、綺麗な色だなと一瞬思ったのだったが、この赤髪は周りから見たら珍しく、忌み嫌われるものだったのか。
「人は弱い生き物じゃ。異質なもの、理解に及ばぬものを恐れているのじゃよ。しかしよく生き延びてきた」
ザミアは泣き崩れるタブルスを、優しく抱擁した。
そのような事情を聞いても泣くにも泣けなかったリスイアはただ、その様子を眺めて立ち尽くしていた。